2019年12月29日

史跡看板散歩-169 足門の薬師堂

旧群馬町足門(あしかど)の「徳昌寺」


「徳昌寺」の南東角の四つ辻を南(写真では右)に入ります。


130mほど行くと、道端に石仏が一基建っています。



そこを左に入ると、立派な庭園が現れます。


その左手奥の塚上にあるのが、「薬師堂」です。


史跡看板は、石段を上がった右側に建っています。



看板にある「飯島雪斎翁の碑」というのがこれです。


飯島雪斎は、享和二年(1802)足門に生まれ、十八歳のとき江戸に遊学、次いで京都、大阪へ上り西洋医学を学びます。
さらに長崎でシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ねて三十二歳で帰郷、「飯島医院」を開きます。
医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たり、元治元年(1864)六十四歳で逝去しています。(ぐんま県郷土史辞典)

この「薬師堂」ですが、実は9年前に訪れています。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(11)

看板にあるように、この「薬師堂」「徳昌寺」持ちです。
その辺の経緯については、次の記事をご参照ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)

「薬師堂」は「徳昌寺」持ちですが、隣の庭園は中澤家持ちです。
では、晩秋の庭園を見ていきましょう。
大きな石灯籠と、紅葉した楓、美しく剪定された松、そして低木と石がいい感じ。


ピンクの山茶花と紅い楓の絨毯に、「佐渡赤玉石」がよく似合っています。


「赤城の小松石」を使ったという石垣の上に、瀟洒な東屋が建っています。


東屋から眺める庭園も、一幅の絵画を見るようです。


この庭園を維持していくのは大変なことと思いますが、「薬師堂」とともに、後々の世まで残していって頂きたいと思います。


【足門の薬師堂】


  


2019年12月22日

史跡看板散歩-168 足門の百庚申

「金古南足門(かねこ・みなみ・あしかど)公民館」の入口に、「足門の百庚申」があります。


「百庚申」といっても、百基建っている訳ではなくて。


一基に、多数の「庚申」という文字が刻まれているということです。



「栗崎町の諏訪神社」にも、このタイプの「百庚申塔」がありました。

また「足門の百庚申塔」には、「青面王」(しょうめんおう)と刻まれています。
「青面王」については、まだブログ駆け出しの頃、たいへん手こずったことがあります。
「旧三国街道の三ツ寺」でのことです。

なお、なぜ「青い面の王」なのか、「庚申」とどういう関係なのかについては、「綿貫町の正面金剛」の記事をご参照ください。

史跡看板に、「この庚申様は三国街道沿いにあったが、平成元年にこの場所に移した」とあります。
その辺の経緯が、「由来」という石碑に刻まれていました。


この道しるべも、その時、移されたのかも知れませんね。


旧群馬町は、史跡を大切にしていたことがよく分かります。
高崎市と合併したことにより、その精神が失われないことを祈るばかりです。


【足門の百庚申塔】


  


2019年12月15日

史跡看板散歩-167 稲荷台の稲荷神社と大国主命碑

稲荷台(とうかだい)の「稲荷神社」


社殿と区民センターの間に石造物が並んでいるのが見えたので、行ってみました。

ああ、「花園薬師」のお堂の中にあったのと同じ石仏がたくさん並んでます。
これが、稲荷台「小薬師」さんなんでしょうね。

さて、「稲荷神社」です。


入植時は22軒だったということですが、現在は182軒になっています。(平成27年国勢調査)

「彫物は極彩色が施されていたが、現在は彩色を失っている」とありますが、よく見ると痕跡は残っています。



ふと、賽銭箱の文字に目が止まりました。

昭和十五年(1940)、紀元二千六百年を記念して奉納されたようです。
明治政府の御用学者が無理やりこじつけた、神武天皇即位の年・西暦紀元前660年から2600年だという訳です。

「記念 三夫婦三代揃」と刻まれています。
太平洋戦争突入の前年、まだ三代夫婦が欠けることなく揃っていられる頃だったのです。
左側面には、その真塩家三代夫婦の氏名が刻まれています。

社殿脇に、平成十八年(2006)の改修記念碑が建っています。


それを見ると、かつての境内は「老杉鬱蒼として清浄の地であったが、世界大戦時、飛行場建設により昭和十九年(1944)鎮守の杜(もり)を失ない」とあります。
「陸軍前橋飛行場」(堤ヶ岡飛行場)建設のために伐採されたという老杉は径九尺(2.7m)もあり、伐採後に年輪を数えてみると240余りあったということから、神社創建の年に植えたものであろうということです。(国府村誌)

戦争とは、実に勿体ないことをするものです。

戦争が終わって昭和二十二年(1947)再び杉苗を植え、さらに真塩キクエさんの実家(赤城村)から杉苗百本の寄進を受け、昭和四十年(1965)に補植したといいます。(国府村誌)

