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隠居の思ひつ記
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高崎生まれの高崎育ち 迷道院高崎が高崎の歴史を知って 高崎を思ふ
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迷道院高崎
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迷道院高崎
(めいどいん・たかさき)
根っからの高崎っ子です。
昔の高崎を、伝えておこうかなという歳になりました。
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追跡再開 実政街道(7)
日高町の「諏訪神社」から先も区画整理が進み、関越道が通ったりで大きく変化しています。
明治四十年(1907)の地図と、Yahoo!地図をにらめっこしながら見当を付けてみました。
「諏訪神社」前の道を東へ100mほど行くと、十字路の左先に大きな石碑が建っています。
「津久井玉一郎先生追慕之碑」と刻まれています。
碑文を読んでみると、「津久井玉一郎先生は、安政四年(1857)日高村に生まれ、長じて社会の建設は教育に有りという信念のもと日高学校の教師となり、その後官職、戸長、県会議員を務めた後、私費を以て日新義塾を開設して近隣子弟の教育に尽くした」という人らしいです。
碑の相向いが津久井家の墓地で、立派な墓石が並んでいます。
入口には、これも立派な如意輪観音が彫られた、女人講の「二十二夜塔」が建っています。
その足元に、こんな墓石があります。
「謡曲〇〇之墓」と刻んでありますが、「〇〇」が読めません。
裏側を見ると、門弟として貝沢、井野、大類、新保、日高の49人の名があり、明治二十八年(1895)に建てられています。
さらに、「俗名 津久井八百蔵」とありますので、この方が謡曲の師匠で「〇〇」は号なんでしょう。
津久井家墓地から80mほど行って左へ折れ、150mほど行くと右側に墓地があります。
入口に何やら看板が立っています。
ほっほー。
私の苦手なことばかり・・・。
中に入ると、とっつきに、自然石の碑があります。
だいぶ風化が進んでいて文字も欠けていますが、「高崎の散歩道 第五集」を見るとこれは「芭蕉句碑」で、「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」と刻んであるのだそうです。
同書によると、昔はここに「轟立(どうりつ)山東福寺」という、轟家のお寺があったということです。
廃寺になった後は薬師堂のある墓地となっていましたが、平成十七年(2005)新たに整備したようです。
「実政街道」はこの辺から斜めに北進して「染谷川」を渡るのですが、今はセブンイレブンの信号まで戻ってぐるっと迂回しなければなりません。
信号を渡って2つ目の角を左に曲がり80mほど行くと、角に石造物がずらっと並んでいます。
安政七年(1860)の「庚申塔」、明治三十年(1897)の「天神宮」、明治三十五年(1902)の「猿田彦大神」そして二つの石祠です。
きっと区画整理によって寄る辺を失った神々を、ここに集めたのでしょう。
「庚申塔」の向こうに見えるのは井草家の墓地です。
墓地の中に、平成二十六年(2014)の「墓地改修記念」碑が建っています。
そこに刻まれている「霊宝殿」と、「井草家祖先五百年記念」碑です。
「染谷橋」まで来ました。
「染谷橋」を渡って北に折れると、直ぐまた川曲-井野線の「松木橋」袂に出ます。
道を渡ると、現在は「染谷川」に沿って道が付いていますが、昔の道は何故か川から一旦逸れて膨らみ、その先でまた川に沿うように進んでいます。
田んぼ中の畦道のように見えるこの道が「実政街道」です。
関越自動車道にぶつかる手前に、「実政街道」の「高崎市名所旧跡案内板」がポツンと建っています。
実は6年前、この案内板を訪ねています。
当時は、建設資材置き場か何かの高い金属塀で囲われていました。
◇史跡看板散歩-74 実政街道
すぐ東に、取り残されたように高橋家の墓地があります。
祠の中を覗くと、薬師様かなぁ、仏像が一体鎮座しています。
それと、「高橋一族の流れ」という説明板がありました。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
何だか、やたらと墓地に縁のある日でした。
【今日の散歩道】
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 09 Mar 2024 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(6)
今日は井野川の「大橋」を渡り、その先を辿ります。
明治四十年(1907)の二万分一地形図で、道筋の見当を付けてみました。
道は、集落の中へ入るのを拒むように、へりに沿って田んぼ中を通っています。
その田んぼ中も現在は宅地化が進み、呑み込まれた街道を辿るのは容易でなさそうです。
でも、昔の地図と現在の地図をじっと見比べていると、途切れ途切れではありますが、昔の道の形が浮かんできます。
「大橋」を渡ると道は三本に分かれますが、「以前は橋が斜めに架かっていた」ということからすれば、右の道に入るのが順当でしょう。
道の曲がり具合が如何にも昔の街道っぽいです。
180mほど行くと、塀に隠れるように石仏が建っていました。
馬頭観音らしいですね。
その奥に墓地があるようなのでちょっとお邪魔しました。
そこは轟家の墓地で、立派な女人講の塔が建っています。
街道へ戻って少し進むと、「井ノ貝戸児童公園」があります。
「実政街道」は、この角を左に曲がるようです。
曲がって80mほど行くと丁字路になってて、真っ直ぐ行くのが「実政街道」なんですが・・・、
左の道を覗くと、石碑みたいのが見えて気になります。
おー、立派な双体道祖神だ。
道案内役の猿田彦に「こっち!」って指図してるよ。
そっちは、通り抜けられないみたいだけど・・・。
丁字路に戻って真っ直ぐに100mほど行くと、前方の角に「酒」の大きな看板が見えます。
あぁ、思い出しました。
もうだいぶ前になりますが、この高橋酒店さんに「上州弁手ぬぐい」をお届けしたことがありました。
なんか、町内のお祭りの時に見せたいとか仰ってましたね。
高橋酒店から100mほど行くと道は左右に分かれますが、右へ進みます。
ここで「実政街道」は「東貝沢ハナミズキ通り」にちょん切られています。
区画整理前は、きっとこんな風につながっていたんでしょう。
「ハナミズキ通り」から100mほど入ったここを曲がると、また「実政街道」が続きます。
道なりに100mほど行くと、小さな橋があります。
おっ!「実政街道橋」だ!
