日高町の「村主(すぐろ)神社」、社殿の割には広い境内です。
「村主」は「すぐり」と読むことが多いと思うのですが、ここでは「すぐろ」と読ませているのですね。
その理由も看板にいろいろ書かれていますが、さてどうなのでしょう。
実は、高崎にはもうひとつ「すぐろ」と読む神社があります。
岩鼻町の「赤城神社」に建てられた史跡看板に、その神社のことが書かれています。
「赤城神社」社殿の右奥に建っているのが、「巣黒(すぐろ)神社」です。
上野国神社明細帳に、「巣黒神社」のことが書かれています。
祭神「事勝國勝長狭神」の「勝」を「すぐれ」と読み、それが転じて「すぐろ」となり、「巣黒」の字をあてたという説です。
では、日高町「村主神社」の祭神はどなたなのでしょう。
史跡看板には書いてありませんが、上野国神社明細帳を見ると、やはり「事勝國勝長狭神」でした。
「巣黒神社」は字(あざ)「巣黒」にあったということですが、「村主神社」のある字(あざ)は「村主」です。
どうやら二つの神社は、表わす文字こそ違え、素姓は同じもののようです。
ところで「事勝國勝長狭神」という神様、あまり聞かない名前ですが、「日本書紀 巻第二 神代下巻」に出てきます。
皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降って、日向の高千穂の峰に降り立った後、良い国を探しながら各地を巡ったのち・・・。
ということで、事勝國勝長狭は、皇孫に対して抗うことなく自分の国を差出した訳です。
国を守ろうと戦をして国も民の命も失うか、国を差出してでも戦を避けて民の命を守るか、どちらの方が勝れた政事、勝れた国か。
「事勝國勝」には、そんな問いが込められているような気がしてなりません。
鳥居の隣にある石宮、なぜか丸い石がひとつ入っています。
「新編高崎市史資料編14 社寺」を見ると、「天保二卯年(1831)五月 天王さま」と書いてありますので、八坂神が祀られていたのでしょう。
社殿の脇にある石宮の方は梅鉢の紋が付いていますので、「天神さま」だということが分かります。
「寛政九巳年」(1797)と刻まれており、中には割とぷっくらした「天神さま」が鎮座しています。
史跡看板散歩は、まだ続きます。
次回は、隣の中尾町へ行ってみましょう。
「村主」は「すぐり」と読むことが多いと思うのですが、ここでは「すぐろ」と読ませているのですね。
その理由も看板にいろいろ書かれていますが、さてどうなのでしょう。
実は、高崎にはもうひとつ「すぐろ」と読む神社があります。
岩鼻町の「赤城神社」に建てられた史跡看板に、その神社のことが書かれています。
「赤城神社」社殿の右奥に建っているのが、「巣黒(すぐろ)神社」です。
上野国神社明細帳に、「巣黒神社」のことが書かれています。
「 | 祭神 事勝國勝長狭神(ことかつ・くにかつ・ながさ・の・かみ) |
由緒 勧請年月不詳、 社ヲ巣黒(すぐろ)ト号スルハ其謂(いわれ)ヲ知ラスト雖(いえども)寸久礼(すぐれ)ノ神社ト稱スルニ 徃々(おうおう)勝ノ字ヲ用ヒル例アリ、然(しかり)テ祭神ハ同一ナリ、 |
|
按スルニ 事勝國勝ノ勝ノ字ヲ採テ寸久礼ト訓シ ソレ又轉シテ巣黒トハナリシナルヘシ、 | |
元字巣黒ニアリシヲ 其社地陸軍省用地トナリシヲ以テ 明治十三年七月十日移轉セリ」 |
祭神「事勝國勝長狭神」の「勝」を「すぐれ」と読み、それが転じて「すぐろ」となり、「巣黒」の字をあてたという説です。
では、日高町「村主神社」の祭神はどなたなのでしょう。
史跡看板には書いてありませんが、上野国神社明細帳を見ると、やはり「事勝國勝長狭神」でした。
「巣黒神社」は字(あざ)「巣黒」にあったということですが、「村主神社」のある字(あざ)は「村主」です。
どうやら二つの神社は、表わす文字こそ違え、素姓は同じもののようです。
ところで「事勝國勝長狭神」という神様、あまり聞かない名前ですが、「日本書紀 巻第二 神代下巻」に出てきます。
皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降って、日向の高千穂の峰に降り立った後、良い国を探しながら各地を巡ったのち・・・。
「 | 到於吾田長屋笠狹之碕矣。 | 吾田長屋笠狭之崎(あたの・ながやの・かささのみさき)に到ります。 |
其地有一人、 | 其の地(くに)に一人(ひと)あり、 | |
自號事勝國勝長狹。 | 自らを事勝國勝長狭(ことかつ・くにかつ・ながさ)と號(なの)る。 | |
皇孫問曰「國在耶以不。」 | 皇孫(すめみま)問いて曰(のたまわく)「國在りや以不(いな)や。」 | |
對曰「此焉有國、請任意遊之。」 | 對(こた)えて曰(まをさく)「此焉(ここ)に國有り、請う意(みこころ)の任(まま)に遊之(しろしめせ)。」 | |
故皇孫就而留住。 | 故に皇孫就きて留住(とどま)ります。 |
(飯田秀治氏著「日本書紀新講」)
ということで、事勝國勝長狭は、皇孫に対して抗うことなく自分の国を差出した訳です。
国を守ろうと戦をして国も民の命も失うか、国を差出してでも戦を避けて民の命を守るか、どちらの方が勝れた政事、勝れた国か。
「事勝國勝」には、そんな問いが込められているような気がしてなりません。
鳥居の隣にある石宮、なぜか丸い石がひとつ入っています。
「新編高崎市史資料編14 社寺」を見ると、「天保二卯年(1831)五月 天王さま」と書いてありますので、八坂神が祀られていたのでしょう。
社殿の脇にある石宮の方は梅鉢の紋が付いていますので、「天神さま」だということが分かります。
「寛政九巳年」(1797)と刻まれており、中には割とぷっくらした「天神さま」が鎮座しています。
史跡看板散歩は、まだ続きます。
次回は、隣の中尾町へ行ってみましょう。
【村主神社】
【巣黒神社】