ちょいと用事が重なり、投稿に間が空いてしまいました。
棟高の観音寺を後に「堤下公園」まで来た所で、確かこの辺に真塩紋弥の碑があるということを思い出しました。
真塩紋弥は、「切干塚」の不思議にも登場した人物です。
「堤下公園」の信号を西に入ってすぐの三叉路に、「真鹽紋彌翁之碑」は建っていました。
真塩紋弥は、天保九年(1838)稲荷台に生まれ、後に三ツ寺に移ります。
幼い頃から学問を好み、十九歳の時、江戸下谷の成島図書頭(なるしま・ずしょのかみ)の塾で漢籍を学び、文久三年(1863)三ツ寺に戻って私塾「芳叢(ほうそう)書院塾」を開きます。
明治六年(1873)に設立された、棟高小学校最初の正教員就任を機に塾を閉じますが、その間に三百数十人という多数の門弟を輩出しています。
この碑は、大正二年(1913)に門弟たちが建てた顕彰碑です。
真塩紋弥といえば、明治初期に起きた「中野秣(まぐさ)場騒動」を書かない訳にはいきません。
が、これがなかなかややこしい話なんです。
そもそも、「中野秣場」とは何だという話です。
箕郷町から榛東村にかけた、榛名山東麓の3100町歩(約3100ha)に及ぶ林野をそう呼んでいたそうです。
「秣(まぐさ)」とは、馬の餌にする草のことで、たぶん「馬草(まぐさ)」なのでしょう。その「秣」を取る場所なので、「秣場」となります。
農業用機械も化学肥料もなかった当時の農業において、草は馬の餌に、落ち葉は堆肥に、枯枝は燃料にと、必要不可欠な資源でした。
それらの資源は、山間部の農家は自村で豊富に入手できますが、平地の農家ではそうはいきません。
そこで、平地の農家にも共同利用できるようにしたのが「入会地(いりあいち)」と呼ばれる山間部の土地で、「中野秣場」は江戸時代から続く「入会地」でした。
「秣場」とはいうものの、馬の餌だけでなく、肥料や燃料をも入手する重要な場所だったのです。
右の図は、「中野秣場」を利用していた村々を描いています。
ずいぶん遠くの村まで利用していたことが分かります。
ただ、どの村も同じように利用できたという訳ではありません。
「秣場」をもつ村は「野付(のつけ)村」といい、「秣場」への出入りは自由にできます。
「野付村」に隣接する村は「札元(ふだもと)村」といい、「秣場」への出入りは自由でしたが、領主に「秣税」を納める義務があります。
上記以外の村は「札下(ふだした)村」といって、「札元村」が発行する「秣札」を購入しなければ利用することができません。
「札元村」は、この「秣札」の売り上げの8割を、領主に納めていたのです。
それでも、この方法で特に問題が発生することはありませんでした。
騒動になるきっかけは、明治六年(1873)、「中野秣場」が国有地になったことでした。
長くなりそうですので、この続きは次回に致します。
棟高の観音寺を後に「堤下公園」まで来た所で、確かこの辺に真塩紋弥の碑があるということを思い出しました。
真塩紋弥は、「切干塚」の不思議にも登場した人物です。

真塩紋弥は、天保九年(1838)稲荷台に生まれ、後に三ツ寺に移ります。
幼い頃から学問を好み、十九歳の時、江戸下谷の成島図書頭(なるしま・ずしょのかみ)の塾で漢籍を学び、文久三年(1863)三ツ寺に戻って私塾「芳叢(ほうそう)書院塾」を開きます。
明治六年(1873)に設立された、棟高小学校最初の正教員就任を機に塾を閉じますが、その間に三百数十人という多数の門弟を輩出しています。
この碑は、大正二年(1913)に門弟たちが建てた顕彰碑です。
真塩紋弥といえば、明治初期に起きた「中野秣(まぐさ)場騒動」を書かない訳にはいきません。
が、これがなかなかややこしい話なんです。
そもそも、「中野秣場」とは何だという話です。
箕郷町から榛東村にかけた、榛名山東麓の3100町歩(約3100ha)に及ぶ林野をそう呼んでいたそうです。
「秣(まぐさ)」とは、馬の餌にする草のことで、たぶん「馬草(まぐさ)」なのでしょう。その「秣」を取る場所なので、「秣場」となります。
農業用機械も化学肥料もなかった当時の農業において、草は馬の餌に、落ち葉は堆肥に、枯枝は燃料にと、必要不可欠な資源でした。
それらの資源は、山間部の農家は自村で豊富に入手できますが、平地の農家ではそうはいきません。
そこで、平地の農家にも共同利用できるようにしたのが「入会地(いりあいち)」と呼ばれる山間部の土地で、「中野秣場」は江戸時代から続く「入会地」でした。
「秣場」とはいうものの、馬の餌だけでなく、肥料や燃料をも入手する重要な場所だったのです。

ずいぶん遠くの村まで利用していたことが分かります。
ただ、どの村も同じように利用できたという訳ではありません。
「秣場」をもつ村は「野付(のつけ)村」といい、「秣場」への出入りは自由にできます。
「野付村」に隣接する村は「札元(ふだもと)村」といい、「秣場」への出入りは自由でしたが、領主に「秣税」を納める義務があります。
上記以外の村は「札下(ふだした)村」といって、「札元村」が発行する「秣札」を購入しなければ利用することができません。
「札元村」は、この「秣札」の売り上げの8割を、領主に納めていたのです。
それでも、この方法で特に問題が発生することはありませんでした。
騒動になるきっかけは、明治六年(1873)、「中野秣場」が国有地になったことでした。
長くなりそうですので、この続きは次回に致します。
(参考図書:「群馬町誌」「群馬町の文化財」「群馬県史」)
【真鹽紋彌翁之碑】