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<title>隠居の思ひつ記</title>
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<description>ボーっとしていると、ふと何かを思いつく。忘れないうちに書き留めておこうと思って、紙と鉛筆を探しているうちに忘れてしまう。運よく忘れなかったことだけ書いてあるブログ。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Tue, 09 Dec 2008 17:33:42 +0900</pubDate>
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<title>号外！「高崎寄席　新町演芸館」</title>
<description>「勝手に紫文応援団」の、迷道院高崎です。同じく団員の昭和２４歳さんも、勝手に応援してましたね。「爆笑、柳家紫文 !!!」で、その柳家紫文師匠が、新町文化ホールで凱旋公演です！毎年定例のこの寄席、今年でもう３年目だそうです。６月６日なんてまだ先の話だなんて、油断しちゃいけません。毎回３５０人ほどの入りだそうです。チケットお買い逃がし無きように！チケットは、下記の施設で購入できます。◆群馬音楽センター　☎027-322-4527◆高崎市文化会館　☎027-325-0681◆高崎シティギャラリー　☎027-328-5050◆箕郷文化会館　☎027-371-7211◆新町文化ホール　☎0274-42-9133◆榛名文化会館　☎027-374-5001◆吉井文化会館　☎027-387-3211◆高崎市倉渕支所　☎027-378-4522◆高崎市群馬支所　☎027-373-1212《お知らせ》「隠居の思ひつ記」は、１週間のお休みを頂きます。【新町文化ホール】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e90784.html</link>
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<category>高崎雑感</category>
<pubDate>Mon, 22 Mar 2010 07:03:38 +0900</pubDate>

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<title>号外！「旧三国街道フットパス網計画」</title>
<description>三国街道　帰り道（１４）の記事に、ふれあい街歩きさんからコメントを頂きました。「話は変わりますが、３月１８日付の上毛新聞「視点」欄に、旧三国街道の歴史的遺産を地域振興に活用する「旧三国街道フットパス網計画」が進められているとの記事が出ていました。」というものでした。実は私も、「おっ！」と思って、切り抜いておいた記事です。寄稿者は、関東森林管理局赤谷森林環境保全ふれあいセンター所長の田中直哉さんです。田中さんは沼田市にお住まいですが、高崎飯塚の分去りから月夜野の金比羅峠まで、旧三国街道を歩かれたとのことです。歩いて感じたこととして、「あと数年ほっておくと完全に読めなくなってしまう石碑や、放置されている史跡が散見され、（略）正直もったいない気がしました。」とあります。田中さんが関わる「赤谷プロジェクト」では、豊かな自然環境や歴史的遺産を地域振興に活用するため、「旧三国街道フットパス網計画」の検討を進めているそうです。詳しくは、新聞記事をご覧ください。高崎も、刻々と歴史的遺産が消えてそうな気がします。何かせねば・・・。前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sun, 21 Mar 2010 07:16:13 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１４）</title>
<description>大乗寺山門左の土堤上に、忠霊塔が建っていますが、なぜか参道に対して裏向きになっています。以前「裏返え碑」という記事を書いたことがありますが、それと同じような理由があったのかなと思いました。ところが、上毛文庫出版の「ぐんまのお寺」を見ると、「戦後、南向きの山門参道が東側に移され・・・」と書いてありました。ということで、戦前は参道が「堤ヶ岡幼稚園」側にあったんですね。前回の記事で、大乗寺を仮校舎として「発育学校」が創設されたと書きましたが、明治二十二年（１８８９）の堤ヶ岡村発足時には、村役場も大乗寺境内に置かれ、戦後、その跡に設置されたのが「堤ヶ岡幼稚園」です。ところで、大乗寺の本堂は戦前まで茅葺屋根だったそうです。そのまま維持できていたら、素敵でしたね。昭和三十年（１９５５）に建てられた「忠霊塔」の裏には、「内閣総理大臣 鳩山一郎」と刻まれたプレートが埋め込まれています。今をときめく、鳩山由紀夫総理大臣の祖父です。塔の下には、日清戦争から大東亜戦争まで、戦死した堤ヶ岡村出身兵士１７９名の名前が刻まれています。その内訳をみると、大東亜戦争が如何に大きな戦争であったかが分かります。・日清戦争１名・日露戦争６名・西伯利亜（シベリア）事変２名・上海事変２名・大東亜戦争１６８名その隣には、明治四十年（１９０７）建立の、「日露戦役記念碑」が建っています。こちらの碑は、大国露西亜（ロシア）に勝利して二年後ですから、建立者も「堤ヶ岡尚武會」、題字は乃木希典の書と、威勢の良さが感じられます。碑の裏には、戦死者６名の他に、従軍者６７名の名前も刻まれています。その従軍者の中に、「三国街道　帰り道（４）」に登場する、「兵隊友さん」こと植木友作さんの名前もありました。大乗寺の墓地の奥まったところに、変わった墓石が建っています。亀の上に乗った墓石です。「堤ヶ岡村誌」の口頭伝承の項には、裏の池にいた亀を石だと思って乗った人が、転んで打ち所が悪かったのでしょうか亡くなってしまい、その人が葬られた墓だと書かれています。また、昔、棟高村に「かめ」という名の娘がいて、生まれつきの不器量のために縁遠く、ついに独身のまま寂しく世を去ってしまい、家人がこの娘の霊を慰めるために建てたのだ、という話も載っています。事の真偽は分かりませんが、まるで違う話が伝わっているということは、古くから無縁仏だったのかも知れません。さて、堤ヶ岡の寄り道はここまで。また帰り道を進むことに致しましょう。【大乗寺】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e90239.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Fri, 19 Mar 2010 07:16:06 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１３）</title>
<description>「山王の猿」の前から少し南へ行くと、「大乗寺」があります。このお寺、「寺院明細帳」では開基・創建由緒不詳となっていますが、代々名主の志村家で所蔵する享保十九年（１７３４）の文書には、開基は志村家の祖・監物尉挙尊（けんもつのじょう・よそん）で、開山は正和元年（１３１２）と記されています。志村家とは、前回の記事で「山王の猿」のことを教えて頂いた、あの志村繁夫さんのお宅です。志村繁夫さんの曾祖父は、志村彪三（ひょうぞう）という人です。この人は、「三国街道　帰り道（７）」の中で、「中野秣場騒動」の仲裁役として一度登場しています。彪三氏は、弘化三年（１８４６）に棟高村で生まれ、１６歳にして亡父の跡を継いで名主になっています。その後、区長、村会議員、県会議員、そして初代・堤ヶ岡村長も務めています。特に、争いごとの仲介に長けていたようで、明治二年（１８６９）中里村と足門村の水争い、明治十二年（１８７９）天狗岩堰の紛擾、そして明治十四年（１８８１）前述の「中野秣場騒動」など、いくつもの紛争の和解に力を発揮しています。そんなこともあってか、村人からは畏敬の念を以って、「志村様」とか「おや玉」とか呼ばれていたそうです。また、彪三氏は教育にも力を入れた人物で、明治五年（１８７２）に学制が頒布されるや、いち早く大乗寺を仮校舎として「発育小学校」を創設します。この時の教頭が「中野秣場騒動」の大総代・真塩紋弥ですから、何とも皮肉というか、彪三氏が仲裁役を買って出た所以だったのかも知れません。「発育小学校」創立当初の児童数は三十数名でしたが、その後「棟高小学校」、「西群馬第十一小学校」、「棟高尋常小学校」、「堤ヶ岡尋常小学校」と変遷する内、明治三十年（１８９７）には児童数二百五十余人と増えていきました。そこで、新たに学校用地を求めて新校舎を建設することになります。ここが、現在の「堤ヶ岡小学校」です。その二年後に、この小学校の教師になったのが、山村暮鳥という訳です。今回もまた、過去記事に登場した人物が、みな繋がり合っているということに、何とも不思議な思いを致しました。郷土の点を線でつなぎ、線と線を結んで面にする。そこに、歴史観光都市のヒントがあるような気がします。（参考図書：「堤ヶ岡村誌」、「ぐんまのお寺」）【大乗寺】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e90190.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Wed, 17 Mar 2010 07:26:16 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１２）</title>