昭和六十三年(1988)完成というのですが、プレートの文字が旧字体を使ってるのがいいですね。
90mほど進むと、右前方に神社が見えます。
「諏訪神社」です。
「上野国神社明細帳」では由緒不詳となっていますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
「
永禄二年(1559)六月十五日、長野県諏訪郡中洲町諏訪神社より勧請という。」
鳥居の横で「大黒様」が満面の笑みでお出迎えです。
「諏訪神社」のご祭神「建御名方神」(たけみなかたのかみ)は、「大国主神」つまり「大黒様」の子どもなんですけど、それと関係あるのかな。
境内の西南角には、手を握り合う「双体道祖神」が建ってます。
先ほどの「実政街道橋」を渡れば日高村です。
疫病や災厄が入ってこないように、村の入口に賽の神である道祖神を祀ったのでしょう。
驚くのは、ずらーっと並ぶ「猿田彦」の塔です。
「百庚申」というのはよく見かけますが、「百猿田彦」は珍しいかも知れません。
Wikipediaによると、庚申信仰は中国の道教に由来し、仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされ、神道では「猿田彦神」とされるのだそうです。
一番奥には、ひときわ大きな「猿田彦大神」。
その手前には「三猿」も。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 24 Feb 2024 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(5)
ここまでずっと「不動寺」から「町田橋」を渡るコースを辿ってきたのですが、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測圖」を見ると、そこに橋は架かっていないのです。
川を越えるとすれば水の中を徒渉り(かちわたり)することになります。
前橋へ行くのに、そのつど川を徒渡りするとは考えられません。
ということは「実政街道」の3つのルートのどれを選んでも、結局①のルートに合流し「大橋」を渡って行ったのではないかと推測されます。
前回の「宝蔵寺」の西側道路を「井野川」へ向かうと、「ビューティ塚越」と「辻田獣医科病院」の所へ出てきます。
そのちょっと下流に、「大橋」が見えます。
橋のたもとに、大きな碑が建っています。
「井野川改修工事竣功記念碑」です。
「高崎の散歩道 第五集」に興味深い話が載っています。
「
現在の井野川大橋は戦後の昭和二十八年(1953)に建設されたもので、その井野川改修記念碑が橋のたもとにある。
それ以前の井野川橋は木橋で、現在の辻田獣医科病院と塚越美容院の前あたりから斜めにかかっていた。」
橋が斜めに架かっていたというのは、地図で両岸の道を見ると想像できます。
その頃の写真がないかなぁと思って探してみると、国土地理院の空中写真の中にありました。
昭和二十三年(1948)のもので、まだ環状線は通っていません。
「実政街道」の3つのルートも写ってます。
現在の「大橋」は、平成四年(1992)に新しくなりました。
なかなかオシャレです。
「井野川」の正体は、龍の化身「おいの」だったんですね。
田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
「
井野の名は井野川からとったのであろうか。
町の北部、字屋ノ上には三つの湧水池があって、ここのまわり一帯は低く平らな地形になっている。
また、字天神には泥炭池があって、ここからは、弥生時代の木製品が発見されている。
井野の名のいわれは、湧水のあるこのような地形からきたものではあるまいか。
とすると、「井野」が先にあって、そこを流れる川ということで「井野川」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。」
さて、次回は「井野川」を渡って、その先を辿ることに致しましょう。
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 10 Feb 2024 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(4)
前回、「不動寺」から「町田橋」に至るコースを辿ってみました。
しかし、地図を見ると一本南に、もっと早く「町田橋」に行けるコースがあるようなんです。
明治40年の「二万分一地形図」にも、その道は描かれています。
今回はこのコースを辿ってみます。
「ようざん」の北西の角を東へ曲がります。
100mほど行くと、井野川の「大橋」への道と交差します。
その先、道は細くなり、角に「この先車両の通りぬけ出来ません」という手づくり看板が立っています。
人は通り抜けられるんだなと思って進むと、畑の脇道になります。
その先はボーボーの草むらで、その気になれば「町田橋」へ行けそうですが、その気にはなりませんでした。
手づくり看板の所まで戻ってウロウロしていると、訝しげな顔をして「何だい?」と聞く人がいました。
この辺りは、どうも不審者に敏感な地区のようです。
「あ、実政街道を辿ってるんですけどね。」と言うと、
「この道は大類の方へ行く道だったんだよ。
前橋へ行く道は、もっと手前の電信柱の所に荷車が通れるくらいの細い道があったんだ。」と教えてくれました。
さっき横切ってきた「大橋」への新しい道ができるまでは、ここにあった道を通って行ってたらしいです。
反対側へまわると、なるほど、その先に細道が続いてます。
細道は左へカーブしていますが、土の道が真っ直ぐ川の方へ向かっています。
その道を30mほど行ってみると、たしかに「大橋」のたもとに出ました。
ところで、この道へ入る手前のカーブの所に、何か石造物が建ってましたね。
ちょっと気になったので、戻ってみました。
道祖神とも違うし・・・、脈絡もなく並んでる感じがします。
調べてみると、その近くに「宝蔵寺」というお寺があることが分かりました。
ところが、実際に行ってみるとそこにお寺は無いんです。
あるのは、どう見ても普通の民家です。
廃寺になったということなんでしょうか。
迂回して西側道路に回ってみると、小さな墓地があり、そこには僧侶の墓石である卵塔が無造作に置かれていて、大阿闍梨とか僧都という文字が刻んであったりするので、ここが「宝蔵寺」の跡だったのだろうと思われます。
さきほどの民家で聞いてみようかと思い、行ってみると・・・。
あれ?郵便受けに・・・。
ちょうど縁側に出てきたご高齢の女性に、お声掛けしてみました。
「こちらは宝蔵寺さんなんですか?」
「そう、宝蔵寺ですよ。」
「一般のお宅のように見えますが。」
「一応お寺なんだいね。」
「以前はお寺の本堂のような建物だったんですか?」
「いやぁ、前からこういう建物だいね。」
お話によると、昔は広い土地をもっていたが、だんだん周りから小さくなってしまったらしい、とのことでした。
カーブの所にある石造物も「宝蔵寺」にあったものだと思うと仰ってました。
