2017年09月23日

史跡看板散歩-63 倉賀野下町の諏訪神社

「古堤」のすぐそばにあるのが、下町(しもちょう)の「諏訪神社」です。




看板の後半に書かれている「池鯉鮒(ちりふ→ちりゅう)大明神」は、本殿の後ろに祀られています。


この「池鯉鮒大明神」、もとは「諏訪神社」の南東、「甲大道南」というところに祀られていました。


「伝説之倉賀野」という本に、その謂れが載っています。
「ちぢり山」
まむしが人を嚙じると言ふ事は聞いてゐたが、まむしが寄り集まって、今度は誰が誰を嚙じる番であると、嚙じる蛇と嚙られる人とが定(き)まってゐたと聞いては、全く驚かざるを得ない。
(略)
或る夏の夕暮れ、此邊で何時もまむしに嚙られるのだと言ふ事を知らない筈はない農夫が、圖らずも其處を通りかかって、怪我の功名とでも云はふか、まむしの相談の場所にぶつかって了(しま)った。
所が通りかかったと云ふのが、怪我の功名だと思はれたその瞬間!眩惑と共に奈落の底にでも放り込まれる様な衝動を受けた。
不思議と言はうか、皮肉と言はうか、今度嚙み殺される番に相談が定(き)まったのが、何と自分ではないか・・・。」

気も失わんばかりに驚いた農夫は、転げるようにして家に帰ると、翌朝から夢中になって木を伐り、材料を削って、一つの祠を作り上げます。
その夢遊病者の様な彼によって作り上げられた祠は、その翌々日、甲大道南の地域に建てられた。
何の爲に此の祠を此の農夫が此の地に建てたかは、彼が其の後、あの凶惡なまむしの餌食にならないで済んだ事によって、御想像が願へると思ふ。
此の祠を人呼んで『池鯉鮒大明神』といふ。まむし避けの神として祀られたものである。
大明神の祠は、其後下町諏訪神社境内に移されたが、つい此の頃まで毎月一日に赤飯が、町の舊家の手によって供えられてゐたと言ふ事である。」

「諏訪神社」には、この他にも蛇にまつわる逸話がいくつか伝わっています。
そのひとつが「穴池の大蛇」という話です。

「穴池の大蛇」
今からずっと昔の事、儂(わし)が子供の頃だったよ。よく老人から云ひ聞かされたものだった。
あの御諏訪様の東北の方面が一帯の荒地で、其處に池があったさうだ。
其の池は、大昔随分廣くて深かったと言はれて居たが、段々と狭められて來た。
今は此の邊一帯の地を『穴池』と云ってゐるが、此の穴池と云ふ言葉は、狭くても非常に深く、陥ち込めば穴の底の底までも引込まれるものだらうよ。
今でこそこの付近は豊沃な田や畑と變って居るが、今から五、六百年も前と言へば恐らく薄氣味惡い程の荒地で、土地の高低は勿論のこと、樹木の繫みは想像以上であったに相違ない。
さうした中に池の水がどんよりと不氣味な沈黙を續けてゐたものだらう。
其のうちに、此の池の中に、それはそれは恐ろしい大蛇が棲む様になった。
否、ずっと前からゐたのを知らなかったのかもわからない。
ところが此の大蛇が段々と齢を經て來るに随って、人々の迷惑になる様な惡事をすると云ふことでなァ、これは何とかしなければなるまいと、寄り寄り相談した。
そして此の大蛇を退治して仕舞ふ事に定(き)まった。
それから下町の人達が随分と苦心した舉句、漸く之を退治したのぢゃ。ところが 見事打取っては見たものの、どう始末してよいかそれに困ってしまった。
思案の末、萬が一の崇りを恐れて、これは氏神の諏訪神社にあづけた方がよからうと云ふ事になって、此處へ奉納することになった。
斯うして大蛇も神に祀られたとの事ぢゃよ。」
(「伝説之倉賀野」より抜粋)

「諏訪神社」に蛇にまつわる話が多いのは、そもそも信州「諏訪大社」の本来の祭神が、白蛇の姿をしているとされる「ソソウ神」だということと無関係ではなさそうです。
また、蚕の繭を食べる鼠を蛇が食べることから、蚕室に「諏訪神社」のお札を貼る養蚕農家も多かったようです。

昔は今よりもずっと、蛇との関わりが身近だったのでしょうね。


【倉賀野下町の諏訪神社】




  


Posted by 迷道院高崎at 06:11
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2017年09月17日

史跡看板散歩-62 新堤

Mr.Max倉賀野店の北東に、大きな貯水池があります。


その貯水池は「新堤」(しんづつみ)と呼ばれています。



「通称桜木町鯉池」とあるように、平成八、九年頃まで新(あら)町の養鯉業者が鯉の養殖をしていたのだそうです。
その鯉は、長野県まで列車輸送されて「佐久の鯉」として売られていたといいます。(倉賀野町の民俗)
今ならさしづめ産地偽装で問題になってたかも知れませんね。