<description>棟高の「胸形神社」を後に、「大乗寺」を目指しました。角を曲がると、庚申塔の並ぶ一角がありました。その中の一つが、目を引きます。何やら、赤と白の布が腰巻風に巻いてあるのです。気になります。そばに寄ってみると、どうやら猿のようです。→「旧三国街道　さ迷い道中記（２）」にも書きましたが、お猿さんは庚申様のお使いなので、それなんだろうな、と思いました。でも、気になるのは赤い腰巻です。めくってみたい衝動に駆られましたが、曰く因縁があったりすると恐いので、誰かに聞いて見ようと思い、近くの「堤ヶ岡公民館」へ行ってみました。事務所の方は、「えー？そんなのがあるんですか？」という反応でしたが、偶々いた大正琴サークルの方から、有力な情報を頂きました。「昔からあの庚申様をお祭りしている家がある。」というのです。早速そのお宅を訪ねると、ご主人らしき方がちょうどお庭の手入中でした。耳がご不自由なようでしたので、筆談での取材となりました。志村繁夫さん、大正十三年（１９２４）生まれの８６歳の方でした。志村さんのお家は、代々この地の名主という家柄で、今でも春と秋に、あの庚申様のお祭りをしているのだそうです。「あの猿の像を、何と呼んでますか？」とお聞きすると、「山王様とか、山王の猿とか言ってらいね。」とのことです。「赤い布は何か意味がありますか？」とお聞きすると、「あー、あれは女の猿なんだよ。娘が初めて女になった時（初潮）に、お赤飯を供えて、猿のあそこ（陰部）に紅を塗るんだいね。あとは、子どもが腹に入った時とか、無事生まれた時とか。お礼に、布を巻くんさ。」というお話でした。志村さんは、「ちょっと、行ってんベー。」と言うと、どんどん歩きだしました。お猿さんの所へ来ると、「これだんべ？」と言いながら、やおら腰巻のひもを解き始めました。「いんですか？」と言うと、「俺がやる分にゃ、いんだい。」ということで、お猿さんはすっかり裸にされてしまいました。なかなか、大胆なポーズです。片方の手は豊満な乳房を支え、いわゆるあそこは、リアルに穴まで開いています。これは、腰巻を巻いておかないといけないかも知れません。すぐ上には「堤ヶ岡保育園」、近くには「堤ヶ岡幼稚園」や「堤ヶ岡小学校」もありますし。写真を撮らせて頂いてから、急いで腰巻を巻き直しました。ところで、「山王様」の総本宮は、平安時代からある滋賀県大津の「日吉（ひえ）大社」です。で、「猿」がそのお使いだということではあるのですが、堤ヶ岡のような風習はなさそうです。「神猿（まさる）」（日吉大社ホームページ）それがいつの頃からか、安産の神として信仰されるようになったのです。江戸時代に建立された、東京永田町の「日枝（ひえ）神社」ではこうなっています。「山王のお猿さん」（日枝神社ホームページ）堤ヶ岡の「山王の猿」は、それらとはまた違うもののように感じられます。そう思いながらネットで探していると、ヒントになるサイトを発見しました。神使研究家・福田博通氏の「山王=大山咋神（オオヤマクイノカミ）の猿」という記事です。ここに書かれている、加茂玉依姫（カモタマヨリヒメ）は、「川上から丹塗りの鏑矢が流れてきたので持ち帰った」と書かれていますが、加茂玉依姫をご祭神とする賀茂神社のホームページではもっと過激で、「川上から赤い矢（丹塗矢）が流れてきて、姫の陰部に突き刺ささった」と書いてあります。堤ヶ岡の「山王の猿」の陰部に穴があいていること、そこに紅（朱）を塗るということは、どうもこの逸話から出ているのではないかと思われます。改めて、昔の人の知識と信仰心の深さを思わせる「山王の猿」でした。最後に、同じような風習のある、船橋八坂神社の猿もご覧ください。「八坂神社の猿像（船橋市）」（けい［Kei］さんのブログ）【山王の猿】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sun, 14 Mar 2010 07:17:25 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１１）</title>
<description>「堤下公園」の山村暮鳥詩碑から坂を登ると、「胸形（むなかた）神社」があります。「胸形」という文字に、つい、あらぬことを想像してしまうのですが、またまた当て字のようでして、胸の形とは関係ありません。伝説によると、この神社の創立は景行天皇五十五年（１２５）だそうですから、１８００年以上も前ということになります。どうもこの辺りには、景行天皇の名前がちらほら登場します。「旧三国街道　さ迷い道中記（１１）」では、「足門」という地名の由来がやはり景行天皇にあるとされていました。因みに、現在の「胸形神社」の社殿は、宝暦二年（１７５２）に再建されたものだそうです。それにしても２６０年前なのですから、大したものです。で、「胸形」ですが、これは「宗像（むなかた）」なのだそうです。遠く九州にある本家本元の「宗像大社」は、航海安全の守護神です。海の無い群馬に、なぜその神様が祀られているのか、不思議な話です。そもそも「胸形神社」は、明治初年まで「八幡神社」と呼ばれていました。お馴染になった堤ヶ岡村の小字名の図を見ると、「胸形神社」のあるところは確かに「南八幡街道」となっています。「八幡神社」が「胸形神社」と改称されたのは、明治七年（１８７４）です。当時、「八幡神社」の祠掌をしていた深井清雄氏が改称を申請したのですが、その願状にはこのように書かれています。　　　「当社ハ中古以来八幡神社ト相称シ候得共　　　　其ノ根元ヲ尋ヌルニ本社ハ筑前国宗像郡神社也」「昔から八幡神社と言ってるけど、その根元は九州福岡の宗像神社なんだよ。」という訳です。また、その根拠について綿々とつづっています。　　　「当国神明帳ニモ群馬西群之内ニ従四位胸形明神アリ、　　　　則チ棟高村ノ鎮座八幡神社也、　　　　祭神ハ右ニ言宗像三坐ニテ、（略）三社現然有之候処、　　　　罹治承四年之災不残焼失」「上野国神明帳にもこの辺に胸形明神があったと書いてあるし、祭神は宗像三女神で、ちゃんと三つの社もあったんだけど、治承四年（１１８０）の災難※１でみんな焼けちゃったんだよねー。」と言っています。※１治承・寿永の乱（じしょう・じゅえいのらん）：源頼朝の挙兵から、平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの内乱。「胸形明神」は、平家方に属した足利太郎俊綱によって焼かれたと伝えられる。さらに、　　　「当今社東ニ名所三社免ト相唱ヘ　　　　棟高菅谷引間三ヶ村一円ニテ現存候上ハ　　　　宗像三社跡の一古微ト奉存候」「この神社の東に三社免という地域があるのは、昔、宗像三社があったという証拠だと思う。」と言うんですね。確かに、小字の図を見ると、右上に「西三社免」と書かれた所があります。全国にある「免」という字のつく地は、年貢を免除されていた所で、寺や神社の近くが多いようです。年貢を納める分を、寺社に寄進しなさいということなのでしょう。根拠の説明はまだ続きます。　　　「且亦近傍土俗ノ遺説ニモ棟高ハ元宗像ナリシヲ　　　　後世ノ人誤テ棟高ト書或ハ唱エ候と古老ノ申伝ヘモ有　　　　之カタタカハ通音ナリ」「ここの地名にしても元は「宗像」なのに、後世の人が間違って「棟高」にしちゃったんですよ、だってほら、「カタ」と「タカ」って音が似てるでしょ。」と必死の説得です。その熱意が通じたのでしょう、見事「胸形神社」に改称することができたんですね。ところで、「海の無い群馬に、何故、航海安全の守護神が？」という疑問ですが。一説には、上野国からの防人が帰還する時に、筑紫国の人とその守護神を連れて来たのだといいます。なぜ筑紫の人を連れて来たかというと、上野国分寺の造営に先進地の技術者が必要であったから、という説です。（近藤義雄氏著「上州の神と仏」より）群馬にいる宗方さんや宗形さんも、もしかするとその時のご子孫なのでしょうか。「胸形神社」は、古代ロマンにつながっていたんですね。（参考図書：「堤ヶ岡村誌」）【胸形神社】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Fri, 12 Mar 2010 07:43:00 +0900</pubDate>