「上野国寺院明細帳」には、ごく簡単に「宝蔵寺」が載っていました。
【寳蔵寺】
群馬縣管下上野國西群馬郡貝沢村字久保
同國同郡箕輪村法峰寺末 天台宗
由緒不詳
本堂明治十九年一月焼失届洩ノ旨廿ニ年三月二十ニ日届出
檀徒七人
(追記)
本堂右再建明治廿ニ年四月廿六日許可、廿三年二月中落成
明治十九年(1886)に焼失し、二十三年(1890)に再建されたとありますが、現在の建物が明治のものとは思えません。
たぶん、昭和に入ってから建て直したものなんでしょう。
謎は残りますが、今日はここまで。
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 27 Jan 2024 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(3)
「実政街道」の3つのルートを辿ってみて、③のルートは①のルートに合流して井野川を渡っていることが分かりました。
分からないのは②のルートで、「五霊神社」から先いくつかのコースが考えられます。
①に合流するコースも考えられるのですが、「不動寺」の南あるいは北に沿って井野川を渡るコースもありそうです。
ということで、「不動寺」に沿って進むコースを辿ってみることにしました。
まずは、「五霊神社」から「貝沢歩道橋」を渡って、南側に沿って進むコースです。
すぐに「不動寺」の立派な山門前に出ます。
「不動寺」の開基は文亀元年(1501)ですが、この山門は令和四年(2022)に天田實氏が米寿を祝して寄贈したものだそうです。
これまた立派な、女人講の「子安観音」塔です。
境内に入ってみたくなりました。
本堂の破風・向拝の彫り物が見事です。
大棟に施された龍は漆喰の鏝絵なんでしょうか、すごいです。
山門入って左の一角に庚申塔がずらっと並んでいて、「庚申塚復元記録之碑」というのが建っています。
もとは寺東にあった天神山という古墳に登る道の両脇に並んで建っていた、と「貝沢町の民俗」に書いてありました。
墓地内には、高橋家の立派な墓石がたくさんあるのですが、その中にこんなのがあります。
「傑士」というのは、「優れた人物、卓越した人」のことだそうです。
他にも、こんなのがあります。
由緒ある家柄なんでしょうね。
さて、「不動寺」を出て少し歩きましょう。
二つ目の角を曲がった先に、相当な樹齢を重ねたらしい、梅の樹かなぁ、があります。
その先に、ちょっと傾いだ小屋があって、庚申塔や板碑などが祀ってあります。
正面の壁には「虚空蔵菩薩」と書いた紙が貼ってあります。
「貝沢町の民俗」に、この「虚空蔵様」のことが書いてありました。
「
昔は大きい寮があったというから虚空蔵堂であったのである。
現在の小祠は松本家が母屋を新築した時に建てたものである。
虚空蔵様は松本イッケの守り本尊で、祀れば衣食に不自由しないといわれ、松本イッケの者は御眷属である鰻を食べてはいけないとされている。(略)
戦前には講があって、埼玉県など遠くから参詣者が来たほど賑わった。
立派な賽銭箱があったが盗難に遭って今はない。」
また少し歩いて「ようざん」のところを左折します。
80mほど行くと、「不動寺」の北側から来る道と出会います。
角の窪みに隠れて、道祖神さんのカップルが仲睦まじくしておわします。
右折して50mほど行くと、こんどは馬頭観世音や可愛らしい石仏が。
本尊は一番後ろにある板碑で、「二十三夜様」だそうです。
さらに180mほど行った「井野川」のほとりに、また愛らしい双体道祖神。
ここに架かっているのは「町田橋」。
この橋は「メロディ橋」とも呼ばれていて、欄干に付けられた鉄琴を順番に叩くと、曲が奏でられるようになっています。
説明板もだいぶ文字が消えかかっていて、鉄琴を叩くマレットも無くなっちゃってますけど。
ちょうど「東部小学校」の下校時で、通りかかった児童に「これ叩いたことある?」って聞くと、「ある」と言ってくれたのでちょっぴりホッとしました。
ところがその時、迎えに来た若いお母さんが、その児の手をグイっと引き寄せながら、思いっきり私を睨み付けて去っていきました。
すっかり不審者と思われたようです。
母が子を守る迫力はすごい。
熊じゃなくてよかった。
それにしても、嫌な世の中になったもんだなぁ。
あ~あ。
【本日のルート】
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 13 Jan 2024 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(2)
赤土村から先の「実政街道」は、3つのルートがあるということでした。
「
現在の前橋新道と重複してサンハイツの所まで行き、そこから井野川へ向かって下って行った道①と、塚沢小学校内で右へ曲がって五霊神社へ通じる道②と、さらにもう一本、その中間を貝沢村塚越部落を通って堂山古墳へ抜ける道③との三説がある。」
今回は、③の「堂山古墳」ルートを辿ってみます。
現在のこの道であろうと見当をつけました。
前橋街道の「貝沢町南」信号の手前を右(東)へ入ります。
東四条通りを越えて、真っ直ぐ行きます。
道なりに300mほど行くと左前方角に、きれいな花が咲いた空地があり、石祠と石碑があります。
石祠の屋根には牛の頭が彫り付けられ、石碑には「道陸神」と刻まれています。
牛の頭が彫られてる石祠は、文字どおり「牛頭天王」を祀っているんだそうです。
かつては「天王山」という古墳の上に祀られていて、その周辺は「天王屋敷」と呼ばれ、一面の梅林だったとか。
(貝沢町の民俗)
その角を左(北)に曲がります。
100mほど行くと、正面の少し高くなった所に墓地があります。
建物には「万日堂」と書かれています。
このお堂には堂守が住んでいた時期もあったそうです。
ここは古墳で、山の上にお堂があるので「堂山古墳」と呼ばれました。
そういえば「五霊神社」も古墳でしたし、前述の「牛頭天王」も古墳の上にあったということですから、この辺には古墳がたくさんあったんですね。
「万日堂」を右に巻くと、
環状線の変則五差路に出ます。
左に巻くと、
和菓子屋「六郎」の裏の道に出ます。
そこから東の方を見ると、さっきの変則五差路が見えます。
実は、この道が「実政街道」①のルートなんです。
①のルートに沿って変則五差路を渡ると、民家の門前に「貝澤實政道路擴幅工事記念碑」というのが建っています。
こう辿ってみてくると、③の「堂山古墳」ルートはここで①ルートに合流しているようです。
では、「五霊神社」に出てくる②ルートは、その先どういうルートをとるのでしょう。
その追跡は次回ということに。
【牛頭天王・堂山古墳・実政街道碑】
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 30 Dec 2023 06:00:00 +0900
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追跡再開 実政街道(1)
ブログ駆け出しの頃、高砂町を起点に「実政(さねまさ)街道」を辿ってみたことがあります。
