2010年02月27日

三国街道 帰り道(7)

前回、「中野秣場(まぐさば)騒動」のきっかけは、明治六年(1873)に「中野秣場」国有地になったことだと書きました。

国有地になったことで、野付、札元、札下という不平等な「秣札」制は廃止され、入会の村々は公平に「秣場」を利用することができるようになりました。
秣税についても、「秣場」全体に掛けられた168円98銭を、82ヶ村の戸数や人口などにより割り付けて、各村々が負担することとなりました。
これだけ見れば、実に平等な制度になったと言えましょう。

三国街道 帰り道(7)ところが、明治八年(1875)、地租改正のための測量が行われた際、「中野秣場」3100町歩の内、松ノ沢村の飛び地47町歩だけが、なぜか松ノ沢村官有地として登録されます。
これが、後々の騒動の火種となる訳です。

松ノ沢村では、その47町歩の土地を「部分木地」※1としてに申請します。
明治十二年(1879)に許可を取得した松ノ沢村は、「部分木地」への植林を始めるとともに、その周辺に標杭を立てて、他村民の立ち入りを禁止したのです。
※1.
部分林:国有林野に、契約によって国以外の者が造林し、 その収益を国と造林者が分けあう林地。(大辞林)

そのことを知ってか知らずか、明治十三年(1880)七月、行力村の農民が「部分木地」に侵入し、松ノ沢村民に咎められて警察沙汰になるという事件が起こります。
また同じ月に、今度は浜川村の農民が「部分木地」の雑木を伐採して、松ノ沢村民に捕えられて没収されるという騒ぎもありました。

この事件が、日頃から松ノ沢村に対して不快感を抱いていた、他村の農民たちの気持ちに火を付けてしまいます。
松ノ沢村内の官有地は、もともと数百年の昔から「中野秣場」の入会地であり、松ノ沢村だけが独占すべきものではない、という気持ちが一気に噴出したのです。

白川の河原に集結した数千人の農民は、松ノ沢村「部分木地」に入って手当たり次第に伐採を始めます。
高崎警察署の鎮撫にもかかわらず、この騒動は5日間も続きました。
松ノ沢村を除く81ヶ村の代表たちは、浜川来迎寺に集合して話し合いをしますが、その時、大総代に選出されたのが、42歳の真塩紋弥です。

真塩らは、棟高村の県会議員・志村彪三の仲裁で、松ノ沢村との間に和解約定書を交わすことに成功しました。
約定書には、
(1)松ノ沢村「部分木地」官有地にしたことを取り消す。
(2)「部分木地」に植えた木は役所の許可が下り次第、伐採する。
などの項目があり、これで従前通りの「秣場」になるはずでした。

ところが、(2)項の役所の許可がいつまで経っても下りてきません。
そうこうしている内に、松ノ沢村は先の和解を破棄し、逆に他の村々を訴える挙に出たのです。
ここに、騒動はまた再燃してしまいます。

明治十四年(1881)三月、81ヶ村の代表たちは福島村金剛寺に集結し、「部分木地」の伐採強行を決議します。
これに対しは、警察ばかりか軍隊の出動まで準備して、鎮圧に乗り出します。
真塩紋弥と福島村・青木亀吉は東京の内務省に駆け込み、事件の真相を内務卿・松方正義に直訴しようとしますが、待ち構えていた警視庁により逮捕されてしまいます。

熊谷裁判所前橋支庁は、真塩紋弥に対し凶徒嘯聚(しょうしゅ)※2で懲役二年半、讒謗律(ざんぼうりつ)※3違反で禁獄三十日の判決を言い渡します。
そうして真塩紋弥が投獄されたのが、あの岩鼻監獄でした。
その後、三ツ寺村民による保釈請願もあって、明治十七年(1884)刑期途中で保釈されます。
※2.
嘯聚:呼び集めること
※3.
讒謗律:明治8年(1875)明治政府によって公布された言論統制令。自由民権運動の隆盛に伴う政府批判を規制するため、人を誹謗する文書類を取り締まった。(大辞泉)

三国街道 帰り道(7)獄を出た真塩紋弥は、再び教育の道に戻るものの徐々に家運傾き、明治四十三年(1910)鬼石町に移住し、翌、明治四十四年(1911)74歳の生涯を閉じます。

墓は、生まれ故郷の稲荷台真塩家墓地の一角に隠れるように建っており、なかなか見つけることができませんでした。
ロウセキで文字をなぞってみたら、台石に「門人之を建つ」と刻まれていました。

(参考図書:「群馬町誌」「群馬県史」「騒動」)


【真塩紋弥の墓】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:59
Comments(12)三国街道
この記事へのコメント
この「中野秣場騒動」は以前から気になってました。とはいうものの、プロットが錯綜していて理解し難いところがありました。
今回の隠士の記事で、概要が掴めそうで、楽しみにしております。
入会地-入会権と国有地への繰入-税金負担者と土地所有・・・このあたりの歴史的推移は、考えてみると明治政府が近代化推進の意志を露ににした過程ですね。それ以前の農村のあり方が大きく変わって行く契機になったと思います。そのうねりが上州でも社会的大事件として現れたわけで、自由民権運動との連動-群馬事件は1884年(明治17年)-に大きな関心を持っています。隠士の次の記事に期待してます。
Posted by 夢寅  at 2010年02月27日 11:52
ふーむ。迷道院様、勉強させてもらいました。真塩紋弥という人、これはもう偉人といってもいいですね。自ら捕らわれの身になるのも厭わず村人たちの訴えを政府に持って行こうなんて。
ところで我が柏木沢村はなんと!「札下村」だったのですね。たぶん広馬場村あたりから秣札を買ってたんでしょうなー。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年02月27日 18:59
>夢寅さん