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<title>親父が旅立った日</title>
<description>５年前の今日、親父は旅立ちました。もっとずーっと昔のことのように思えるのですが・・・。明治四十一年（１９０８）生まれ。←１３歳で浅草の両替商へ奉公に出された時の写真だと聞いています。浅草で大震災に遭ってから、本庄に移って床屋の修行に入ります。以来、腕一本で妻と二人の子を養い、７０歳まで仕事を続けました。明治生まれの職人ですから、とにかく短気だったようで、母と姉は大変な思いをしたようです。私は、親父が歳いってから出来たので、あまり短気を起こしている姿を見たことはないのですが、その性格だけはしっかり受け継いでいるようです。負けず嫌いで、スポーツ好きで、花札、麻雀、将棋、囲碁といった勝負ごともめっぽう強かった親父でした。隠居してからもゲートボールに熱中し、部屋の畳は練習のスティックで擦り切れてしまう始末。短気な性格も健在で、公園での練習中に仲間とケンカして帰って来てしまい、しばらくは部屋で寂しそうにしていますが、何日かするとまた出かけていくという毎日でした。そんな親父も、８０歳の時、ケンカ相手だった母を亡くしてからは、部屋でテレビを見る毎日で、週に一回行くデイサービスだけを楽しみにするようになりました。ひたすら、「若いもんに迷惑を掛けない」ということだけを考えているように見えました。旅立った年、偲ぶ会を前に、親父の９７年間を年表にしてみました。→あらためて、時代というものの変化、人間の一生、老いるということの難しさ、などなど、考えさせられることが沢山ありました。最近、自分の年に、親父はどんなことを考えていたのかな、と思うことが多くなりました。雨からみぞれ、そして雪になった今年の命日。明治・大正・昭和・平成という時代を生き抜いた親父に、こんな曲を贈りたくなりました。前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>私事雑感</category>
<pubDate>Tue, 09 Mar 2010 15:20:07 +0900</pubDate>

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<title>号外！「高崎に住んでた山本勘助」</title>
<description>昨年の１２月、「次」か「治」か？の記事に、高崎市史編纂委員の中村茂先生から、こんなコメントを頂きました。「九蔵町大雲寺に武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるので、宣伝して下さい。墓には「菅助」とありますが、「次」「治」と同じく、文字が違っても一向に差し支えありません。甲陽軍鑑が「勘」を使ったので、その後の書物が「勘」を使用しているのです。山本家は山城国淀藩に仕えたが、改易のため浪人となり、大河内家の祖松平信興の土浦藩に就職しました。近く、群馬の森の県立博物館の黒田館長が、館長講座で高崎藩士山本家の由緒を発表します。」えぇっ！？と思いました。山本勘助って、川中島の合戦で戦死したはず。その子孫の墓が高崎にあって、墓には「菅助」と書いてある？頭の中、ぐじゃぐじゃです。で、待ち遠しい思いで待っていた、県立歴史博物館・黒田日出男館長の講座「山本勘助と江戸時代」を、３月６日（土）に聞きに行ってきました。黒田館長のお話では、山本勘助はつい最近まで、架空の人物であるというのが近代歴史学の定説となっていたと言います。ところが、平成二十一年（２００９）六月、安中市原市で薬屋を営んでいた真下家から、山本勘助実在を証明できる可能性のある書状が見つかったのだそうです。調べたら、６月１１日の上毛新聞に、載っていましたのでご覧ください。この文書は、明治維新により禄を失った山本家が、生活のために甲冑などと共に手放したものであろうということです。それが、安中の真下珂十郎の入手するところとなり、真下家所蔵文書として伝来したのだろうという訳です。実はこの文書、明治二十五年（１８９２）に東京大学史料編纂所へ持ち込まれたことがあるのです。持ち込んだのは、山本菅助の十三代目にあたる山本喜三氏でした。ところが、原本は既に売却されていたため、持参したのがその写しだったことから、「偽文書」扱いされてしまったのです。もしもその時、原本が持ち込まれていたなら、山本菅助架空人物説は崩れていたでしょう。その原本が、今になって見つかったのですから、大騒ぎです。黒田館長は、「もはや、山本菅助を架空・虚構の人物とすることは絶対にできない。近現代の歴史学の方が不明を恥じ、菅助に謝らなければならないのである。これは、歴史学が生み出した冤罪だったのだ。」と仰っています。因縁めいた話ですが、黒田館長は元・東京大学史料編纂所長をされていたのです。さて、山本菅助と高崎の関係ですが、四代目山本菅助※１（晴方）が松平家に奉公したことで、元禄八年（１６９５）松平輝貞が壬生から高崎城主として転封されたのに伴い、菅助も五代目以降十二代目の明治維新まで高崎藩に仕えることになりました。※１三代目・山本菅助が、寛永十年（１６３３）下総古河城主・永井信濃守に仕えた折、代々山本菅助を名乗れと命じられ、以降、山本家当主は代々菅助を名乗る。コメントを下さった中村茂先生は、高崎藩史の地道な研究の過程で、藩士の墓を一つひとつ調査・研究されています。その中で、山本菅助の墓を発見されたということで、黒田館長もそのお仕事を高く評価されていました。雨の大雲寺へ、菅助の墓を探しに行きました。正面に「山本菅助之墓」と刻まれてばかりいると思って、墓地を一回りしましたが、見つかりません。二回り目でやっと見つけました。←この一角が、山本家の墓地です。写真が下手で、よく分からないかもしれませんが、「山本菅助入道道鬼七世孫　山本菅助菅原晴生」と刻まれています。→高崎のこの一角に、伝説上の人物と言われてきた山本菅助の子孫が眠っているのです。すごいことではありませんか！歴史を塗り替えることになるこの遺跡を、高崎市が持っていたことに、驚きと、誇りを感じます。そして、その貴重な歴史遺産を掘り起こして下さった、中村茂先生と、黒田日出男館長に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。最後に、心に残った黒田館長の言葉をご紹介いたします。「歴史研究は時間との戦いです。　今この瞬間にも、歴史資料はどんどん失われています。　論文を書くことが歴史研究の仕事ではありません。　歴史資料を確保し、残すことが　歴史研究の最も大切な仕事です。」【大雲寺　山本菅助子孫の墓】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>高崎雑感</category>
<pubDate>Mon, 08 Mar 2010 00:21:27 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１０）</title>