その時は、「塚沢小学校」のところで道が消えていて、その先の追跡は断念してしまいました。
その後も、断片的には「実政街道」に出会っていたのですが、全ルートを辿ることはしていませんでした。
これまでの「実政街道」の記事は、こちらからご覧いただけます。
いつかまた辿ってみたいと思いつつ年月が過ぎてしまっていましたが、最近になってようやく追跡再開する気が起きました。
「高崎の散歩道 第五集」に、明治中期の「塚沢小学校付近略図」が載っています。
上図で「昭和高分子」となっている所は、現在「ベルク日光町店」です。
筆者の金井恒好氏は、赤土村から北上する「実政街道」には3つのルートがあったといいます。
「
現在の前橋新道と重複してサンハイツの所まで行き、そこから井野川へ向かって下って行った道①と、塚沢小学校内で右へ曲がって五霊神社へ通じる道②と、さらにもう一本、その中間を貝沢村塚越部落を通って堂山古墳へ抜ける道③との三説がある。」
明治四十年(1907)の「二万分一地形図」で表すとこうなるのでしょう。
三本のルートの内、②の「五霊神社」へ抜ける道が一番古そうなので、そのルートを辿ってみることにしました。
「塚沢小学校」で消えた「実政街道」は、どうやら「ベルク」の東側で姿を現しているようです。
このバラス道は製菓「芳房堂」から来る道と交差し、コンクリート道になってずっと先へ延びています。
150mほど進んで左折すると、「五霊神社」への道です。
道なりに350mほど行くと環状線に出ます。
正面には「貝沢歩道橋」、左手の赤い鳥居が「五霊神社」、右前方に見える大きな瓦屋根は「不動寺」です。
「五霊神社」へ寄ってみます。
石段を上ると白い玉石が拝殿まで敷かれてて、カッコいいです。
由緒看板ですが、句読点が打たれてないので、読みようによっては意味が変わってしまいます。
読点「。」が入るであろうところに「<」マークを入れてみました。
「五霊神社」というんですから、御祭神が五柱いらっしゃるのかと思ったら、三柱なんですね。
不思議だなと思っていくつか調べてみたら、「五霊神社由緒記」というのにこう書かれていました。
「
景昌公は平氏の出で、関東に大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の平氏五家の先祖を祀る神社として五霊になったといわれています。
後に景昌公一柱になり、五霊は御霊とも記録されています。」
拝殿の下に、丸太の輪切りが立てかけてあります。
何なんでしょう。
「高崎の散歩道 第五集」を見ると、
「
明治十年(1877)当時の五霊神社の立木は、・・・太さ1m50前後、長さ10m近くの樹木が25本(杉19本、松13本、樅1本、樫2本)。
残念ながら現在は数本の松しか残っていない、」
ということで、本殿の後ろに大きな松の木があったようですが、現在その姿はありません。
本殿の後ろへ行ってみると、伐り株がいくつか残っています。
あの丸太の輪切りは、このどれかのものなんでしょうね。
若い松の苗木も植えられていますので、数十年もすればまた往時の姿が蘇ることでしょう。
拝殿の屋根に妙なものが載っています。
肉眼でははっきり見えなかったのですが、ズームしてみると・・・、
獅子が逆立ちをしているように見えます。
そういえば、「五霊神社」の境内には「狛犬」とか「狛獅子」がないんです。
もしかすると、屋根の上の獅子一対がその代わりなのでしょうか。
境内の落ち葉を掃除している方がいらっしゃったので、「狛犬がない神社というのは珍しいですね。」と言うと、「ここは御嶽山神社の境内なんだよ。」と仰います。
石段から上が「五霊神社」で、下は「御嶽山神社」の境内なんだそうです。
たしかに、大きな「御嶽皇大神」の石碑が建っています。
書は、最後の高崎藩主・大河内輝聲です。
御嶽信仰開祖の普寛上人を祀る「普寛堂」もあります。
5年ほど前まで毎年3月19日には、修験者による「火渡り」の神事が行われていたそうです。
もう見られなくなって残念ですが、「橋本新聞」さんのブログに写真入りで残してくれていました。
帰り際、先ほどの方から御嶽山のお札を各種頂戴しました。
ありがとうございました。
さて、次回は他の2ルートも辿ってみることに致しましょう。
では、今日はこの辺で。
【五霊神社】
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◆高崎探訪,...続・実政街道
Sat, 16 Dec 2023 06:00:00 +0900
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徳川忠長 正室の供養塔(2)
駿河大納言・徳川忠長卿の正室だった庚子(かね)が、高崎の中居に移り住んで建てたという「逆修碑」が「極楽寺」にあるというので見に行ってみました。
「極楽寺」は、ブログ駆け出しの頃記事にしています。
◇なきんぞう
「逆修」(ぎゃくしゅ・ぎゃくしゅう)とは、「生前に逆(あらかじ)め死後の菩提に資すべき善根功徳(くどく)を修すること」だそうで、そのために建てるのが「逆修塔」や「逆修碑」なんだそうです。
庚子が建立したと伝わる「逆修碑」がこれらしいのですが、「碑」というより「石祠」ですよね。
吉井文右衛門家の立派な石塔があります。
その左側面には、はっきりと「徳川忠長 正室 俗名吉井庚子 五十五歳」と刻まれています。
この石塔は、昭和三十九年(1964)に建てられています。
傍らには、葵の御紋が付く「累代霊位」の石板が建っており、その中に興味深い名前が刻まれています。
松平長七郎と、その子・松平長松丸です。
前回の記事に出てくる「西上州中居西屋敷吉井本家系譜」には、忠長卿との間に産まれた長七郎を連れて、庚子は中居に移り住んできたと書かれています。
田島武夫氏は、その著書「高崎の名所と伝説」で長七郎を取り上げています。
「
松平長七郎などという人物は講談がつくりあげた、架空の人物だと思っている人が多い。事実は小説よりも奇なりということもある。
放浪中、旅の娘の危難を救って、この娘と同棲し、将軍家ゆかりの人間が、町人の娘に子を産ませたということは泰平の時代の大きな話題になった。
講談師見て来たようなウソをいい、というが、その子が成長して鷹司信平(たかつかさ・のぶひら)になったということは厳然たる事実で、鷹司関白信房の猶子としたのである。」
この、町人の娘に産ませた子というのが、吉井本家の累代霊位に刻まれている松平長松丸です。
鷹司家に入って信平となった長松丸は、第四代将軍徳川家綱の配慮により、家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫を娶り、翌承応三年(1654)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許されて、鷹司松平家の祖となります。
そして信平の孫・信清は、上野吉井藩の初代藩主となるのです。
旧吉井藩陣屋跡に、「福徳因孝」という吉井藩の歴史を刻んだ大きな碑が建っています。
そこには、「吉井氏の先は信平で鷹司氏より出る。実は駿河大納言の子である。」と刻まれています。
あれ?
