旧群馬町足門(あしかど)の「徳昌寺」。
「徳昌寺」の南東角の四つ辻を南(写真では右)に入ります。
130mほど行くと、道端に石仏が一基建っています。
そこを左に入ると、立派な庭園が現れます。
その左手奥の塚上にあるのが、「薬師堂」です。
史跡看板は、石段を上がった右側に建っています。
看板にある「飯島雪斎翁の碑」というのがこれです。
飯島雪斎は、享和二年(1802)足門に生まれ、十八歳のとき江戸に遊学、次いで京都、大阪へ上り西洋医学を学びます。
さらに長崎でシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ねて三十二歳で帰郷、「飯島医院」を開きます。
医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たり、元治元年(1864)六十四歳で逝去しています。(ぐんま県郷土史辞典)
この「薬師堂」ですが、実は9年前に訪れています。
◇旧三国街道 さ迷い道中記(11)
看板にあるように、この「薬師堂」は「徳昌寺」持ちです。
その辺の経緯については、次の記事をご参照ください。
◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)
「薬師堂」は「徳昌寺」持ちですが、隣の庭園は中澤家持ちです。
では、晩秋の庭園を見ていきましょう。
大きな石灯籠と、紅葉した楓、美しく剪定された松、そして低木と石がいい感じ。
ピンクの山茶花と紅い楓の絨毯に、「佐渡赤玉石」がよく似合っています。
「赤城の小松石」を使ったという石垣の上に、瀟洒な東屋が建っています。
東屋から眺める庭園も、一幅の絵画を見るようです。
この庭園を維持していくのは大変なことと思いますが、「薬師堂」とともに、後々の世まで残していって頂きたいと思います。
「徳昌寺」の南東角の四つ辻を南(写真では右)に入ります。
130mほど行くと、道端に石仏が一基建っています。
そこを左に入ると、立派な庭園が現れます。
その左手奥の塚上にあるのが、「薬師堂」です。
史跡看板は、石段を上がった右側に建っています。
看板にある「飯島雪斎翁の碑」というのがこれです。
飯島雪斎は、享和二年(1802)足門に生まれ、十八歳のとき江戸に遊学、次いで京都、大阪へ上り西洋医学を学びます。
さらに長崎でシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ねて三十二歳で帰郷、「飯島医院」を開きます。
医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たり、元治元年(1864)六十四歳で逝去しています。(ぐんま県郷土史辞典)
この「薬師堂」ですが、実は9年前に訪れています。
◇旧三国街道 さ迷い道中記(11)
看板にあるように、この「薬師堂」は「徳昌寺」持ちです。
その辺の経緯については、次の記事をご参照ください。
◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)
「薬師堂」は「徳昌寺」持ちですが、隣の庭園は中澤家持ちです。
では、晩秋の庭園を見ていきましょう。
大きな石灯籠と、紅葉した楓、美しく剪定された松、そして低木と石がいい感じ。
ピンクの山茶花と紅い楓の絨毯に、「佐渡赤玉石」がよく似合っています。
「赤城の小松石」を使ったという石垣の上に、瀟洒な東屋が建っています。
東屋から眺める庭園も、一幅の絵画を見るようです。
この庭園を維持していくのは大変なことと思いますが、「薬師堂」とともに、後々の世まで残していって頂きたいと思います。
【足門の薬師堂】