「新堤」は天明六年(1786)に完成したとありますが、昭和十一年(1936)に改修工事が行われ、その記念碑が建てられています。


記念碑には「新舊(きゅう)溜池改修記念碑」と刻まれています。
「舊溜池」というのが、看板に書かれている「古堤」(ふるづつみ)のことです。

「古堤」は、「新堤」の南東400mの所にあります。


「古堤」の向こうに見えるのは、「高崎市立倉賀野保育所」です。
その正門脇に、「古堤の由緒」碑が建っています。

「古堤の由緒」
古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代、全国的な大旱魃起り、時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。

その後管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり、下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。

時は移り世は変り、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なる事を認めて相謀りて、ここにその半ばを埋め立て、保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。

昭和五十二年四月吉日 倉賀野下組水利組合

倉賀野の農業用水は長野堰から引いています。
江木町「円筒分水」「倉賀野堰」に分流し、さらに上佐野町「粕沢堰」で分流し、また字樋越で分流して一本は「五貫堀」に、もう一本はさらにいくつもに分流した末に、ようやく下流域に細々とした水が辿り着きます。
そんな訳ですから、下流域の下町南町の農家にとって、「古堤」「新堤」がどれほど大切な溜池だったことか。

今も満々と水を湛える二つの堤は、これからも先人の知恵と努力の歴史を伝えていくことでしょう。


【新堤】

【古堤】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:11
Comments(8)倉賀野高崎市名所旧跡案内板

2017年09月10日

史跡看板散歩-61 北向道祖神

「倉賀野城跡」から北へ250mほど行くと「倉賀野神社」です。


境内南西隅にあるのが「北向道祖神」で、そこに史跡看板が建っています。



看板には「もともと近くの倉賀野古城跡の辺りに、北向に祀られていたと言われている」とありますが、土屋喜英氏著「続高崎漫歩」によると、「もともとは南向きに祀られていた」とあります。

ところが、狭い農道の角にあって、農民が天秤棒を担いで通るのに邪魔だったので、向きを「北向き」に直したんだというんですね。
やがて倉賀野神社に移された時、そのまま北向きに祀ったということですが、きっと移した人も「北向き」に何か意味があると思ったんでしょうね。

そう言えば、倉賀野には「北向庚申」なんていうのもあります。

倉賀野神社内の史跡看板はこのひとつだけですが、見どころはまだまだ沢山あって、8年前の記事も併せて読んで頂けたら嬉しいです。
   ◇飯玉さま
   ◇「亀石」と「飯玉さま」
   ◇みんなまとめて倉賀野神社

今日はリンクが多かったので、ここまでに。

【北向道祖神】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(0)倉賀野高崎市名所旧跡案内板

2017年09月03日

史跡看板散歩-60 倉賀野城跡

「井戸八幡宮」から烏川沿いに西へ100mほど行くと、「雁(かりがね)児童公園」の裏口(?)に出ます。


川からの風が心地よい藤棚の下では、倉賀野が生んだ夭折の天才画家・山田かまちも、思索のひとときを過ごしていたようです。



その藤棚の向こうに、大きな「倉賀野城趾」碑が建っています。



この場所は、「倉賀野城」の本丸跡にあたります。


本丸の崖下では、烏川が大きく流れの向きを変えて深い淵になっており、舟運盛んな頃には難所になっていたようです。


「水難よけの柄杓」(伝説之倉賀野)
佐野から烏川が倉賀野の方へ廻り込む所を萬福寺と言ひます。
その萬福寺には昔大きな寺がありました。その寺の名が何時か土地の名となったのでせう。
その萬福寺の下は烏川の水が曲がり込んでとうとうと流れ、それが又深く淀んで物凄い底知れぬ靑さをたゝへてゐました。
こゝを通りかゝる船は時々其の波に吞まれて沈みました。
ところが此の船が沈むに就いては不思議な事が有りました。
丁度船が此の寺の下へ差しかゝると、何處からともなくボシャンボシャンと言ふ音がして來ます。
其の中からぬうっと、大きな手が出ます。そして不氣味な聲を出して『ひしゃくをくれ、ひしゃくをくれ』と言ひます。
そして船頭が柄杓を與(あた)へると、それを受取るやすっと水の中へ姿を消してしまひます。
やがて船が深く淀んだ淵に差しかゝると、又しても何處からともなくボシャンボシャンと水音がして、遂には船をも吞んでしまひます。
柄杓を與へない時には大きな手で船端を持って船を覆してしまひます。
かうした事件が次から次へと起りましたので、船頭達は魔の淵と呼んで其處を通るのを避けました。」

ところが、ある男が「俺がそこを通って見せよう。」と言って船を出しました。
いつものように出てきた大きな手に、男は底を抜いた柄杓を渡したのです。
やがて船が淵にかゝると果たして『ボシャンボシャン』と言ふ音が聞こえて來ましたが、不思議なことに唯飛沫が飛ぶだけでした。
船は無事に淵を通る事が出來ました。
安否如何にと噂とりどりに待ち構へて居た人々は、今無事に歸って來たのを見て非常に驚きました。
其の後、此の淵を通る人は必ず底抜け柄杓を持ってゆき、淵へなげ込む様になったのです。」

史跡看板は、公園の正門(?)に建っています。



元から建っている立派な看板も、健在です。


石碑も含めて3つの史跡看板・・・。
ひとつくらい、伝説を伝える看板にしてもよかったのでは。


【倉賀野城跡史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:20
Comments(4)倉賀野高崎市名所旧跡案内板