仰る通り、史料によって異なる部分が結構あって、錯綜していますね。
いくつかの史料を読み込んで、おおよそこんな流れなのかな、と思っています。

松ノ沢村の飛び地が官有地になった理由、一旦交わした和解約定書が反故になった理由、いずれも不可解です。
何らかの利権が働いているように思えますが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月27日 22:19
>柏木沢の農家おじさん様

当時は、評価が様々だったように思います。
晩年になって鬼石へ移ったこと、墓は門弟たちが建てたということ、それも墓地の隅に建てられているということに、何かを感じてしまうのですが・・・。

いずれにしても、時代の先頭を切った人物だったことは間違いありません。
語り継いでいく必要はありますね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月27日 23:04
岩鼻監獄・・・恐ろしい名称です。
五万石騒動のこともはじめて知りました。
庶民の戦いがあり、多くの血が流されたのですね。錆びついた脳をもっと働かせて、じっくり読ませていただきます^^。
Posted by 風子  at 2010年02月28日 10:18
>風子さん

江戸から明治へ、日本が大きく変わり始める時、期待と戸惑いのうねりの中で様々な騒動が起きたんですね。

「中野秣場騒動」を題材にした「蓆旗群馬嘶(むしろばた・ぐんまのいななき)」という講談本のようなものがあるのですが、その中で庶民をこの様に表現しています。
「一犬虚を吠えて萬犬実に鳴くの道理、古より今世に至るまで、ややもすれば無知頑蒙の徒(やから)」

現代も平成維新などと言われていますが、気を付けないといけませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月28日 20:28
迷堂院高崎様始めまして!
埼玉県上尾市在住のもの書きの「たなか踏基」と申します。

この度真塩紋弥に関する歴史小説を執筆したく各地を目下取材中です。たまたま貴兄ブログに興味を抱き書き込みました。私は昔岩鼻の日本化薬高崎研究所勤務で群馬縁の者です。下仁田町の中小坂鉄山題材の近著『鷺の笛 中小坂鉄山秘聞』(幻冬舎ルネ)あります。ご興味でしたら各図書館にありますので御高覧賜れば幸いです。
Posted by たなか踏基  at 2013年05月14日 11:10
>たなか踏基 様

これはこれは、プロの作家の方からのコメント、光栄です!

真塩紋弥の歴史小説をご執筆中とのこと、楽しみです。
地元でも、紋弥を知る人は少なくなっていると思いますので、踏基様の小説でぜひ光を当てて頂きたいと思います。

ご著書の「鷺の笛」、吉井図書館に蔵書がありました。 早速、読ませて頂きます。

仕事で、中小坂鉄山の近くをよく通っていました。
小栗上野介も調査に来ていたという話も聞いていて、興味を持っていました。
ご著書で勉強させて頂きます。

踏基様は、上州を舞台とした小説を何点も出されているのですね。
これからも、上州・高崎を舞台にした小説で、郷土の歴史に光を当てて頂けたら嬉しいです。

益々のご活躍をお祈り申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年05月14日 20:23
>真塩紋弥の歴史小説をご執筆中とのこと、楽しみです。

いいえ未だ執筆はしておりません。
目下取材中で構想を練っている段階です…
近々旧群馬町の某氏や群馬大学の某教授にお目に係りに参ります。諸兄の知見や助言をお寄せ下さい。

拙著『鷺の笛』図書館で見つけられた由 拙著で上野上野介にも触れています。ぜひ読後感を賜れば幸いです。更に加賀藩分藩で現富岡に存在した小藩の七日市藩を描いた『七日市藩和蘭薬記』にも目をとめて下さると幸いです。

検索で兄ブログにとても惹かれた者です。

日本化薬の社宅に十数年居住した経験で以下の
箇所にも大変共感できましたよ(笑)
>岩鼻牢獄の下り
>同代官所跡

 
Posted by たなか踏基  at 2013年05月14日 21:50
>たなか踏基 様

あ、そうでした、取材中とありましたね(^^ゞ

「七日市藩和蘭薬記」も、とても興味があります。
この本も、吉井の図書館にありましたので、読ませて頂きます。

踏基様のHPも拝見しました。
随想録、とても面白いです。
特に、隠れキリシタンについてのお話しは、興味深かったです。
高崎にも、隠れキリシタンのお墓があったり、
http://inkyo.gunmablog.net/e31113.html
隠れキリシタンのマリア像があったりします。
http://inkyo.gunmablog.net/e52721.html

拙ブログをお目に留めて頂き、ありがとうございます。
素人の拙いブログですが、皆様のフォローのおかげで内容を補って頂いております。
これからも、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年05月14日 23:23
どうも初めまして。
最近、「百姓たちの山争い裁判」という本を読みまして、まさにここに書いてあるような事の江戸・明治の裁判を書いた本です。
争いは群馬にもあったのですね、ありがたい記事です。
騒動に発展するところが群馬らしい!と感じました。
Posted by 高崎南部民  at 2022年05月23日 20:43
>高崎南部民さん

コメント、ありがとうございます。
近頃は何でもかんでも自己責任にされる風潮がありますが、昔の人は何が本質的な問題なのかきちんと分析することができたようですね。
先人に学ぶことは多いです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2022年05月25日 19:54
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