10年前の平成二十七年(2015)「駅から遠足 観音山」シリーズの中で、天来庵天来(矢島孫三郎)のことを書きました。
◇駅から遠足 観音山(20)
◇駅から遠足 観音山(42)
(42)の記事の最後に、「天来は信州姨捨山の長楽寺境内に句碑を建てた」と書いたのですが、実物を見ていなかったので、ずっと気になっていました。
それで一昨年の秋、信州旅行からの帰り道、姥捨の「長楽寺」へ寄ってみました。
ところが、境内をいくら探しても探しても、天来の句碑が見つかりません。
寺務所も普段は不在らしく、誰もいません。
近くにある姨捨の案内所「日本遺産センター」へも行って聞いてみたのですが、ガイドブックを渡されて「この中にありますか?」と逆に聞かれたりして。
いや、ありませんねぇ。
日も傾いてきたので、残念無念の思いを抱えたまま姨捨を後にしたのでした。
それから一年たった昨年、秋の気配を感じるようになると、もう一度姨捨へ行って探してみたくなりました。
しかし、また無駄足を踏むのはご免なので、まずは「長楽寺」さんへ電話をして聞いてみました。
すると、「亀山さんという人が詳しいので、電話してみてください。」と言うので、すぐに電話をしてみたのです。
「天来という人の、『見えぬ我 眼にも明るし 山の月』という句碑を探しているんですが。」と言うと、「分からないけれども、探してみましょう。」というご返事を頂きました。
何日かして、「ありましたよ。」という嬉しいお電話です。
ということは、やっぱり私の探し方が悪かったのかと、ちょっぴり凹みはしましたが。
そして10月の末、姨捨の「日本遺産センター」で亀山さんとお会いすることができました。
亀山正明さんは、姨捨でボランティアガイドをされている方でした。
挨拶もそこそこに案内して頂いた場所は、「長楽寺」から坂道を200mほど上った山の斜面でした。
「月見畑」という看板が建っています。
「あれがそうですよ。」と亀山さんが指さしたのは、二本の杉の木の間に隠れるように建っている碑でした。
そばに行くと、まちがいなく天来の句碑です!
右下に「盲天来」、篆額は「瓢翁碑」と刻まれています。
碑背には、こう刻まれています。
それにしても、天来はなぜここに句碑を建てることになったんでしょうか。
そのお話は、次回ということに。
◇駅から遠足 観音山(20)
◇駅から遠足 観音山(42)
(42)の記事の最後に、「天来は信州姨捨山の長楽寺境内に句碑を建てた」と書いたのですが、実物を見ていなかったので、ずっと気になっていました。
それで一昨年の秋、信州旅行からの帰り道、姥捨の「長楽寺」へ寄ってみました。
ところが、境内をいくら探しても探しても、天来の句碑が見つかりません。
寺務所も普段は不在らしく、誰もいません。
近くにある姨捨の案内所「日本遺産センター」へも行って聞いてみたのですが、ガイドブックを渡されて「この中にありますか?」と逆に聞かれたりして。
いや、ありませんねぇ。
日も傾いてきたので、残念無念の思いを抱えたまま姨捨を後にしたのでした。
それから一年たった昨年、秋の気配を感じるようになると、もう一度姨捨へ行って探してみたくなりました。
しかし、また無駄足を踏むのはご免なので、まずは「長楽寺」さんへ電話をして聞いてみました。
すると、「亀山さんという人が詳しいので、電話してみてください。」と言うので、すぐに電話をしてみたのです。
「天来という人の、『見えぬ我 眼にも明るし 山の月』という句碑を探しているんですが。」と言うと、「分からないけれども、探してみましょう。」というご返事を頂きました。
何日かして、「ありましたよ。」という嬉しいお電話です。
ということは、やっぱり私の探し方が悪かったのかと、ちょっぴり凹みはしましたが。
そして10月の末、姨捨の「日本遺産センター」で亀山さんとお会いすることができました。
亀山正明さんは、姨捨でボランティアガイドをされている方でした。
挨拶もそこそこに案内して頂いた場所は、「長楽寺」から坂道を200mほど上った山の斜面でした。
「月見畑」という看板が建っています。
「あれがそうですよ。」と亀山さんが指さしたのは、二本の杉の木の間に隠れるように建っている碑でした。
そばに行くと、まちがいなく天来の句碑です!
右下に「盲天来」、篆額は「瓢翁碑」と刻まれています。
碑背には、こう刻まれています。
昭和七壬申仲秋建之 | |
上毛髙﨑天來葊(庵)苔雨 | |
賛與 佐藤大公 | |
宮原正翁 | |
畔上悟友 | |
外俳友一同 |
それにしても、天来はなぜここに句碑を建てることになったんでしょうか。
そのお話は、次回ということに。
【天来の句碑・瓢翁碑】
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