長松丸ではなく長七郎が信平?
大正六年(1917)に旧吉井藩臣・中村忠誠の撰文です。
そんな訳で、忠長卿正室庚子に始まり、吉井本家から、吉井藩につながる話となりました。
史実ではないという向きもありますが、長い間架空上の話・人物とされた「トロイの遺跡」や「山本勘助」も、年月を経て史実と認められています。
いつの日か、確たる証拠が発見されることを期待しております。
【極楽寺】
【福徳因孝碑】
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◆高崎探訪
Sat, 09 Dec 2023 06:00:00 +0900
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徳川忠長 正室の供養塔(1)
かの駿河大納言・徳川忠長卿、大信寺にあるお墓は高崎市の指定史跡になっています。
当ブログでも、13年前に記事にしました。
◇殿様に縁のある日(その壱)
で、今回はその忠長卿の奥さんのお墓の話です。
大正十一年(1922)の「上毛及上毛人 第64号」に、「駿河大納言殿と五人のお局」という一文が掲載されています。
「
過去帳に依て調査すれば、大納言殿御附の御局五人あり、皆其の卒去の年月日と法名とが記しあり、(略)
傳説にては大信寺墓地中に、此の五人の御局の墓石も有りたるなれど、年所を經るまゝに不明となりたるなりとの事なり、
而して此のお局衆は生存中は墓側の庵室に住居し、墓所掃除、香華の供進、朝夕の看經回向に一心他念なく、故君に仕へ奉りしなりと云、故君の御身の上に如何なる變化あるも、其れは其れとして自己は志操を變ぜず依然故君に侍して一生を終りたる志操の堅實なりし點は、大に賞賛すべき事なり、
然るに此の五人の御局が一生故君の墓側に侍し、屍を此の寺中に埋めし事は、今日迄世間に知られざる爲め、此の可憐の御局五人の靈位に對し、香華を手向けるものなかりしは、誠に氣の毒の至りである」
そして過去帳では、五人の御局の戒名と没年月が次のように記されているそうです。
淸林院殿明岳貞昌大姉
寛永十五年(1638)戊寅六月
松譽春貞大姉
承應三年(1654)九月
昌淸院殿心譽妙安大姉
明暦元(1655)己未年七月
玉蓮院殿明譽周光比丘尼
明暦三(1657)丁酉天三月
寶樹院殿香譽淸心大姉
万治元(1658)戊戌年正月
忠長卿が自刃したのは寛永十年(1633)ですから、没後25年まで寄り添いお世話をしていた訳です。
そんな五人の御局の墓の所在が不明というんですから、何とも不思議なことです。
ところがその内一人の供養塔が、上中居町の民家に存在しているのです。
ただ、「神女清月弥陀院内儀供養塔」と刻まれており、「承應三甲午歳春三月廿一日逝去」となっていて、前述の過去帳とは少し異なっています。
しかし、裏面には五人の御局の一人の戒名「松譽春貞大姉」が刻まれています。
没年も「承応三甲午歳秋九月廿六日逝去」となっていて過去帳とも符合します。
これを見ると、「松譽春貞大姉」は慶長五年(1600)に上野国小幡城主・小田(織田?)信良の娘として生まれ、寛永二年(1625)に西上州中居西屋敷に移住し云々とありますが、いまひとつよく分かりません。
昭和六十四年(1989)に郷土誌「上州路」の編集部が供養塔のある吉井家を訪ねて、「忠長卿の奥方庚子(かね)の子孫を訪ねる」という記事を書いています。
一部抜粋してみましょう。
「
この家にある「西上州中居西屋敷吉井本家系譜」によると、元和九年(1623)忠長は信州小諸二十二萬石、十八歳で、庚子(かね)二十四歳と婚す。
翌寛永元年(1624)忠長は駿河遠江を加封され、五十五萬石の太守となり駿河に住む。
正妻お庚子の方は一子長七郎を産み、西上州古領千石中居西屋敷吉井本家現在地に住す。(略)
そして、翌年の寛永二年に、お庚子の方は当家のすぐ近くにある菩提寺、極楽寺の塋域内に、逆修碑を建てている。」
これによると、庚子(かのえね)年生まれの「庚子(かね)」は二十四歳の時、十八歳の忠長卿の正妻となり、長七郎という子を産みながら、その子を連れて中居の吉井本家に移り住んだということなんですね。
何故なんでしょう。
世の定説では、忠長卿の正室は織田信良の娘・昌子とされており、わずか十歳で十七歳の忠長卿に嫁いだことになっています。
しかし吉井本家に伝わる話では、同じ織田信良の娘・庚子が六歳年下の忠長卿の正室となり、子をもうけたとなっている訳です。
この辺りに、庚子母子を忠長卿の元から離さなければならなかった理由がありそうです。
そして、庚子母子を生地の小幡に戻す訳にもいかずに、中居へ移住させたのでしょう。
それにしても、なぜ吉井本家だったのでしょうか。
吉井本家については、「上州路」誌にこう書かれています。
「
高崎駅東口から二キロほど東へ行った中居町。この辺りは、吉井姓の家がたくさんある。
「続日本紀」に出てくる「天平神護二年(766)上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に姓吉井連を賜う」とあるが、この吉井氏の後裔が高崎市の中居へ移住したと聞いたことがある。」
庚子の生地は、甘楽(韓)の小幡でした。
そして吉井本家の祖先は、辛科(韓級)の吉井連です。
いわば同族で、双方を繋ぐ有力者がいたのかも知れません。
そんな人物が、庚子を吉井本家に密かに預けた(匿った)ということなのではないでしょうか。
さて、忠長卿が高崎城に幽閉されることになって、庚子母子は愛する夫・父に再会することとなります。
再び「上州路」誌からです。
「
逆修碑建立から七年後の寛永九年、忠長は妻子の住む高崎へ移される。(略)
高崎城へ入る前に、・・・・・・倉賀野宿永泉寺前を通って吉井本家前を通り、妻子と最後の御対面をしたと、これは、代々語りつがれてきたことだと書かれている。」
忠長卿が自刃したと知った庚子は大信寺へ行き、他の御局と共に墓守りのお世話をさせてもらったのではないでしょうか。
