上和田町にある史跡看板は、「群馬県立高崎中学校跡」です。
現在の「群馬県立高崎高等学校」の前身ですね。
現在、その跡地は「高崎市立第一中学校」になっていますが、空から見ると当時の写真とそう変わっていません。
史跡看板には、簡単にしか書かれていませんが、「高崎中学校」がこの地に建つまでには、実に大変な物語があります。
高崎市に於ける中等教育機関としては、明治十年(1877)に創設された「烏川学校」というのがありました。
「烏川学校」はごく短い期間しか存在しなかったためか、どこにあったかすら定かでなく、宮元町であっただとか、下横町の興禅寺に置かれただとか、諸説あるようです。
当時、群馬県下の中等教育機関としては前橋にもう一校、「利根川学校」というのがありました。
ところが、明治十二年(1879)両校が県立になる際、予算上の問題で、「前橋と高崎とではわずか二里余の距離しかないので、県立中学校は一か所にまとめる」という県の決議により、「烏川学校」は廃止、「利根川学校」の方を残して「群馬県中学校」と改称します。
という訳で、高崎には中学校が無くなってしまったのです。
再び高崎に中学校が置かれることになったのは、明治三十年(1897)のことです。
すでに「群馬県中学校」は「群馬県尋常中学校」という名称になっていましたが、その分校を県下に6校開設することとなり、群馬郡高崎町もその開設地の一つとなりました。
「群馬県尋常中学校群馬分校」は、赤坂の「長松寺」に置かれました。
「長松寺」の本堂前に、そのことを示す石碑が建っています。
ところが、その分校開設がまた大変だったようで、初代群馬分校主任となった峰岸米造氏の講演録「高中創立当時の追憶」に、その苦労話が記されています。
その分校の新入生は76名、職員は6名でした。
本堂に幕を垂らして二つの教室に分け、八畳の間を校長室と職員室で兼用するという状態だったそうです。
「長松寺」はあくまでも仮校舎なので、峰岸主任は休む間もなく本校舎建設のために奔走することになります。
しかし、土地探しはもちろん、土地の取得、校舎の建設にかかる資金の調達までしなければならないのですから大変です。
こうやって、明治三十一年(1898)ここ上和田の地に本校舎が建設されたのです。
第一期卒業生の高松彦太氏によると、この地は元田んぼだったので土地は湿り、雨が降ると幾筋もの水流ができて、夜などは足元も危ないくらいであったといいます。
また、夜な夜な校舎の辺りを狐が啼きながら通り、昼でもイタチが顔を出すような寂しい風情だったそうです。
それから37年を経た昭和十年(1935)、校舎の老朽化を理由に校舎の移転・新築が提案されます。
そして、昭和十三年(1938)の暮れも押し詰まった十二月二十八日、乗附の地に造られた新校舎に移ることとなります。
この年は国家総動員法が施行された年で、全校職員と生徒は上和田校舎を出発後高崎神社を参拝、ラッパ隊を先頭に市内を行進して乗附校舎に入り、国旗掲揚の後、御真影を奉迎し、万歳三唱で移転式を終えたということです。
「高崎中学校」が新制の「高崎高等学校」になったのは、戦争も終って落ち着きを取り戻しつつある昭和二十三年(1948)のことでありました。
現在の「群馬県立高崎高等学校」の前身ですね。
現在、その跡地は「高崎市立第一中学校」になっていますが、空から見ると当時の写真とそう変わっていません。
史跡看板には、簡単にしか書かれていませんが、「高崎中学校」がこの地に建つまでには、実に大変な物語があります。
高崎市に於ける中等教育機関としては、明治十年(1877)に創設された「烏川学校」というのがありました。
「烏川学校」はごく短い期間しか存在しなかったためか、どこにあったかすら定かでなく、宮元町であっただとか、下横町の興禅寺に置かれただとか、諸説あるようです。
当時、群馬県下の中等教育機関としては前橋にもう一校、「利根川学校」というのがありました。
ところが、明治十二年(1879)両校が県立になる際、予算上の問題で、「前橋と高崎とではわずか二里余の距離しかないので、県立中学校は一か所にまとめる」という県の決議により、「烏川学校」は廃止、「利根川学校」の方を残して「群馬県中学校」と改称します。