<description>棟高町の「堤下公園」の一角に、こんな写真の付いた石柱が建っています。誰だろう？と思いましたが、写真の下に「山村暮鳥詩仙」と刻まれていたので、「あぁ、山村暮鳥ね。」と思いつつ、どういう人かほとんど知らない自分に気づきました。恥ずかしながら、傍らの碑文を読むまで、旧群馬町出身の人だということすら知りませんでした。碑文によると、暮鳥は「明治十七年（１８８４）一月に群馬町棟高に生まれ、本名木暮八九十で後に土田姓となる。」とあります。しかし「堤ヶ岡村誌」によると、もっと複雑な経緯があるようです。戸籍上は、棟高村・志村庄平の二男・八九十（はっくじゅう）となっていて、木暮姓ではありません。そして実のところは志村庄平の二男でもなく、庄平の長女・シヤウ（しょう）の長男なのだそうです。暮鳥には妹がいますが、その妹・アサは明治二十一年（１８８８）の生まれで、シヤウの私生児として届け出されています。暮鳥も、そのような複雑な生い立ちであったのでしょう。母親のシヨウはその翌年に総社村に嫁いでいますが、その相手が木暮久七という人で、暮鳥はそこの養子となって木暮姓に変わる訳です。そして、土田姓になるのは暮鳥２９歳の大正二年（１９１３）、師事している牧師の娘で、１８歳の土田富士と結婚してのことでした。暮鳥は、この富士にぞっこんだったようで、こんなのろけ話を書き残しています。「牧師の秘蔵の一人娘なんです。（略）性質は温良、輪廓も整ってゐます。不思議な匂ひのある黒い長い髪毛。皮膚の光沢。愛嬌の蟻地獄の靨（えくぼ）。活々した眼。可愛らしい口辺。」（秋田魁新報より）いいかげんにしろ！と言いたくなるほどです。碑文にはまた、「幼くして秀才の誉れ高く、十六歳の時に堤ヶ岡小学校の代用教員となる。」とあります。しかし、堤ヶ岡小学校に残る当時の履歴書には、明治十五年生まれとなっているそうで、どうやら年齢を二つほど多く誤魔化していたようです。詩碑に刻まれているのは、暮鳥の処女詩集で、その名もものすごい「三人の処女」という中の一篇です。　　「独唱」かはたれのそらの眺望（ながめ）のわがこしかたのさみしさよ。そのそらのわたり鳥、世をひろびろといづこともなし。そうそう、小学校の教科書に出てきたこの詩が、暮鳥の詩だったということをすっかり忘れていました。　　　　おーい雲よ　　　　ゆうゆうと　ばかにのんきそうじゃないか　　　　どこまでゆくんだ　　　　ずっと　いわきだいらの方まで　ゆくんかはっきり言って、当時は「なんのこっちゃい？」という感じでしたが、今、この詩は３つの部分に分かれていることを知りました。　　「雲」　　　　丘の上で　　　　としよりと　　　　こどもと　　　　うつとりと雲を　　　　ながめてゐる　　「おなじく」　　　　おうい雲よ　　　　いういうと　　　　馬鹿にのんきさうぢやないか　　　　どこまでゆくんだ　　　　ずつと磐城平の方までゆくんか　　「ある時」　　　　雲もまた自分のやうだ　　　　自分のやうに　　　　すつかり途方にくれてゐるのだ　　　　あまりにあまりにひろすぎる　　　　涯（はて）のない蒼空なので　　　　おう老子よ　　　　こんなときだ　　　　にこにことして　　　　ひよつこりとでてきませんかそれでも、まだ分かるような、分からないような・・・。でも、この「雲」という詩集の序文を読んで、何となく分かるような気持にもなりました。「人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。　そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。」暮鳥は、この詩集「雲」を編集中の大正十三年（１９２４）、茨城県大洗町にて４０歳の若さでこの世を去ります。山村暮鳥というペンネームは、詩人・人見 東明（ひとみ とうめい）から、「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて、つけてもらったものだそうです。小学校の先生、こんなエピソードを話してくれていたら、暮鳥のこと忘れなかったのになぁ、と、何でも人のせいにする迷道院でした。（参考図書：「群馬町誌」）【堤下公園　山村暮鳥詩碑】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sun, 07 Mar 2010 07:47:06 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（９）</title>
<description>堤ヶ岡の小字名の図の中に、「旧飛行場」と書いてある所があります。ここが、終戦直前に特攻隊の飛行訓練を行っていた「堤ヶ岡飛行場」です。「堤ヶ岡飛行場」建設の動きが俄かに起こったのは、日本の戦局がそろそろ怪しくなっってきた昭和十八年（１９４２）のことでした。陸軍航空本部の井上廣也主計大尉が、飛行場建設の説明のため堤ヶ岡村へ来ると、あっという間に、農民は土地売り渡しの調印をすることになります。その結果、堤ヶ岡村１３６ha、国府村２２ha、中川村2haの合計１６０haが飛行場建設用地となりました。現在の地図にその区画を描いてみると、こんな感じでしょうか。→売り渡しとは言うものの、支払は全て農地証券で行われたため、現金として受け取った人はほとんどいなかったようです。終戦後、未払代金の請求を行っても、なかなか支払はなされなかったと言います。そんな飛行場の建設は突貫工事で行われ、昭和十九年（１９４３）三月には初めての飛行機が着陸しますが、滑走路は金網を敷いただけの俄か造りだったそうです。八月になると、「宇都宮飛行学校前橋教育隊」という呼称になり、特別操縦見習士官１５０名が入隊、少年飛行兵８０名も古河から転属してきます。訓練中の飛行機が、神社の屋根を壊したり、民家に墜落したりという事故もありました。九月末には少年飛行兵は南方へ出発し、十月になると前橋教育隊は閉鎖、「熊谷飛行学校前橋分教場」と呼び名が変わります。その分教場も昭和二十年（１９４４）二月に閉鎖されて、中島飛行機製作所（現・富士重工業）の分工場が疎開してきます。そこで製作を始めたのが、当時の最新鋭戦闘機・疾風（はやて）でした。昭和二十年（１９４５）三月、「堤ヶ岡飛行場」に到着したのが、特別攻撃隊「誠（まこと）隊」（通称：正気［せいき］隊）の３６名です。その月の二十六日に堤ヶ岡を後にした誠隊の隊員は、翌月、宮崎県新田原から出撃して沖縄洋上に命を散らしていきます。誠隊が堤ヶ岡を離れる直前、高崎女子高等学校の女学生三人が慰問に訪れ、手作りの人形を隊員に手渡しています。その人形が、鹿児島県の知覧特攻平和会館に展示されているそうです。また、第三七誠隊の小林敏男隊長の日記には、次のような短歌が残されています。　　　赤城山　頂く雪の溶け初めて　　　　　　　　　　　光のどけき　春訪れぬ　　　故郷の　筑波の山の小さきに　　　　　　　　　　　二十五年の　生命を想ふ終戦間近になった昭和二十年（１９４５）七月、「堤ヶ岡飛行場」上空にグラマン戦闘機六機が飛来し、飛行場とその周辺を銃・爆撃します。同じ時期に、所沢から「陸軍航空輸送部第九飛行隊前橋派遣隊」（奥村隊）８３名が転属してきます。まだ年端もいかぬ、十七・八歳の少年ばかりでした。金古の常仙寺本堂を宿舎にして一か月の飛行訓練の後、八月に特攻隊として編成されますが、終戦のため出撃することはありませんでした。終戦後、「堤ヶ岡飛行場」跡地には米軍が駐留しますが、その後、開拓の許可を得て農民の手に戻ることになります。この記事トップの、小字名の図の中に「入植地」とあるのが、その開拓地です。戦争に翻弄された、堤ヶ岡の二年間でした。今、そんな歴史も忘れ去られようとしていますが、貴重な戦争遺跡として、何らかの形で語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。「堤ヶ岡飛行場」に関するリンク集を、以下にまとめておきます。◇「貴重な堤ヶ岡飛行場の写真見つかる」（群馬県県民レポート）◇「戦争の実相を語りつづける遺跡」（Yahoo!JYAPAN週間特集）◇「特攻　出撃前、人形と血書」（YOMIURI ONLINE）◇「堤ヶ岡飛行場について」（高崎市市民の声）（参考図書：「群馬町誌」）前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Fri, 05 Mar 2010 07:31:56 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（８）</title>