そう考えれば、五人の御局の戒名の中で唯一院殿号を持たないというのも、納得できそうな気がします。
謎の多い忠長卿と奥方の話ですが、なかなか興味深いものがあります。
次回は、「逆修碑」があるという「極楽寺」へ行ってみることに致しましょう。
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◆高崎探訪
Sat, 02 Dec 2023 06:00:00 +0900
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真珠塚
高崎駅東口から真っ直ぐ東へ行って、スパゲティ屋「はらっぱ」のちょっと先に、植え込みがあります。
そこに小さな碑があって、「真珠塚 普門山正観寺」と刻まれています。
それ以外、謂れも何も書いてありません。
国道354号線バイパスの上中居地区の開通が平成十八年(2006)頃なので、現在の「真珠塚」碑はその頃新しく建てられたのだろうと思います。
それ以前、ここに塚があったのか、碑が建っていたのか、それが分かりません。
気になるので、350mほど東南にある「正観寺」へ行ってみました。
境内に、「古墳供養塔」というのが建っていたので、あ、「真珠塚」も古墳だったのかな、と思ったのですが・・・、
「真珠塚」という名前はありません。
「上毛古墳綜覽」にも載っていませんでした。
ご住職にもお尋ねしたのですが、「分かりません。寺が火災に遭ってすべて焼けてしまいましたので。」
ということです。
火災のことは「新編高崎市史 資料編14」に書いてありました。
「
昭和十八年四月十一日、防空演習の消火訓練のため境内で火を燃やしていた時、その火が本堂に燃え移り、大勢の見ている前で全焼。その後高野山より聖観世音像を授与され本尊とした。」
ありゃりゃ、消火訓練中の火災だったんですね。
という訳で、「真珠塚」の謂れは分からずじまいだったんですが、「上野国西群馬郡寺院明細帳」の「正観寺」由緒に、気になることが書いてありました。
「大永五(1525)乙酉年十月廿四日建立、開山大阿闍梨法印賢祐修験真壽院正門」
文字は「真珠」と「真壽」で違うのですが、「しんじゅ」という点では共通しています。
また、「正観寺」のある所は前屋敷という字(あざ)なんですが、境外所有地として八つの字に寺領があって、その中のひとつ辻薬師という字に「真珠塚」があるのです。
もしかして、ここは「正観寺」の寺領だよ、と示す標識が「真珠塚」だったのでしょうか。
分かりません。
どなたかご存知の方、ご教示ください。
【真珠塚と正観寺】
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◆高崎探訪
Sat, 25 Nov 2023 06:00:00 +0900
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隠居の控帳 覚悟?錯誤?妄語
戦うのは下々の皆さんで、俺(麻生)じゃねぇよ・・・ってか?
そう言えば、8年前にこんな記事を書いていた。
◇隠居の控帳 戦争絶滅法案
戦争を始める指導者の特質は、主観的願望を客観的事実にすり替える。(保坂正康)
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◆隠居の控帳,沈思黙考
Sat, 18 Nov 2023 06:00:00 +0900
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城南の「遭難之地」碑
国道17号線の「城南」交差点。
正面の建物は「城南小学校」です。
交差点を烏川沿いに下流へ70mほど行くと、左側の石垣下に石碑が建っています。
「遭難之地」と刻まれた碑の上部には、「松島輝男君、木村茂樹君、新後閑崇君、黒沢伸夫君」と四人の氏名が列記してあり、左下には「厄除地蔵尊保存会建之」とあります。
左側面を見ると、「贈建碑記念」として二人の高崎市議会議員「関口市吉、馬場清三郎」の名が刻まれています。
この碑は、昭和三十四年(1959)に起きた悲惨な事故の跡地に建てられたものです。
どんな事故だったのかは十三年前の記事に書いてありますので、こちらからご覧ください。
現在お地蔵様は、荘厳寺境内の改修により、平成二十五年(2013)に新築された「真如堂」内に移されています。
「地蔵菩薩建立縁起」の碑も新しくなりましたが、碑文は前と同じです。
お地蔵様は、真如堂に入った左隅に安置されています。
捜索時の写真と、葬儀の写真も掲示されていました。
「一切衆生の厄難を消除し
就中 児童生徒を育成守護せられんことを」
【遭難之地碑と真如堂】
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◆高崎探訪
Sat, 11 Nov 2023 06:00:00 +0900
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おい!おい!おい!
本当に必要なのは、国民への愛!愛!愛!
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◆世事雑感
Sat, 04 Nov 2023 06:00:00 +0900
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号外! 「五万石騒動押出し行進」参加者募集!
今から154年前、高崎藩城付き五万石領の農民四千人が高崎城に押し出し、「八公二民」とも言われる重い年貢の減免を願い出ました。
「高崎五万石騒動を語り継ぐ会」はその志を伝えたいと、平成三十年(2018)から「城押出し再現行進」を行ってきました。
今年もやります!
会では、参加者を募集しています。
参加申し込みは、事務局の吉井一仁さんまで。
電話:090-1600-4082
集合日時・場所については上掲のチラシをご覧ください。
参加、お待ちしてまーす!