「稲荷台」には「真塩」という姓が多いのですが、思い出しました。
下小鳥町「首塚」に建っている、「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の撰文を書いた真塩紋弥も、「稲荷台」の人でした。
真塩紋弥の墓は、「稲荷神社」のすぐ北の真塩家の墓地に、ひっそりと建っています。

「稲荷神社」の南隣に、もう一つの史跡「大国主命碑」があります。


でかい石碑です。



看板によると、かつては「青面金剛像」の道しるべが建っていたようですが、今は小さな道しるべだけが残っています。

「御成婚記念」とありますが、どなたのご成婚なのか、日付が読み取れないので分かりません。
ただ、「青年団」という呼称は大正に入ってから使われるようになったらしいので、おそらく、明治三十三年(1900)ご成婚の大正天皇ではなく、大正十三年(1924)ご成婚の昭和天皇のことなんでしょう。

さてさて、秋の日は釣瓶落とし。
薄暗くなって、お稲荷(おとうか)に化かされない内に、家路につくとしましょうか。


【稲荷台の稲荷神社】

【大国主命碑】


  


2019年12月08日

史跡看板散歩-166 塚田町の花園薬師

旧群馬町の小字「花園」から700m南南東の「塚田」


そこに、なぜか「花園薬師」



「花園薬師」の由来については、あまり確かなことは分かっていないようです。
「国府村誌」には、こう書かれているのですが。
泰亮愚海はその著「上毛伝説雑記拾遺」巻三に於いて後一条天皇の長元元戊辰六月、平忠常が下総国より当地に移り城を築き、その鎮護の為に妙見寺や国分寺の塔を再建し花園薬師、化粧薬師、斎城薬師、阿弥陀寺、最勝寺、最経寺、八王子権現、弥勒寺、清徳寺等を建てたと書いているし、「上毛及上毛人」五十三号府中号に於ても、国分寺廃滅後(鎌倉初期)府中の人々が国分寺の法体を移し、国分寺に代わるものとして尊信したのが花園薬師であるとハッキリ書いている。」
「ハッキリ書いている。」と言うんですが、読解力の弱い私には、ハッキリ分かりませんでした。

看板の中ほどに書かれている「小薬師」が、堂の中に鎮座していました。


ほんとは、もっと沢山あったらしいです。
花園薬師の石像の類は明治末年より大正の末年迄、稲荷台を相手に子供達が「石仏の取りっこ」を行い、此処にあった古い石仏類は恐らく稲荷台へ持ち去られ、何処かの邸の裏にでも埋められているらしい。」(国府町誌)

「稲荷台」(とうかだい)というのは、「塚田」の隣村です。

畑仕事をしている方に聞いてみました。
「稲荷台の薬師様というのは、この近くにあるんですか?」
「区民センターの所にあったんだけどね・・・。」
区民センターを建てる時に、どこかへ行ってしまったようです。

じゃ、次回は「稲荷台」へ行ってみましょうか。
今日は、ここまで。


【花園薬師】


  


2019年12月01日

史跡看板散歩-165 後疋間の福守神社

複雑な形をした、後疋間町(うしろひきま・まち)と、その周囲をぐるっと囲む引間町(ひきま・まち)。
その境目に、「福守神社」があります。


田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
  船尾山縁起では、「千葉常将が船尾寺に預けた子が天狗にさらわれたのを、寺で殺されたと思い、大兵を率いて船尾山を焼き討ちした。
これに対し、寺側も僧兵を繰り出したので、常将は一時的に兵を引いた。
この場所を引間という。」

また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
  おそらく引間は引馬であり、古く馬市などが妙見社の祭礼日にあったのではなかろうかと思う。

同じ読みをする、「引間」「疋間」については、
  「後疋間」の名のいわれは、「引間」の北につながっている土地であることによっている。
「引間」と「後疋間」は、以前は一つの「ひきま」であったと考えられるが、南接する「引間」と区別するため、江戸時代から「疋間」と表記していた。
明治十一年(1878)群馬郡が二分して西群馬郡になったとき、「後」の字を加えて「後疋間村」になった。
のだそうです。

さて、「福守神社」です。


看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。

「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。

「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。


「諏訪大明神」「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。

その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。


「群馬町誌 通史編下」によると、
神体は鉄製の男性器で長さ20cmほどの大きさである。
この神体の制作年代は不詳だが、社伝では福守神社の創建と同じくしている。
また戦前には、社殿にところせましと数百本の木製男根が奉納されてあり、それも社殿には入りきれず軒下まで積み重ねる状態だったと聞く。」
とあります。

覗いてみましょう。

御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。

看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。


昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。

ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。

えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。


説明書きも添えられています。

これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。

歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。


【福守神社】