
源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたって、八幡宮の社殿を改修し、並木参道を開き、同時に建てたのが、この遠鳥居だと言われています。
遠鳥居の額に書かれている「八幡宮」の文字は、武蔵坊弁慶の書だと伝わっていますが、さて。
八幡様といえば戦の神様ですが、先の戦争において、東京始め日本の大都市が相次いで空襲を受けるようになった昭和二十年(1945)三月のある日、この遠鳥居が突然倒れてしまったのだそうです。(八幡村史)
不思議といえば、不思議な出来事です。
戦後の混乱で暫くそのままになっていましたが、八幡町出身の湯浅梅太郎氏の奉納により、昭和二十七年(1952)鉄筋コンクリート製の遠鳥居が再建されました。
場所は現在地より50mほど南の国道沿いでしたが、その後、国道拡幅のために撤去され、平成二年(1990)現在地に今の鳥居が新設されました。
遠鳥居の手前に、石玉垣で囲まれた一角があり、御神燈や石碑が建っています。
玉垣の柱には寄進者の名前が刻まれていますが、その中に、高崎の呉服商で貴族院議員だった櫻井伊兵衛氏の名も見えます。
この玉垣は、安政五年(1858)に造られたものだそうですから、三代目の櫻井伊兵衛氏でしょう。

この碑は、石玉垣を奉納した記念に建てられたものだそうですが、「伝者繁栄」とはどういう意味なのでしょう。
石玉垣を寄進した人の繁栄を祈願したもののようにも思えますが、私は、「伝うれ者(ば)繁り栄える」と読みたいのです。
歴史を伝える史跡を大切にして後世に伝え、そこから学ぶことで繁栄することができる。
そういう思いを込めた「伝者繁栄」碑ではないかと思うのです。

「 | 此処八幡宮参道には鎌倉時代から杉並木が存在したが、昭和四十三年にすっかり枯れ、伐採された。 |
八幡村に生まれ育った者にとって、あの杉並木が消えたことは幼き日の想出が断ち切られた思いである。 | |
そこで此の碑を建てて、心の縁としたい。」 |

しかし、それらの記念碑の前には、「伝者繁栄」の思いとは全く異なる光景が広がっていました。

「伝者繁栄」を願った石玉垣は、ゴミ置き場の烏除けネットや看板を取り付ける、構造物でしかなくなっています。

嬉しかったのは、車やフォークリフトで壊さないようにという配慮なのでしょう、しっかりとした土台と、トラマークの柱で守られていたことです。

歩道橋の左右にある「3」の字型の照明灯は、だるまをイメージしているそうです。
これも、伝えていきたい高崎の名物ですね。
「伝者繁栄」、そういう高崎であって欲しいと思います。
【「伝者繁栄」碑】