【五万石騒動義人堂】
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高崎五万石騒動
Sat, 28 Oct 2023 06:00:00 +0900
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隠居の控帳 おろかもの之碑
建碑のいきさつが、陳野守正氏著「大陸の花嫁」の中に書かれています。
「
1986年10月、群馬県吾妻郡中之条町に小暮久弥氏(あづま会副会長・当時81歳)を訪ね、「おろかもの之碑」を案内していただいた。おろかもの之碑は1961年(昭和36年)に建てられたが、そのいきさつはつぎのようである。
戦争中、大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会等の責任者だった者は、敗戦後、占領政策により戦争犯罪人として1947年(昭和22年)より一切の公職から追放された。
それから四年後、「公職追放」を解除された吾妻郡内の該当者全員が一堂に会し「あづま会」を結成した。
一同は会の設立以前から戦争に協力した行為を深く反省し二度と過ちは繰り返さないようにと、またおたがいに励まし合う意味で年一度の集まりをもっていた。
そうしているうち公職追放などいずれ世の中から忘れ去られてしまうだろう。碑を建てたらどうだろうか、そのほうが集まりやすいし、という話になった。
そこであづま会設立十周年に際し「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを侵すことなきを願い」(碑文の一節)碑を建てることにした。世話係として西毛新聞社社長富沢碧山氏がおされた。
碑をつくる段階で、「全員の名前を刻んでおくだけでもなんだから、名称を考えべえじゃないか」との発言があった。それに応えて萩原進氏(吾妻郡長野原町出身、当時群馬県議会図書室長)が「とにかく前後も知らねえで悪いことに協力したのは馬鹿もんだから・・・馬鹿もんというのはおろかもんということだから、どうだ、おろかものとしては・・・。」といった。するとみんなが「それがよかんべ、馬鹿もんだったのだから、おろかものとしよう。」と同意し、碑の名称が決まった。
このような経過を経て1961年(昭和36年)、会員だけで金を出し合い碑を建てた。碑の表には「おろかもの之碑」、裏面には碑を建てた趣旨と会員80余名の名前を刻んだ。
おろかもの之碑は、戦争に駆り出されて死んだ者は一番気の毒で申し訳ないのだからと、英霊殿(現大国魂神社)の境内に建てた。」
しかし現在、碑は「大国魂神社」ではなく、800mほど離れた「林昌寺」の山門左に移されています。
地元の遺族会から、「英霊に対して、おろかものとは何だ!」と強い反発・抗議があったのです。
「あづま会」の人たちは、
「
そうじゃない、勘違いしている。わしらがおろかもんなんだ。わしらがおろかもんのために、あんたたちの息子さんたちみんなが戦争に駆りたてられて戦争で死んだんだ。その申し開きのために、反省のために碑を建てることにしたのだから、英霊殿に建てるのが一番いいと思って建てたのだ。」
と説明したが、納得は得られなかったといいます。
そして、建立の翌年、「おろかもの之碑」は「林昌寺」に移されました。
碑背に刻まれた撰文は、後ろの塀との間が狭くて、うまく撮影することが出来ませんでした。
塀に上ることもできず、あきらめて帰ってきましたが、後日、雑誌「上州風 第8号」に碑文が載っているのを見つけました。
自らを「おろかもの」あるいは「罪人」と称してはいるのですが、文中には気になる箇所もあります。
「日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ 我々ハ当時ノ職務上 或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニ・・・責任者トナッタ」であるとか、「本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ」という部分です。
そこには、「止むを得なかったんだ」「本意ではなかったんだ」という気持ちがにじみ出ていますが、本当にそうだったのでしょうか。
私はこの碑を、「付和雷同自戒之碑」と呼びたいと思います。
【おろかもの之碑】
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◆隠居の控帳
Sat, 21 Oct 2023 06:00:09 +0900
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号外! 水村園の土蔵見学会開催
安政四年(1857)創業の茶舗・水村園。
その土蔵群は国登録有形文化財に登録されています。
→ 水村園のHPをご覧ください。
その土蔵の見学会が開催されます。
日 時:
11月4日(土)
午前の部 10時~ 午後の部 1時30分~※各先着15名様※会場に駐車場はございませんので、公共交通機関あるいはお近くの有料駐車場をご利用ください。
申込み:
10月16日(月)~電話にて水村園まで 027-322-3213営業は月・火・木・金 午前10時~午後5時
なお、11月2日(木)から「みずむらやよいの正藍染コーナー」が開設され、小物グッズの販売も行われるほか、スケッチ作品や歴史資料の展示も行われます。
ぜひお出掛けになって見て下さい。
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Mon, 16 Oct 2023 06:00:00 +0900
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隠居の当擦り NGリスト
「指名NG記者リスト」
「入閣NG(のはずの)議員リスト」
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◆世事雑感
Sat, 07 Oct 2023 11:59:37 +0900
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関東大震災 高崎の虐殺事件
前回、関東大震災の混乱下に於ける流言飛語により起きた、倉賀野の朝鮮人虐殺事件をご紹介しました。
その流言飛語の源は、震災翌日の九月二日に内務省が各県知事に発信した次のような電報だったことが分かっています。
「
東京附近ノ震災ヲ利用シ、鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於イテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。
既ニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ」
これにより県内各市町村に「鮮人警戒」の通知がされ、虐殺の実行部隊となる「自警団」が編成されることになります。
そのさ中、九月四日の上毛新聞は、「不逞鮮人侵入」の大見出しで人々の恐怖を煽ります。
高崎では、こんなことがあったと載っています。
それは本当に爆弾だったのか。
桐生では、爆弾だと思ったら握り飯だったなどという、笑い話のような事件も起きています。
ことほど左様に人々は恐怖にかられパニックになっており、各地で朝鮮人が、あるいは朝鮮人と間違われた日本人が虐殺されるという事件が多発します。
