
特に、成人してからの金次郎については、ほとんど知らなかった。
児玉幸多編「二宮尊徳」、長澤源夫編「二宮尊徳のすべて」から拾ってみた。
★ | 身長6尺(182cm)・体重25貫(94kg)・足袋は11文半(27cm)。
声は野太く、雷のようであった。 |
★ | 祖父・銀右衛門は、常に節倹を守り家業に力を尽くし頗る富有であったが、父・利右衛門は村人から善人と呼ばれるほどで、人に与えたり貸したりすることを厭わず、そのため数年で衰貧極る状態となった。 それでもその貧苦に甘んじ、人に与えたものの報いを求めようとはしなかった。 |
★ | 天明七年(1787)、父・利右衛門(35)、母・よし(21)の長男として、相模国足柄上郡栢山村(現・小田原市)に誕生。 付けられた名前は「金治郎」であった。 32歳の時、小田原藩主・大久保忠真(ただざね)から「行為奇特、村為相成」として表彰され、1年間の租税を免除されるが、その証文に「金次郎」と記載されたため、以降、公の場では「金次郎」を用いるようになった。 「尊徳」は56歳の時に名乗った諱(いみな)で、「たかのり」と読む。 |
★ | 5歳の時に酒匂川が氾濫、利右衛門の田畑はすべて石河原となり、ますます家計困窮する。 |
★ | 病気の父に代わり、12歳から酒匂川堤防復旧の夫役に出る。 小さくて一人前の仕事ができないのを嘆き、力不足の代わりにと夜中まで草鞋を作り、翌朝人々に渡した。 また、草鞋を売った金で、酒好きの父のために一日一合の酒を買う。 |
★ | 14歳の時、父・利右衛門没す。 一家四人の生計を立てるため、朝は早くから山で薪を伐り、夜は遅くまで草鞋を作る毎日となる。 各地に建つ二宮金次郎像は、この14歳の時の姿である。 この像の元となった薪を背負い本を読みながら歩く姿は、明治二十五年(1892)出版の幸田露伴著「二宮尊徳翁」の口絵から。 |
★ | 16歳の時、母・よし没す。 弟二人は母の実家へ、金治郎は伯父・万兵衛に引き取られる。 油菜を土手で栽培し菜種八升を得て夜学の灯明に使ったという話や、農民の捨てた苗を荒地に植えて1俵の籾を得たという話は、この頃のもの。 |
★ | 18歳の時、万兵衛方を出て名主・岡部伊助方に奉公し、習字・読書の教えを受け、岡部父子が招いた学者の講義を室外から聞いて学ぶ。 空いた時間で農耕をし、米5俵を得る。 |
★ | 19歳で岡部方を辞し、親戚名主・二宮七左衛門方に寄食する。 酒匂川堤防の普請で貰った賃金は名主に預け、一貫文貯まると村内の貧困者に分け与えた。 |
★ | 20歳の時、廃屋となった自家を修理してここに移り、父が質に入れた下々田を買い戻す。 24歳の時までに買い戻し或いは買い入れた田畑は一町四反五畝二十歩となり、二宮家再興なる。 お礼参りとして、江戸見物、伊勢参り、京都・奈良・大阪などを巡拝する。 |
★ | 26歳の時、小田原藩家老・服部十郎兵衛の中間となる。 これが、後に各地の財政再建に取り組む発端となる。 |
★ | 服部家は、禄高千三百石であったが、借金が千両余あり返済することができなくなっていた。 金治郎が見事に家を再興した話を聞き、服部家の家政復興を依頼してきた。 金治郎は農民の身で武士の家の再興などできないと固辞したが、再三再四の依頼についに引き受けることとなった。 |
★ | 金治郎は服部家の収支を分析し、借金を5年間で返済することを決めて十郎兵衛と下男下女に、その道筋を説いた。 その仕法(方法)は、毎年の収入から毎年の返済額を引き、残った額で生活をするように節倹に努めるというものであった。 この「分度」(生活に必要な基準を決める)・「勤倹」(倹約をして余剰を生み出す)・「推譲」(余剰分を自・他に譲る)という考え方が、「報徳仕法」の基本となる。 |
★ | 5年後、借金はすべて返済し尽くし、三百両の金が残った。 金治郎は、このうち百両は主家非常時の費用にと十郎兵衛に、次の百両は服部家非常時の費用にと奥方に、残り百両は節倹に努めた下男下女の褒美に分け与え、自分は一切の報酬も手にしなかった。 |
★ | 36歳の時、小田原藩主・大久保忠真の命を受け、下野国桜町領(現・栃木県二宮町及び真岡市)の復興を10年の計画で着手する。 しかし、様々な人の妨害・讒言に阻まれ、7年経っても進捗は芳しくなかった。 思い余った金治郎は江戸からの帰途消息を隠し、成田山で二十一日間の断食修業を行う。満願の日、桜町代官が迎えに来て帰任するが、これ以降、村人の心も変わり仕法は順調に推移する。 その後、桜町での成果を聞き及んで、各地から仕法を懇願してくるようになる。 |
★ | 安政三年(1856)、金治郎は仕法中の日光今市で70歳の生涯を閉じるが、この間、携わった仕法は全国610ヵ所余り。 |
★ | 金治郎は謙遜な人物で、自らの功績をあまり語ろうとしなかったが、門人の富田高慶(とみた・たかよし)が安政三年(1856)に「報徳記」を、福住正兄(ふくずみ・まさえ)が明治十七年(1884)に「二宮翁夜話」を著し、金治郎を語る原典となっている。 |