2017年08月27日

史跡看板散歩-59 井戸八幡宮

前回、「倉賀野河岸」「帳場跡」から「牛街道」を通って中山道まで出てきましたが、今回は逆に辿って、「井戸八幡宮」の史跡看板を見に行きましょう。

8年前に書いた記事がありますのでご覧ください。

史跡看板は、「井戸八幡宮」の井戸の右脇に建っています。



「倉賀野城」との位置関係はこのようになるらしいです。


道に戻って川岸に向かい、川に沿って共栄橋方向に行くと、左手に高い石垣が出てきます。


この石垣の上には、かつて「倉賀野河岸」の守護神社ともいえる「大杉神社」がありました。


明治十七年(1884)に上野ー高崎間に鉄道が通ると、繫栄を極めた「倉賀野河岸」も衰退し、明治四十年(1907)「大杉神社」は廃社となります。
現在そこは個人のお宅になっていますが、敷地の一部が提供されて「大杉神社跡碑」が建てられています。


碑背にはこのように刻まれています。
江戸時代、倉賀野河岸は利根川水運の最上流に位置し、物流の要衝として賑い栄えた。
常州阿波大杉神社から勧請、水難除けの神様として問屋や船頭たちの篤い信仰を集めたのが、この地の大杉神社である。
やがて明治に至り鉄道開通とともに河岸は衰退し、折から神社合祀礼を受けて明治四十年に廃社となり、御祭神は田屋町八幡神社に合祀された。
茲に歴史の跡を顕彰し後世に伝えんと記念の碑を建立するものである。」
平成十年一月吉日

碑文にある「田屋町八幡神社」というのが、「井戸八幡宮」です。


神様の居なくなった社殿はどうなったかというと、桃井村字新井(現北群馬郡榛東村新井)へ売り払われ、そこで今も現存しています。

その「新井八幡宮」へ行ってみました。
夏になるとホタルが飛び交うので有名な神社です。


ホタル池の方から入っていくと社殿の裏側に出ますが、ここがかつての「大杉神社」社殿を見るベストアングルでしょう。


実に立派な社殿ですが、その移築にまつわる秘話が前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」に載っています。
桃井村で大杉神社を買いとったときは、鎮守の八幡社殿が火災で焼失し、丁度その時が明治四十二年の神社合併の時であったので各地で神社の売り物が出たため、これでは新しく作るより空社を買えと言うことになり、随分諸所方々見て廻り、沢山見た内で倉賀野の大杉社殿と決められた訳で、解体の時来た現在八十八歳の老人が一人生存しているが、この人が二十歳の時であったという。
解体の時、宮大工三名が来て解いたのであるが、初めの内は符号を付けていたが終いには余り沢山の細工で面倒になり、幾日もかゝってバラで持って行ったが、さアーそれから現地で組み立てるのが大変で、その為すっかり出来上がるのに買金の十倍、弐千参百円かゝったと言はれ村中青くなった。
ところが何か残った彫刻の一部を取付けるのを止めて専門家に見せて売ったら、弐千参百円になったので売金から費用一切が出たと言って村中大喜びをしたと言う。
倉賀野河岸は大変な財物を二束三文で売り払ったことになる。
かえすがえす無念であるが今となっては如何ともなし難く、せめて現存しているということ丈で諦めねばならないだろう。」

まったく、まったく、その通り。


【井戸八幡宮史跡看板】


【新井八幡宮】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2017年08月20日

史跡看板散歩-58 馬街道と牛街道

「倉賀野宿本陣跡」「ベイシアマート」東の道を、「馬街道」と呼んでいたようです。


また、この道の先に「井戸八幡宮」があるので、「高崎宿・倉賀野宿往還絵図面」では「八幡道」となっていて、道の入口には鳥居が描かれています。


大きな鳥居だったので人々は「大門」(だいもん)と呼び、この辺一帯は、町名の「田屋町」よりも「大門」と言う方が通りがよかったそうです。
鳥居は安政三年(1856)の大火で焼けてしまいましたが、その礎石は昭和十年(1935)頃まで残っていたといいます。