これに驚いた県は、一転火消しに走ります。
煽った新聞は、十月も下旬になってからようやく各地の虐殺事件の顛末を報じるようになります。
当時、ラジオ放送はまだ行われていませんでした。(ラジオ放送開始は大正十四年)
情報は行政通達、新聞、口伝えで得るしかない時代の話です。
その情報伝達手段が、すべて間違えていた訳ですから、この悲惨な事件を防ぐのは難しかったのかも知れません。
それでも、朝鮮の人を匿って助けた日本人も、少なからずいたのです。
猪上輝雄氏著「藤岡での朝鮮人虐殺事件」(藤岡事件)には、このような証言が載っています。
「わが家に朝鮮人をかくまった」
『名前は朴さんと言いました。私の父は邑楽郡高島村の出身ですが、同じ郷里から来ていた藤岡警察署の警察官で、名は忘れましたが小宮という人がいたのです。
その小宮さんが私の家に来て、朴という朝鮮人をかくまってくれと頼んできたらしいのです。
朴さんは警察署の近くにあった木賃宿に泊まっていて、飴売りを商売にしていたようです。私の母がいつも朴さんと呼んでいたのをよく覚えています。』
『私は義父から、関東大震災の時、朝鮮人をかくまった話をよく聞かされました。
新町方面から逃げてきた二、三人の朝鮮人を正面の門から屋敷の中に入れ、家の中にかくまい、群衆に気付かれないよう裏門から倉賀野方面に逃がしたとのことです。』
このような歴史から、我々現代人は何を学ぶべきか。
ひとつには、嘘はさも真実のような顔をしてやってくるということ。
もうひとつは、人間は、とかく多数の言うことを正しいと思い込んでしまうということ。
ならば、大勢がそうだそうだと言ってる時は、敢えて疑ってみること、集団から離れてみることが大切なのではないでしょうか。
そして、自分の目で見て、調べてみて、考えてみることでしょう。
いや、それもまた難しいか・・・。
そういうことを考えるよい題材となる映画が製作されました。
9月29日(金)からシネマテークたかさきで上映されます。
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◆高崎雑感
Sat, 23 Sep 2023 06:00:00 +0900
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九品寺の朝鮮人犠牲者供養地蔵
倉賀野の「九品寺」、参道左の塀際に石塔や石仏が並んでいます。
その左端のお地蔵様の卒塔婆には、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼」と書かれています。
お地蔵様の光背正面には、「奉造地蔵爲顯光照道信士菩提 大正拾弐年九月四日」、裏面には、「大正拾四年四月四日 建立 倉賀野町民」と刻まれています。
このお地蔵さまが建立されるについては、こんな事件があったのです。
「事件の内容については、その筋に於いて厳秘となっていたが上毛新聞社の探知によって記事にした」とありますね。
大正十三年(1924)三月十日前橋地方裁判所高崎支部に於いて下された判決文と照らし合わせてもほぼ同じ内容で、取材力の高さに驚きます。
ただ、ひとつ気になるところがあって、新聞記事では「巡査が鮮人を保護中・・・」とありますが、判決文では「保護中ノ年齢二十歳氏名不詳ノ男子」となっています。
つまり、裁判では被害者が鮮人とは断定していないのです。
さらに「群集ハ・・・鮮人ナリトシ 右駐在所ヨリ引出シタルヲ以テ 右群衆中ニ居合セタル被告等ハ全テ不逞鮮人ナリト思推シ・・・」と書かれています。
つまり群衆が思い込んだだけで、もしかすると、不逞鮮人どころか鮮人ですらなかったかも知れないのです。
現に、塚沢村では鮮人と誤認された日本人が殺害されています。
実にひどい話ですが、なぜこのような残虐なことが起きたのでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の「震災下のデマ 朝鮮人暴動」という項に、こう書かれています。
「
大震災の混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こし、略奪・放火・投毒などをほしいままにしている』とのデマが流れた。
このため東京・神奈川をはじめ関東各県において、軍隊・警察・住民で組織した自警団の手で、罪なき約6700人の朝鮮人が虐殺され、約650人の中国人も犠牲となった。(略)
当初、警察や行政機関はこのデマを流布する役割を果し、人々に『自衛自警』を呼びかけ、住民による自警団の組織化を促した。」
倉賀野でも多くの人が暴行に加わったのですが、刑を申し渡されたのは次の被告四名だけでした。
被告A
懲役8ヶ月 執行猶予2年
被告B
懲役1年6ヶ月 実刑
被告C
懲役4ヶ月 執行猶予2年
被告D
懲役8ヶ月 執行猶予2年
ずいぶんと軽い刑だなぁと感じます。
しかも、大正十三年(1924)裕仁親王(後の昭和天皇)ご成婚により、その恩赦で大正十四年(1925)五月二十九日付で刑の言い渡しは効力を失っています。
その直前の大正十四年四月四日に供養地蔵を建立したのは誰なのか。
「倉賀野町民」とあるだけで、個人なのか複数人なのかも分かりません。
しかし、このお地蔵さんがあることで、人間が如何に扇動されやすい動物かということを知ることが出来ます。
関東大震災から100年を経た今、この事件を忘れずに、人間の心の弱点を胸に刻んでおきたいと思います。
【福田村事件からの教訓】
【朝鮮人犠牲者供養地蔵】
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◆高崎探訪,倉賀野
Sat, 02 Sep 2023 06:00:00 +0900
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高崎唱歌散歩-40番 ♪その名も高くさきざきに・・・
その名も高くさきざきに
日に増し進むまちの富
戸数五千に町数は
五十三とぞ知られける
「高崎唱歌」も、ついに最後の40番になりました。
作詞をした深井小五郎さん、校長先生だったというから固い方なのかと思ったら、けっこう洒落っ気もあります。
一行目の歌詞、お気づきになった方も多いでしょう。
「その名も高くさきざきに」って、さりげなく「高崎」という音を入れてるんですね。
「日に増し進む」高崎の戸数は、「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には五千戸だったようです。
世帯数と人口の推移は、このシリーズ1番に書きましたので、そちらをご参照ください。
◇高崎唱歌散歩-1番 ♪中仙道に名も高き・・・
町数は53町だったようです。
現在は261町で、約5倍に増えています。
市域もこんなに広がって。
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小五郎さんも、ここまで大きくなるとは思っていなかったでしょうね。
さて、「高崎唱歌」シリーズも終わり、シリーズ物はしばらくお休みを頂きます。
これからはブログタイトル通り、何か思い付いたつど投稿することに致します。
今後ともよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
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◆高崎探訪,高崎唱歌
Sat, 26 Aug 2023 06:00:00 +0900