高崎から三国街道(高崎-渋川線)を北上して、「堤下公園」を過ぎてすぐ東(右)へ入ると、「胸形(むなかた)神社」があります。
以前来た時は、桜の大木が枝を茂らせて鬱蒼としていましたが、だいぶ伐採されて、すっかり明るくなりました。
大きな常夜燈がポツンと建ってますが、以前は鳥居の正面辺りにあったそうで、道路拡幅のために今の位置に移動したということです。
常夜燈にはいろいろ文字が刻んであって、風化もしてなくてはっきりはしてるんですが、読めません。
「明治十六年」の上の字は、なんていう字なんですか?
字典で調べてみると、「旨」の異体字らしいんですが・・・。
ただ、意味のどれを当てはめてみても、ピンとくるものがありません。
何なんですか、「旨明治十六年」って。
字典をペラペラめくっていると、こんな字が目に止まりました。
これなら「明治十六年に献ずる」ということで、意味は通りそうです。
「旨」と「享」の間違いですかねぇ。
これも右端の字が読めません。
辞典で探してみると、どうやら「黎」の異体字で、「多い」とか「諸々」という意味があるそうです。
ということは、「黎民歓」で「諸々の民が歓ぶ」という意味になりそうです。
さらに、もうひとつ。
「世話人當所」の下、何て書いてあるんですか?
一番右は「壮」?
2番目だけなぜか崩し字なんですが、「健」?
3番目は、「乞」?
4番目は、「社」?
「壮健を社に乞う」ということ?
うーん、なんかよく分かりません。
どなたか、ご教示ください!
さて、史跡看板はその常夜燈の隣、古そうな双体道祖神に並んで建っています。
「胸形神社」のことについては、毎度のことですみませんが、過去記事をご覧ください。
◇三国街道 帰り道(11)
看板の最後に、「正月の六日に行われる水的の儀」と書いてあります。
どんなものなのか知りたくて、元日の「胸形神社」へ行ってみたのですが、神社に関係してる方は一人もいらっしゃいませんでした。
お参りに来た方や、散歩中の地元の方にお尋ねしたのですが、どなたもご存じありません。
そんな中、お一人からこんな情報を頂きました。
「今日の上毛新聞の歳時記というのに、1月15日に胸形神社で弓で何かする行事があるって出てたよ。」と。
家に戻って、元日のたくさんの新聞の中から、見つけ出しました。
「2020 高崎くらし歳時記」というページでした。
そこには「強者弓始式」となっていて、看板にある「水的の儀」と同じものなのかどうかは、分かりません。
ネットでいろいろ調べていると、前橋の「総社神社」では1月6日に「水的神事」というのが行われているということが分かりました。
「胸形神社」では1月6日に行われる行事はないことも分かりましたので、その日は「総社神社」へ行ってみました。
翌日の新聞にその記事が載りましたので、それをご覧ください。
新聞では「水的の式」となっていて、きっと「胸形神社」の「水的の儀」も、その年の降水量を占う儀式なのでしょう。
そして1月15日、待ち望んだ「強者弓始式」を見に「胸形神社」へ行ってきました。
午後1時、氏子の方々は拝殿で修祓(しゅばつ)を受けてから「弓始式」に臨みます。
まずは神官から。
みごと的中です!
その後、氏子の方々全員が順番に矢を射ります。
中には的のど真ん中を射抜く強者もいて、驚きました。
神官は、石原町「小祝神社」の西園勲宮司で、「胸形神社」宮司を兼ねています。
西園宮司にこの行事についてお伺いしたところ、「しばらく途絶えていて詳しいことは伝わっていないが、その年の作物の豊凶、降水量などを占うものだと思う。」ということでした。
社殿には弓の奉納額が掛かっていますが、これも「水的の儀」「強者弓始式」と関係があるのでしょうか。
宮司さんや氏子の皆さんのご厚意で、拝殿のなかに入れて頂きました。
奥に見事な天井絵があるのですが、手前に垂れ壁があるので、氏子さんたちもつい最近までその存在に気付かなかったそうです。
屋根のカーブが美しい本殿。
剽軽な形の御神燈は慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古の年に奉納されたものです。
幕末・明治のドタバタを、静かに眺めていたんでしょうね。
希わくは多くの民の歓びが満ち満つる平穏な世が、幾久しく続きますように、と祈って参りました。
以前来た時は、桜の大木が枝を茂らせて鬱蒼としていましたが、だいぶ伐採されて、すっかり明るくなりました。
大きな常夜燈がポツンと建ってますが、以前は鳥居の正面辺りにあったそうで、道路拡幅のために今の位置に移動したということです。
常夜燈にはいろいろ文字が刻んであって、風化もしてなくてはっきりはしてるんですが、読めません。
「明治十六年」の上の字は、なんていう字なんですか?