<description>「真鹽紋彌翁之碑」から、諏訪神社の下をぐるっと回って、三ツ寺公園へ行ってみました。ローラー滑り台や、ターザンロープがあって、子どもと一緒に楽しめそうな公園です。それにしても、大きな公園です。緩やかな傾斜の公園を上って行くと、カワセミもやってくる「石上寺」下の日本庭園へ、その上は水鳥の遊ぶ「三ツ寺堤」で、旧三国街道沿いには、さらに新しい園地を造成中です。ローラー滑り台に上ってみると、池の形が群馬県の形をしていました。→中島川に沿って下って行くと、ピンクのゴリラが建物によじ登ってましたが・・・。↓べつに、いいんですよね。土管を発見して俄かに童心に返り、誰も見ていないのを確認して入ってみましたが、ただ苦しいだけでした。↓　　　　三国街道の下をトンネルで潜ると、「堤下公園」に行けます。「三ツ寺堤」の下の方にあるので「堤下」と付けたのでしょうが、小字の「堤下」は「三ツ寺堤」に接した南側で、「堤下公園」の所ではありません。現在の「堤下公園」の場所は、小字名でいうと「谷田」になるようです。ところで、小字名というのは面白いですね。その土地に住む人たちが、普段の暮らしの中で名付けた、いわば「土地の屋号」です。図を見ると、あちこちに「〇〇街道」というのがありますが、「街道」とあるものの、どうやら道の名前ではなさそうです。右の方には「万年貝戸」と書かれている所があります。この「貝戸」と「街道」、いずれも「かいと」または「かいど」、訛って「けぇど」などと発音されます。その音（おん）に、「貝戸」や「街道」の字を当てただけなんだそうです。場合によっては、海もないのに「海道」という字を当てていることもあります。じゃ、その「かいと」とは、いったい何かということです。因みに、パソコンで「かいと」と入力して変換すると、「垣内」という漢字が出てきます。大辞林では、「垣内（かいと）」の意味をこの様に解説しています。「【かきつ】の転。土地の区画の呼び名。本来は、将来田畑などに開墾する予定で囲い込んだ土地のこと。現在は、小規模の集落あるいはその中の一区画の家群をさしたり、一区画の屋敷地や一区画の耕地などをさしていう。」つまり、「かきうち」→「かきつ」→「かいと」、となった訳です。この「かいと」が地方へ来ると訛って、「かいど」→「けぇど」→「けぇどう」で、「街道」という字を当ててしまったのでしょう。群馬地名研究会々長の澤口宏氏によると、地名のほとんどは当て字だそうで、漢字の意味に余り捉われない方がいいようです。そういう意味では、最近流行りの「ひらがな地名」も、そう嘆くほどでもないのでしょうか？でもなぁ・・・。【三ツ寺公園】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e87183.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Wed, 03 Mar 2010 07:38:07 +0900</pubDate>

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<title>号外！「紫文の視点」と「ひたじ飯」</title>
<description>ちょっと日が経ってしまいましたが、上毛新聞のオピニオン２１に、２回目の柳家紫文師匠の視点が載っていました。大間々の「ながめ余興場」、確かに素晴らしいですね。このような建物を残してきた、大間々という町の文化度の高さに敬意を表します。それにつけても、と、それらを残してこなかった我が高崎を、ついつい残念に思ってしまうのですが・・・。紫文師匠は、「サライ」３月号で「市中見廻り食日記」と題して、江戸の粋なお店の紹介もしています。そろそろ、高崎のご紹介もお願いしたいところなのですが・・・。観光課の方、観光協会の方、観光業界の方、情報誌関係の方、ご検討よろしくお願い申し上げますです。同じ日の「三山春秋」に、もうひとつ興味深い話が載っていました。作家・坂口安吾の母親の味「おけさ飯」が、高崎に住む村山京子さんの家に「ひたじ飯」という名前で伝わっているというのです。どんなご飯なのか、ネットで「ひたじ飯」を検索しましたが、何もヒットしません。「おけさ飯」ではいくつかヒットしますが、写真までは載っていません。「三山春秋」の文中には、村山さんが昨秋投稿した記事があると書かれているので、そこには写真があるかも知れません。早速、上毛新聞社に問い合わせてみると、９月３日付けの新聞だということが分かりましたので、図書館へ行って記事を見つけたのですが、残念ながら写真は載っていませんでした。そこでふと思ったのが、「ひたじ」とは、もしかして「したじ」ではないかということです。お醤油のことを「おしたじ」とか「したじ」とか言いますので、ご飯にかける「すまし汁」が、お醤油の汁ではないかと思ったのです。そこで、「したじ飯」で検索してみたら、ヒットしました！みなみ7017さんのブログ、「今日の食い意地inにいがた」に写真が載っていますので、ご覧ください。「したじ飯」というネーミング、いいですね。「面、珍、短」のセオリー通りのネーミングです。ところでみなさんは、高崎名物の食べ物って、何を思い浮かべますか？「ひたじ飯」と「たてっけえし」、高崎名物にしてみませんか？駅構内のうどん屋さん、駅前のうどん屋さん、観音山の茶店屋さん、ご検討よろしくお願い申し上げますです。前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>高崎雑感</category>
<pubDate>Mon, 01 Mar 2010 23:22:42 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（７）</title>
<description>前回、「中野秣場（まぐさば）騒動」のきっかけは、明治六年（１８７３）に「中野秣場」が国有地になったことだと書きました。国有地になったことで、野付、札元、札下という不平等な「秣札」制は廃止され、入会の村々は公平に「秣場」を利用することができるようになりました。秣税についても、「秣場」全体に掛けられた１６８円９８銭を、８２ヶ村の戸数や人口などにより割り付けて、各村々が負担することとなりました。これだけ見れば、実に平等な制度になったと言えましょう。ところが、明治八年（１８７５）、地租改正のための測量が行われた際、「中野秣場」３１００町歩の内、松ノ沢村の飛び地４７町歩だけが、なぜか松ノ沢村の官有地として登録されます。これが、後々の騒動の火種となる訳です。松ノ沢村では、その４７町歩の土地を「部分木地」※１として県に申請します。明治十二年（１８７９）に許可を取得した松ノ沢村は、「部分木地」への植林を始めるとともに、その周辺に標杭を立てて、他村民の立ち入りを禁止したのです。※１．部分林：国有林野に、契約によって国以外の者が造林し、その収益を国と造林者が分けあう林地。（大辞林）そのことを知ってか知らずか、明治十三年（１８８０）七月、行力村の農民が「部分木地」に侵入し、松ノ沢村民に咎められて警察沙汰になるという事件が起こります。また同じ月に、今度は浜川村の農民が「部分木地」の雑木を伐採して、松ノ沢村民に捕えられて没収されるという騒ぎもありました。この事件が、日頃から松ノ沢村に対して不快感を抱いていた、他村の農民たちの気持ちに火を付けてしまいます。松ノ沢村内の官有地は、もともと数百年の昔から「中野秣場」の入会地であり、松ノ沢村だけが独占すべきものではない、という気持ちが一気に噴出したのです。白川の河原に集結した数千人の農民は、松ノ沢村の「部分木地」に入って手当たり次第に伐採を始めます。高崎警察署の鎮撫にもかかわらず、この騒動は５日間も続きました。松ノ沢村を除く８１ヶ村の代表たちは、浜川の来迎寺に集合して話し合いをしますが、その時、大総代に選出されたのが、４２歳の真塩紋弥です。真塩らは、棟高村の県会議員・志村彪三の仲裁で、松ノ沢村との間に和解約定書を交わすことに成功しました。約定書には、（１）松ノ沢村の「部分木地」を官有地にしたことを取り消す。（２）「部分木地」に植えた木は役所の許可が下り次第、伐採する。などの項目があり、これで従前通りの「秣場」になるはずでした。ところが、（２）項の役所の許可がいつまで経っても下りてきません。そうこうしている内に、松ノ沢村は先の和解を破棄し、逆に他の村々を訴える挙に出たのです。ここに、騒動はまた再燃してしまいます。明治十四年（１８８１）三月、８１ヶ村の代表たちは福島村の金剛寺に集結し、「部分木地」の伐採強行を決議します。これに対し県は、警察ばかりか軍隊の出動まで準備して、鎮圧に乗り出します。真塩紋弥と福島村・青木亀吉は東京の内務省に駆け込み、事件の真相を内務卿・松方正義に直訴しようとしますが、待ち構えていた警視庁により逮捕されてしまいます。熊谷裁判所前橋支庁は、真塩紋弥に対し凶徒嘯聚（しょうしゅ）※２罪で懲役二年半、讒謗律（ざんぼうりつ）※３違反で禁獄三十日の判決を言い渡します。そうして真塩紋弥が投獄されたのが、あの岩鼻監獄でした。その後、三ツ寺村民による保釈請願もあって、明治十七年（１８８４）刑期途中で保釈されます。※２．嘯聚：呼び集めること※３．讒謗律：明治8年（1875）明治政府によって公布された言論統制令。自由民権運動の隆盛に伴う政府批判を規制するため、人を誹謗する文書類を取り締まった。（大辞泉）獄を出た真塩紋弥は、再び教育の道に戻るものの徐々に家運傾き、明治四十三年（１９１０）鬼石町に移住し、翌、明治四十四年（１９１１）７４歳の生涯を閉じます。墓は、生まれ故郷の稲荷台、真塩家墓地の一角に隠れるように建っており、なかなか見つけることができませんでした。ロウセキで文字をなぞってみたら、台石に「門人之を建つ」と刻まれていました。（参考図書：「群馬町誌」「群馬県史」「騒動」）【真塩紋弥の墓】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sat, 27 Feb 2010 07:59:47 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（６）</title>
