娚 ←こんな字があるんですね。
さて、何と読むでしょう? (*^_^*)
五万石騒動の影の指導者といわれる小園江丹宮の墓が、宿大類町の慈願寺(じがんじ)にあるというので行ってみました。
慈願寺は、永禄元年(1558)に、高崎城の前身である和田城の城主・和田信業の開基といいますから、随分と由緒あるお寺です。
もっと前の戦国時代には、大類城の一部になっていたそうです。
普通のお寺は、山門を入った正面に本堂があるものですが、ここはまっすぐ進むと本堂の脇を抜けて、二本の松の木の下に出ます。
この二本の松の木が、
名木「夫婦(めおと)松」です。
実は、これを言いたいがために「娚」の字を出した訳でして、じつはこの字も「めおと」と読むんだそうです。
(・・・まさか、「おか※」なんて思った人はいないでしょうね。)
この「夫婦松」、「娚松」と書く方がふさわしい位に寄り添って、仲睦まじく手を取り合っているように見えます。
慈願寺開基と同じ永禄元年の植樹といわれていますから、樹齢450年ということになります。
どちらの松も、幹に大きな洞(うろ)が空いていますが、それでも立派な枝葉を茂らせていて、その生命力にあやかりたい程です。
「夫婦松」を潜った先には、「当寺開山和田兵部少輔」という額の掛った建物があります。
と、その横で草むしりをしているご婦人がいるのに気がつきました。
奥様でしょうか、目元のとても美しい素敵なご婦人でした。
ちょっとどぎまぎしながら、取り敢えず怪しい者でないことを伝えようと、
「夫婦松というのはこれですか?」などと、知っているくせに聞いてしまいました。
そんな私を訝(いぶか)ることもなく、こんな話をしてくださいました。
この建物は、今は観音堂になっているが、昔はここに本堂があったのだそうです。
しかし、明治の初めに火災で焼失してしまい、本堂は山門の右手に建て替えたということです。
「夫婦松」の幹が空洞になってしまったのは、この時の火災の熱で、片側が焼け焦げてしまったためだそうです。
今は樹齢が古いこともあり、定期的に樹木医さんが来て、手当てをしているのだと仰っていました。
奥様に、小園江丹宮の墓の場所を聞くと、ご親切に案内して頂きました。
大きな板碑の墓ですが、本当はもっと大きかったのだそうです。
段々、手前に傾いてきたので、少し短くしたのだとか。
「流石、偉大な教育者のお墓ですね。
実るほど頭(こうべ)を垂れるんですね。」と軽口を言いかけて、ぐっと飲み込みました・・・。
丹宮の長男、小園江章もまた教育の道を歩み、初代佐野小学校長、中央小学校長などを務めたそうです。
ただ、不思議なことにそのお墓は、慈願寺でなく龍廣寺にあるのだといいます。
ここ慈願寺も、代々寺子屋を開いて村人たちの教育にあたっていて、山門を入ったところに、子弟が建てた「筆子塚(ふでこづか)」というのがあると、奥様にお聞きしました。
昔は、寺が教育にあたったことで、単なる「読み書きそろばん」の習得だけでなく、人間としての「徳」の心も、自然に醸成されたことでしょう。
案外、現代における教育のヒントも、そんな、かつての寺子屋にあるのではないでしょうか。
さて、何と読むでしょう? (*^_^*)
五万石騒動の影の指導者といわれる小園江丹宮の墓が、宿大類町の慈願寺(じがんじ)にあるというので行ってみました。
慈願寺は、永禄元年(1558)に、高崎城の前身である和田城の城主・和田信業の開基といいますから、随分と由緒あるお寺です。
もっと前の戦国時代には、大類城の一部になっていたそうです。
普通のお寺は、山門を入った正面に本堂があるものですが、ここはまっすぐ進むと本堂の脇を抜けて、二本の松の木の下に出ます。
この二本の松の木が、
名木「夫婦(めおと)松」です。
実は、これを言いたいがために「娚」の字を出した訳でして、じつはこの字も「めおと」と読むんだそうです。
(・・・まさか、「おか※」なんて思った人はいないでしょうね。)
この「夫婦松」、「娚松」と書く方がふさわしい位に寄り添って、仲睦まじく手を取り合っているように見えます。
慈願寺開基と同じ永禄元年の植樹といわれていますから、樹齢450年ということになります。
どちらの松も、幹に大きな洞(うろ)が空いていますが、それでも立派な枝葉を茂らせていて、その生命力にあやかりたい程です。
「夫婦松」を潜った先には、「当寺開山和田兵部少輔」という額の掛った建物があります。
と、その横で草むしりをしているご婦人がいるのに気がつきました。
奥様でしょうか、目元のとても美しい素敵なご婦人でした。
ちょっとどぎまぎしながら、取り敢えず怪しい者でないことを伝えようと、
「夫婦松というのはこれですか?」などと、知っているくせに聞いてしまいました。
そんな私を訝(いぶか)ることもなく、こんな話をしてくださいました。
この建物は、今は観音堂になっているが、昔はここに本堂があったのだそうです。
しかし、明治の初めに火災で焼失してしまい、本堂は山門の右手に建て替えたということです。
「夫婦松」の幹が空洞になってしまったのは、この時の火災の熱で、片側が焼け焦げてしまったためだそうです。
今は樹齢が古いこともあり、定期的に樹木医さんが来て、手当てをしているのだと仰っていました。
奥様に、小園江丹宮の墓の場所を聞くと、ご親切に案内して頂きました。
大きな板碑の墓ですが、本当はもっと大きかったのだそうです。
段々、手前に傾いてきたので、少し短くしたのだとか。
「流石、偉大な教育者のお墓ですね。
実るほど頭(こうべ)を垂れるんですね。」と軽口を言いかけて、ぐっと飲み込みました・・・。
丹宮の長男、小園江章もまた教育の道を歩み、初代佐野小学校長、中央小学校長などを務めたそうです。
ただ、不思議なことにそのお墓は、慈願寺でなく龍廣寺にあるのだといいます。
ここ慈願寺も、代々寺子屋を開いて村人たちの教育にあたっていて、山門を入ったところに、子弟が建てた「筆子塚(ふでこづか)」というのがあると、奥様にお聞きしました。
昔は、寺が教育にあたったことで、単なる「読み書きそろばん」の習得だけでなく、人間としての「徳」の心も、自然に醸成されたことでしょう。
案外、現代における教育のヒントも、そんな、かつての寺子屋にあるのではないでしょうか。
【慈願寺】