という訳で、高崎には中学校が無くなってしまったのです。
再び高崎に中学校が置かれることになったのは、明治三十年(1897)のことです。
すでに「群馬県中学校」は「群馬県尋常中学校」という名称になっていましたが、その分校を県下に6校開設することとなり、群馬郡高崎町もその開設地の一つとなりました。
「群馬県尋常中学校群馬分校」は、赤坂の「長松寺」に置かれました。
「長松寺」の本堂前に、そのことを示す石碑が建っています。
ところが、その分校開設がまた大変だったようで、初代群馬分校主任となった峰岸米造氏の講演録「高中創立当時の追憶」に、その苦労話が記されています。
「 | 時に県学務課の主席属山崎金四郎氏が私の家に来られ、当時高等師範を出てまだ僅か三年しか経たぬ私に向かって六分校の一つを引き受けてくれと云はれた。 私はその任にあらずと言ってお断りしたのだが、澤柳氏(尋常中学校長・澤柳政太郎)自ら出向いて来られて、是非高崎分校を引受けてくれと強談し、承諾するまでは膝詰め談判で動かない。(略) |
澤柳氏は私に向かって実質上の校長としてやりたい様にやってくれと云はれ、一年生を二学級募集すると共に、職員を五六名探さねばならなくなった。(略) | |
愈々高崎へ来て見ると三月も末であったが中学校は何処にあるのか無論校舎の予定も立って居ない。やむなく赤坂町の長松寺の本堂を借りて仕事を始める事になり、又事務をとる部屋に郡役所の一室を借りて事務員と二人で愈々店開きをした。」 |
その分校の新入生は76名、職員は6名でした。
本堂に幕を垂らして二つの教室に分け、八畳の間を校長室と職員室で兼用するという状態だったそうです。
「長松寺」はあくまでも仮校舎なので、峰岸主任は休む間もなく本校舎建設のために奔走することになります。
しかし、土地探しはもちろん、土地の取得、校舎の建設にかかる資金の調達までしなければならないのですから大変です。
「 | そんなわけで敷地が却々(なかなか)きまらず、現在の此の六千坪が決定したのはやっと一学期も終りになってからの事である。 |
当時高崎に横浜の茂木銀行の支店があったが、其の支店長の松尾好国といふ人が実に中学教育に熱心で、住居も柳川町の私の隣家にあった関係上、私の宅へ毎晩の様にやって来て激励もし啓発もしてくれたものである。 私は酒は好きではないが松尾さんは大の酒好きで、或る晩私もある程度まで酔って愉快になった時、私はふと機略を弄する気持ちになった。(略) |
|
そこで私は松尾さんの肩を叩いて、中学校が出来ないのは資金の問題なのだから貴方の銀行で極めて低利で金を貸して戴けないでせうかと頼むと、快く承諾して呉れた。 | |
私は安心はしたが、相手が酔客だからと思って翌日大急ぎで銀行へ行って支店長に会った所が、一向話が通じない。酔って約束した事を忘れてゐるのである。 | |
そこで昨夜の話をすると驚いて、支店長にはそんな権限はないから本店へ行って重役と相談して来るとて、結局私の申し出た金額を大変安い利息で高崎町に貸してくれることになった。」 |
こうやって、明治三十一年(1898)ここ上和田の地に本校舎が建設されたのです。
第一期卒業生の高松彦太氏によると、この地は元田んぼだったので土地は湿り、雨が降ると幾筋もの水流ができて、夜などは足元も危ないくらいであったといいます。
また、夜な夜な校舎の辺りを狐が啼きながら通り、昼でもイタチが顔を出すような寂しい風情だったそうです。
それから37年を経た昭和十年(1935)、校舎の老朽化を理由に校舎の移転・新築が提案されます。
そして、昭和十三年(1938)の暮れも押し詰まった十二月二十八日、乗附の地に造られた新校舎に移ることとなります。
この年は国家総動員法が施行された年で、全校職員と生徒は上和田校舎を出発後高崎神社を参拝、ラッパ隊を先頭に市内を行進して乗附校舎に入り、国旗掲揚の後、御真影を奉迎し、万歳三唱で移転式を終えたということです。
「高崎中学校」が新制の「高崎高等学校」になったのは、戦争も終って落ち着きを取り戻しつつある昭和二十三年(1948)のことでありました。
(参考図書:「高崎高校八十年史」)
【高崎中学校跡の史跡看板】