<description>ちょいと用事が重なり、投稿に間が空いてしまいました。棟高の観音寺を後に「堤下公園」まで来た所で、確かこの辺に真塩紋弥の碑があるということを思い出しました。真塩紋弥は、「切干塚」の不思議にも登場した人物です。「堤下公園」の信号を西に入ってすぐの三叉路に、「真鹽紋彌翁之碑」は建っていました。真塩紋弥は、天保九年（１８３８）稲荷台に生まれ、後に三ツ寺に移ります。幼い頃から学問を好み、十九歳の時、江戸下谷の成島図書頭（なるしま・ずしょのかみ）の塾で漢籍を学び、文久三年（１８６３）三ツ寺に戻って私塾「芳叢（ほうそう）書院塾」を開きます。明治六年（１８７３）に設立された、棟高小学校最初の正教員就任を機に塾を閉じますが、その間に三百数十人という多数の門弟を輩出しています。この碑は、大正二年（１９１３）に門弟たちが建てた顕彰碑です。真塩紋弥といえば、明治初期に起きた「中野秣（まぐさ）場騒動」を書かない訳にはいきません。が、これがなかなかややこしい話なんです。そもそも、「中野秣場」とは何だという話です。箕郷町から榛東村にかけた、榛名山東麓の３１００町歩（約３１００ha）に及ぶ林野をそう呼んでいたそうです。「秣（まぐさ）」とは、馬の餌にする草のことで、たぶん「馬草（まぐさ）」なのでしょう。その「秣」を取る場所なので、「秣場」となります。農業用機械も化学肥料もなかった当時の農業において、草は馬の餌に、落ち葉は堆肥に、枯枝は燃料にと、必要不可欠な資源でした。それらの資源は、山間部の農家は自村で豊富に入手できますが、平地の農家ではそうはいきません。そこで、平地の農家にも共同利用できるようにしたのが「入会地（いりあいち）」と呼ばれる山間部の土地で、「中野秣場」は江戸時代から続く「入会地」でした。「秣場」とはいうものの、馬の餌だけでなく、肥料や燃料をも入手する重要な場所だったのです。右の図は、「中野秣場」を利用していた村々を描いています。ずいぶん遠くの村まで利用していたことが分かります。ただ、どの村も同じように利用できたという訳ではありません。「秣場」をもつ村は「野付（のつけ）村」といい、「秣場」への出入りは自由にできます。「野付村」に隣接する村は「札元（ふだもと）村」といい、「秣場」への出入りは自由でしたが、領主に「秣税」を納める義務があります。上記以外の村は「札下（ふだした）村」といって、「札元村」が発行する「秣札」を購入しなければ利用することができません。「札元村」は、この「秣札」の売り上げの８割を、領主に納めていたのです。それでも、この方法で特に問題が発生することはありませんでした。騒動になるきっかけは、明治六年（１８７３）、「中野秣場」が国有地になったことでした。長くなりそうですので、この続きは次回に致します。（参考図書：「群馬町誌」「群馬町の文化財」「群馬県史」）【真鹽紋彌翁之碑】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Wed, 24 Feb 2010 07:27:32 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（５）</title>
<description>迷道院高崎としては極々珍しい、食べ物ネタです。←棟高の「観音寺」近くの、「おうで饅頭本舗　観音寺屋」さんです。でも、「おうで」って・・・、何でしょう？「おうで」さんという名のおばあちゃんが、作ってる？それとも、「大きな手」のご主人が、作ってる？・・・考えても分からないから、買ってみました。これが、「おうで饅頭」です。　　→右のが「ねぎっぱ饅頭」（１００円）、ほの甘い皮にネギが練り込んであるんですって。中には、くるみ味噌が入っています。左のは「山菜みそ饅頭」（１００円）、皮に山菜が練り込んであって、中は甘辛味噌です。食べ物ネタに慣れていないので、上手く表現できないのですが、「お饅頭の、ふるさと小包便やー！」って感じでしょうか。早い話「美味い！」です！で、「おうで饅頭」ですが。女将さんに聞いてみました。そしたら、「茹（ゆ）で饅頭」のことだそうです。お饅頭は普通「蒸（ふ）かす」と言いますが、同じ意味で「茹（ゆ）でる」とも言い、それを上州弁では「うでる」と言います。それに「お」を付けて、「おうで」だったんですね。ストンと、胃の腑に落ちました。私は、お使い物を買う時以外は、あまりこういうお店に入りません。生来の貧乏性で、買い食いというのに慣れていないのです。そんな私が、ふらっと引き寄せられてしまった「おうで饅頭」。ネーミングというのは、すごい力があるもんですね。ところで常々、キャッチフレーズやネーミングのポイントは、「面・珍・短」だと思っているんです。面白い、珍しい、短い、ってことですね。で、私が盛んに高崎名物にしたいと思っているのが、「たてっけえし」です。「おきりこみ」を一晩おいて、翌日「たてかえした」（温め直した）ものです。汁がトロトロになって、美味しいんですよね。駅前のうどん屋さん！メニューに加えてみませんか？店先に「高崎名物　たてっけえし」と染め抜いた幟と、「たべりー」と書いた看板を立ててごらんなさいまし。観光客が、ふらっと引き寄せられてくること間違いありませんから。間違いないと・・・思います。・・・間違い、ないんじゃないかな？そんなような気が・・・。はい・・・すみません　m(_ _)m【おうで饅頭本舗・観音寺屋】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e83895.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Fri, 19 Feb 2010 05:41:48 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（４）</title>
<description>たったひとつの「豆腐来由碑」から、沢山のお話が続きます。今回は、碑の建立者・飯島靱負（ゆきえ）氏の二男・国衛（くにえ）さんのお話から判明した、「旧三国街道　さ迷い道中記」に登場した人と物の、不思議なつながりのお話です。まず、「三国街道　帰り道（１）」に出てくる「観音寺」の「経蔵」ですが、あれを寄贈した飯島富雄氏は、国衛さんの一番上のお兄さんなのだそうです。つまり、靱負氏のご長男だった訳です。しかも、「観音堂」の傍らに建つ観音像も、富雄氏の寄贈だそうです。　　→さらに、足門の「徳昌寺」境内に建つ観音像は、靱負氏の二男・誠氏の寄贈でした。　　→陸軍大尉だった誠氏が、ニューギニアの激戦で亡くなった戦没者の慰霊のために建立したものです。傍らに建つ石碑には、ニューギニア戦線に派兵された１３万余名の内、１２万余名が戦死したと刻まれています。９割強の人たちが、亡くなってしまったんですね。群馬県下の戦没者は９，２３０名、その内旧群馬町出身者は１２２名だそうです。それにしても、親子二代に亘っての私財を投じた寄進、実に頭の下がる思いがします。父・靱負氏の背中を見て育ったからこそ、成した財を独り占めすることなく、神仏や郷土への報恩に用いたのでしょう。いや、神仏や郷土への功徳が、その人へのご利益として財を成さしめたのかもしれません。ということは、成した財を自分の為だけに使おうなんぞと考えると・・・。・・・そういうことです。不思議なつながりは、まだ続きます。飯島富雄氏の著書・「観音寺誌　祖徳流芳」には、「旧三国街道　さ迷い道中記（１０）」で紹介した「仙太郎稲荷」の写真が載っていました。さらに、この写真が「仙太郎稲荷」かどうかを確認して頂いた植木元治氏という方と、「豆腐来由碑」との間にも、つながりがあったのです。