字典で調べてみると、「旨」の異体字らしいんですが・・・。
ただ、意味のどれを当てはめてみても、ピンとくるものがありません。
何なんですか、「旨明治十六年」って。
字典をペラペラめくっていると、こんな字が目に止まりました。
これなら「明治十六年に献ずる」ということで、意味は通りそうです。
「旨」と「享」の間違いですかねぇ。
これも右端の字が読めません。
辞典で探してみると、どうやら「黎」の異体字で、「多い」とか「諸々」という意味があるそうです。
ということは、「黎民歓」で「諸々の民が歓ぶ」という意味になりそうです。
さらに、もうひとつ。
「世話人當所」の下、何て書いてあるんですか?
一番右は「壮」?
2番目だけなぜか崩し字なんですが、「健」?
3番目は、「乞」?
4番目は、「社」?
「壮健を社に乞う」ということ?
うーん、なんかよく分かりません。
どなたか、ご教示ください!
さて、史跡看板はその常夜燈の隣、古そうな双体道祖神に並んで建っています。
「胸形神社」のことについては、毎度のことですみませんが、過去記事をご覧ください。
◇三国街道 帰り道(11)
看板の最後に、「正月の六日に行われる水的の儀」と書いてあります。
どんなものなのか知りたくて、元日の「胸形神社」へ行ってみたのですが、神社に関係してる方は一人もいらっしゃいませんでした。
お参りに来た方や、散歩中の地元の方にお尋ねしたのですが、どなたもご存じありません。
そんな中、お一人からこんな情報を頂きました。
「今日の上毛新聞の歳時記というのに、1月15日に胸形神社で弓で何かする行事があるって出てたよ。」と。
家に戻って、元日のたくさんの新聞の中から、見つけ出しました。
「2020 高崎くらし歳時記」というページでした。
そこには「強者弓始式」となっていて、看板にある「水的の儀」と同じものなのかどうかは、分かりません。
ネットでいろいろ調べていると、前橋の「総社神社」では1月6日に「水的神事」というのが行われているということが分かりました。
「胸形神社」では1月6日に行われる行事はないことも分かりましたので、その日は「総社神社」へ行ってみました。
翌日の新聞にその記事が載りましたので、それをご覧ください。
新聞では「水的の式」となっていて、きっと「胸形神社」の「水的の儀」も、その年の降水量を占う儀式なのでしょう。
そして1月15日、待ち望んだ「強者弓始式」を見に「胸形神社」へ行ってきました。
午後1時、氏子の方々は拝殿で修祓(しゅばつ)を受けてから「弓始式」に臨みます。
まずは神官から。
みごと的中です!
その後、氏子の方々全員が順番に矢を射ります。
中には的のど真ん中を射抜く強者もいて、驚きました。
神官は、石原町「小祝神社」の西園勲宮司で、「胸形神社」宮司を兼ねています。
西園宮司にこの行事についてお伺いしたところ、「しばらく途絶えていて詳しいことは伝わっていないが、その年の作物の豊凶、降水量などを占うものだと思う。」ということでした。
社殿には弓の奉納額が掛かっていますが、これも「水的の儀」「強者弓始式」と関係があるのでしょうか。
宮司さんや氏子の皆さんのご厚意で、拝殿のなかに入れて頂きました。
奥に見事な天井絵があるのですが、手前に垂れ壁があるので、氏子さんたちもつい最近までその存在に気付かなかったそうです。
屋根のカーブが美しい本殿。
剽軽な形の御神燈は慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古の年に奉納されたものです。
幕末・明治のドタバタを、静かに眺めていたんでしょうね。
希わくは多くの民の歓びが満ち満つる平穏な世が、幾久しく続きますように、と祈って参りました。
【胸形神社】