あの「豆腐来由碑」を築造したのが、植木元治氏の父・植木友作（ともさく）氏だったのです。この友作氏もまた、伝説的な人物だったようです。明治六年（１８７３）生まれの友作氏は、立派な体格の持ち主で、徴兵検査も甲種合格、日清・日露の両戦に参戦し、二百三高地の激戦において目覚ましい軍功があったということです。それにより、功七級金鵄勲章と勲八等白色桐葉章を授かっています。そんな剛の者でありながら、非常に多趣味で頓知がきき、手先の器用な人で、人形造りは名人と言われる腕前でもありました。また、活花は代々竹望斉を名乗る家柄で、友作氏はその十九代目です。そして、最大の特技は造園・築山だったそうで、「豆腐来由碑」を含め「観音寺」境内の碑のほとんどは、友作氏の築造といいます。「兵隊友さん」と呼ばれていた友作氏は、昭和二十年（１９４５）の敗戦にも、「日本は決して負けることはない。その内に神風が吹く。」と、なかなか敗戦を納得しなかったそうです。また、「自分の死は第三回目の出征だから、軍服を着せ軍靴を履かせ、集まって下さった方々には大いに祝って戴くよう、十分酒も用意し軍歌を歌って見送って頂き・・・」と、よくよく言い遺していたといいます。昭和三十三年（１９５８）、八十六歳の天寿を全うされました。戒名は、偕雅院築山道誉居士。第二十代竹望斉を継いでいる植木元治氏も、造園・築山をよくし、自ら「『植木の元を治める』という名を付けてもらったのも、これを天職にせよということなのだろう。」と仰っていました。それにしても、不思議なつながりでした。人と人との関わり合いは、偶然のように見えて、実は必然的に繋がり合っているのかも知れません。大切にしなければいけませんね。（参考図書：「観音寺誌」）前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e83778.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Wed, 17 Feb 2010 05:11:46 +0900</pubDate>

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<title>号外！「降りてゆく生き方」</title>
<description>映画「降りてゆく生き方」を見てきました。ＤＶＤ販売もせず、ＴＶ放映もせず、口コミだけで上映しているという映画だそうです。今日も、いわゆる映画館ではなく、群馬県社会福祉総合センターのホールでの上映でした。筋書きはあまりここで紹介しない方がよいらしいので、公式サイトをご覧ください。映画そのものは、もう少し力を抜いてくれた方が、私好みだったかなぁと思いますが、なかなか考えさせられる内容ではありました。映画で提案する「降りてゆく生き方」は、私と同年代の人には共感する方が多いかも知れません。でも、坂には下り坂と同じ数だけ、上り坂も存在します。「登ってゆく生き方」をしている人がいるおかげで、「降りてゆく生き方」ができるのかも知れませんし、その逆もあるのかも知れませんね。そういう意味では、上映後の寺田啓佐（けいすけ）さんのお話が、面白く感じました。寺田さんは、千葉の造り酒屋「寺田本家」のご主人です。映画の中に出てくる、造り酒屋さんのモデルになった人です。寺田さんの言うには、本来の酒造りには、雑菌を含めて多種多様な微生物が存在する必要があるのだそうです。そしてそれらの微生物は、酒蔵の中のそれぞれが心地よいと思われる場所に住んでいて、自分の出番が来るのを待っている。そして、自分の出番が来た微生物だけが酒樽の中で働き、役目が終えたらスーッと消えていく。するとまた、次の微生物が働き出す、というバトンタッチが次々に行われて発酵が進んでいくのだそうです。寺田さんは、「微生物たちの世界は、自分と異なるものや嫌いなものを排除したりしないで、支え合いながら仲良く生きているように見える。」と言います。また、「微生物たちがお互いに支え合わなくなって、バランスが崩れた時、腐敗が始まる。」とも言います。微生物を人間に置き換えてみると、なかなか示唆に富むお話です。私がつべこべ言うより、寺田さんの著書を読まれた方がよいかも知れませんが、本の中からひとつだけご紹介しましょうか。「その昔日本にあった『噛み酒』とか『口噛みの酒』と言われるものは、人がご飯を噛んで吐き出したものに水を加えて作った酒だ。（略）実験では、男性１０人のグループが噛んで造った酒と、女性１０人のグループが噛んで造った酒を比べてみた。すると、女性グループが噛んだ酒はとてもおいしく醸し出された。しかし、男性グループが噛んだ酒は、何と腐ってしまったのだ。（略）世の中に男と女が存在する意味を深く考えさせられる出来事であった。」トークショーの後、寺田さんにサインをお願いしたら、気軽に応じてくださいました。そこには「何があっても　笑っちゃう」と書かれていました。著書を読むと、この後に「どんなときでも　ありがとう」という言葉が続きます。微生物から教わった、人間が腐敗しないで発酵する（幸せになる）ための究極の言葉だそうです。優しい笑顔と話し方の、とても素敵な方でした。「ありがとうございました。」前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e85160.html</link>
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<category>私事雑感</category>
<pubDate>Mon, 15 Feb 2010 23:17:53 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（３）</title>
<description>棟高の「観音寺」境内にある、「豆腐来由碑」の建立者・飯島靱負氏のことを、もう少し知りたくなりました。飯島氏の旧姓が岸であったということと、お豆腐屋さんだったということから、金古にある「岸とうふ店」と何らかの繋がりがあるのではないかと思い、訪ねてみました。小料理屋のような佇まいの「岸とうふ店」です。外壁にはモダンな壁画が描かれていて、美術館風でもあります。ご主人にお尋ねしたところ、直接の関係はないとのことでした。しかし、貴重な情報を教えて頂きました。飯島靱負氏の弟さんが、棟高町にいらっしゃると言うのです。早速教えられた家を訪ねたところ、弟さんではなく、靱負氏の三男・飯島国衛（くにえ）さんでした。国衛さんは快くお話をして下さいました。今まで読めなかった靱負というお名前は、「ゆきえ」と読むことも分かりましたし、その波乱万丈たる生涯についても知ることができました。飯島靱負氏の生涯を語るには、そのご両親の話から始めなければなりません。靱負氏の父は、この界隈の財産家で名主の岸家の末息子・友造氏です。母・ナベさんもまた、絹織物商の財産家・飯島家の一人娘でした。友造氏は、なかなかに我儘な人物であったようです。飯島家としては、一人娘に婿を取って後継者にすることを希望しますが、友造氏はあくまでも岸を名乗ることを条件にしたため、名目は嫁取り、実態は婿入り、という複雑なことになります。つまり飯島家は、これを以ってお家断絶という形になってしまった訳です。裕福な家柄に育った友造氏は、仕事よりも道楽に熱心であったといい、さしもの財産もいつか底をついてしまいます。そのためもあってか、次男として生まれた靱負氏は、婿に出ます。しかし、身長１７３ｃｍ、体重８０ｋｇという巨漢であった靱負氏は、大食漢でもあったようで、それを理由に離縁されてしまうのです。その後もう一度婿に出ますが、同じ理由で離縁されたのに懲りて、今度は一本立ちして腹いっぱい飯を食べたいと考えます。金古の野村ヤスさんを娶った靱負氏は、断絶になった母方の飯島姓を継ぎますが、近所の家の物置を借りての世帯は困窮を極めたようです。いろいろな商売に手を出しましたが、なかなかうまく行かず、最後に、当時は下商売と考えられていた豆腐屋を始めます。勤勉でアイデアマンの靱負氏と、働き者のヤスさんの努力が実り、店はとんとん拍子に売り上げを伸ばしていきます。手作業だった大豆のすり潰し作業を動力化したり、つるべ井戸からの水の汲み上げを電動ポンプ化したり、天秤棒を担いでの販売を自転車販売にするなど、すべて靱負氏が業界で初めて取り入れたことだそうです。最盛期には、２軒分にあたる豆腐製造設備を備え、併せて雑貨販売や精米も行うなど、百貨店並みだったようです。番頭と３人の小僧を雇っていましたが、それでも人手が足らず、９人いた子どもにも手伝わせるほどの忙しさだったと言います。この様な人生でしたから、靱負氏が豆腐に対して強く感謝の念を抱いたのは、当然だったかもしれません。その思いから、忙しい商売の合間を縫って豆腐の由来を調べ、建立したのが「観音寺」境内にある「豆腐来由碑」だったのです。しかし、靱負氏がそれほど感謝し励んでいた豆腐店を奪ったのは、戦争でした。モーターを回す電気供給もままならず、鍋・釜の金属類は供出せねばならずということで、ついに廃業せざるを得なくなりました。靱負氏の無念は、如何ばかりであったかと、心が痛みます。やっと戦争が終わった昭和二十年（１９４５）、靱負氏は戦地から復員してくる息子に美味い物を食べさせたいと、高崎目指して自転車を漕いでいました。当時の三国街道は、チンチン電車が走っており、軌道内は未舗装でえぐれたような状態だったそうです。靱負氏が家を出て間もなく、相馬ヶ原に駐留していた進駐軍・ＭＰのジープが、後方から煽るように接近して来ました。靱負氏は危険を感じて軌道内から出ようとしますが、レールに阻まれて出ることができません。進駐軍のジープは止まることなく靱負氏を跳ね飛ばし、そのまま走り去ってしまったそうです。進駐軍には何も言えない、そういう時代だったのです。近所の人が、倒れている靱負氏に駆け寄った時は、既に息を引取っていたと言います。靱負氏、７２歳でした。ますます「豆腐来由碑」が、貴重な歴史遺産に思えてきました。さて、話はまだ終わりません。三男・国衛さんのお話から、「旧三国街道　さ迷い道中記」で知った数々の物や人が、不思議に繋がっていることが分かってきたのです。しかし、今回も長くなってしまいましたので、また次回ということに。（参考図書：飯島富雄氏著「飯島家先祖伝説逸話集」）【岸とうふ店】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sat, 13 Feb 2010 07:15:02 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（２）</title>
<description>棟高の「観音寺」境内には、沢山の石碑が建っています。その内の一つに、お？っと目を惹かれるものがありました。右から読みますが、篆書で「豆腐来由碑」とあります。どうやら、豆腐の由来が書かれているようなのですが、漢文で書かれているのでよく分かりません。そもそも、なんでここに豆腐の由来を書いた碑が建っているのかも不思議です。調べている内に、群馬県立女子大学の濱口富士雄教授が書いた、「群馬の漢文碑」という本に行き当たりました。その中に、「豆腐来由碑」の読み下し文が載っていました。無貴賎富貧別（貴賎富貧の別無く）等上食膳（等しく食膳に上り）特佛家齊食不可缺者（特に仏家の斉食に欠く可からざるものは）爲豆腐（豆腐為［な］り）なるほど、そうに読むんですね。豆腐の由来については、次のくだりです。温其始（其の始めを温［たず］ぬるに）漢淮南王劉安好老莊（漢の淮南［わいなん］王劉安老荘を好み）喜神仙遂創製此物（神仙を喜び、遂にこのものを創製す）廣行於天下（広く天下に行われ）後入朝鮮而（後に朝鮮に入れども）我國未之有也（我が国は未だこれ有らざるなり）文祿役（文禄の役に）兵站司令（兵站［へいたん］司令の）岡部治部右衞門者（岡部治部右衛門という者）傳其法（其の法を伝え）初製之於（初めてこれを）泉之界津駿之岡部（泉の界津・駿の岡部に製し）後溥及全國云（後、全国に普及すと云う）なるほど、中国で発明（？）された豆腐は、文禄の役（１５９２：豊臣秀吉の朝鮮出兵）の頃、泉州（大阪）の界津（堺市？）や、駿府（静岡）の岡部（岡部町）に伝えられて、日本国内に広まったんですね。ところでこの碑は、いつ、誰が、何のために建てたのでしょう。建立時期は昭和二年（１９２７）。棟高で豆腐製造業をしていた飯島靱負氏が、中之条出身の漢学者・田村東谷氏に撰文を依頼したものだそうです。建立の理由について、碑文にはこのように書かれています。「（豆腐は）原料既に滋養に富みて、滓渣（しんさ）を去れば、則ちその効果大にして需要もまた多し。故にこれを業とする者往々にして巨万の富を積む者あり。（略）吾この物に依りて衣食し、児女を生育す。しかるにその来由を知らざるは可ならんか、と。乃（すなわ）ちこれを識者に質（ただ）し、その本末を悉詳せんとす。今、吾と同業の者四海に何ぞ限らんや、能くこれを明知する者、果たして幾人かあるや。吾これを貞石に刻みて、以って始に報ずる意を表さん。」自分の今あるのは、最初に豆腐を創り、伝えてくれた人のおかげだから、その由来を調べて人々に伝えることで、その恩に報いたい、という理由だったんですね。飯島靱負氏は、足門村の岸家の出身ですが、飯島姓の廃家を継いで困苦欠乏に耐え、刻苦勉励して生活を安定させるまでになったと言います。それもこれも、豆腐製造という職業のおかげと、商売の暇をみては豆腐のルーツを尋ね、これを後世に残そうと発意したのです。「全国有名碑集」というのがあるそうですが、そこにも名を連ねる程の珍しい碑だということです。大切に残していきたいものです。（参考図書：「観音寺誌」「群馬の漢文碑」）【豆腐来由碑】前の記事へ次の記事へ</description>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 07:18:34 +0900</pubDate>

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<title>三国街道　帰り道（１）</title>
<description>旧三国街道を辿りながら、高崎と前橋の境界まで達したところで、一路、新三国街道（高崎・渋川線）で帰ることにしました。棟高の信号を過ぎて３００ｍほど行った所に、「観音寺」がありましたので、寄ってみました。「観音寺」と呼ばれていますが、上野国寺院明細帳によると「観音堂」となっており、なぜか前橋市元総社町の長見寺持ちになっています。元はここに寺があったと言われていますが、いつの時代か焼失したと伝えられる、由緒不詳の寺です。現在の「観音堂」は、後に近隣の人々が再建したものだそうです。徳川時代から明治初期にかけて、「観音堂」の大門を馬場に使った奉納競馬が行われていて、別名「競馬観音」とも呼ばれていたそうです。馬場は、明治十四年（１８８１）、清水越え三国街道開通の際、旧群馬町農協本所辺りに移設され本格的な回り馬場になると、「観音寺競馬」として知れ渡り、県内各地から見物客や競走馬の参加があったそうです。開催日の前には、村の若い衆が自転車に乗って、遠く伊香保までビラを貼りに行ったといいます。そんな関係もあってか、「観音堂」後ろの「猪土堤」上には、「騎手　桑原千次郎君碑」や「日露戦役　殉難軍馬彰功碑」といった、馬に関する石碑が建っています。境内には、もうひとつ立派なお堂があります。弘法大師をお祀りする「大師堂」です。失礼して、内部を撮影させてもらいました。壇上に沢山並んでいるのは、信者が奉納した大師像です。この「大師堂」が建立されたのは、万延元年（１８６０）と言われていますが、その時、般若経の経典六百巻が奉納されました。境内には、大切な経典を収蔵する蔵がないため、家に土蔵のある信徒が持ち回りで、１００年以上も経典を守り続けてきたそうです。しかし、時を経て蔵を持つ家も少なくなり、さりとて境内に蔵を建てる予算もなく、困っておりました。そんな中、村民の飯島富雄氏が古希の記念にと、私財を投じて昭和六十二年（１９８７）に建立・寄贈したのが、この「経蔵」です。この飯島富雄氏は、「旧三国街道　さ迷い道中記（１３）」の中に出てくる、「天王山薬師院徳昌寺」を編集した人物です。なかなか、できることではありません。頭の下がる思いがします。境内には、もうひとつ、面白いものがあります。それは、次回のお楽しみ。（参考図書：「群馬町誌」「観音寺誌」）【棟高観音寺　観音堂】前の記事へ次の記事へ</description>
<link>http://inkyo.gunmablog.net/e83067.html</link>
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<category>三国街道</category>
<pubDate>Sun, 07 Feb 2010 07:17:41 +0900</pubDate>

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