そして、「倉賀野河岸」への道でもあるので「河岸道」とも呼ばれました。
中山道から250mほど進むと、右側に「井戸八幡宮」、そのすぐ先、左側の石垣の脇に史跡看板は建っています。



看板に掲載されている「中山道分間延絵図」では、このように描かれています。


史跡看板の建っている所の石垣は、「倉賀野河岸」「帳場」跡と言われています。
「帳場」は、河岸を出入りする荷の帳簿付けをしていたのでしょう。


上図によると、石垣の残っている所は「須賀庄」の帳場で、道を挟んで「須賀長」「須賀喜」の帳場となっています。

しかし、享保十六年(1731)の絵図では、「須賀庄」「須賀長」「須賀喜」は同じ側に並んでいて、「蔵」と書かれています。
「帳場」「蔵」は違うものなのでしょうか、よく分かりませんが「蔵」と書かれているのが全部で八つあります。


「帳場跡」から中山道へ向けて戻ると、途中、二股に分かれます。
左が「牛街道」、右が「馬街道」です。


ところで、なぜ「馬街道」「牛街道」に分かれているのか。
聞いた話によると、道が狭いのに牛の歩みは遅くて馬は追い抜くことができない、そこで馬はこの二股で分かれて違う道を通ったということだそうです。

二股を左に、つまり「牛街道」をずっといくと、「高札場跡」の前に出てきます。


ここは上町の問屋場があったところです。
問屋場で、荷物の仕分けをして各方面へ移送したわけです。

倉賀野宿の道は、なかなか合理的にできていたんですね。
歴史を辿ると、昔の人の知恵は本当にすごいと、感心させられることばかりです。


【馬街道と牛街道】


【史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2017年08月13日

史跡看板散歩-57 倉賀野河岸跡

「太鼓橋」の手前を、南へ入る道があります。


この道は「倉賀野河岸」へ行く「河岸道」(かしみち)で、道の両側には船頭たちが住んでいたそうです。

170mほど行くと、「共栄橋」袂から東へ入ってくる道と交差し、向こう角に石造物が並んでいます。




その石造物の所から右下へ下りる道が、倉賀野河岸へ行く昔の道だそうです。


たしかに、それらしい雰囲気のある道です。


下ってからぐっと上がった所にあるのが「河岸広場」という小公園で、そこに史跡看板が建っています。



昭和四十九年(1974)に建てられた「倉賀野河岸跡」碑と、「倉賀野河岸由来」碑もあります。


「河岸道」というのは何本もあったようです。


今回辿った「河岸道」は、「共栄橋」に最も近いルートです。

前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の口絵で、往時の河岸の様子を想像してみましょう。


河岸跡は、いま「倉賀野緑地公園」になっています。


空撮写真の中央に暗渠があって、そこから勢いよく水が流れ出ています。


これが、「太鼓橋」下を流れて「烏川」へ落ち込む、「五貫堀」の水です。


「共栄橋」の下に、「倉賀野掘りべえ」というモニュメントのようなものが建っていました。
水害防止用の排水トンネルを掘削した機械の、ドリルの部分だそうです。


そこから上の道路へ上がって北へ100mほど行くと、右の奥まったところに小さな石祠があります。
知らなければ通り過ぎてしまいそうです。


近寄って見ると、きちんと注連縄も張られて、立派な説明板も建っています。


「倉賀野町の民俗」によると、この石祠は「御行祖母」と書いて、「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか言われているそうです。

倉賀野の各町内では昔から七月十四日の朝に、町の境に「八丁注連」(はっちょうじめ)というものを建てる風習があります。
外から疫病が入り込むのを防ぐためだそうですが、それとの関係もあるのかも知れません。


「御行祖母」のある横町では、他町内との境の道五ヶ所に「八丁注連」を建て、「御行祖母」の石祠には注連縄を張り赤飯を上げる習わしだとか。


今年もきちんと注連縄を張ってお祭りをしてもらい、「おぎょうばあ」もさぞかし喜んでいることでしょう。


【河岸道と河岸跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:49
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2017年08月06日

史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

「太鼓橋」跡の東端に、下へ降りる小径があります。


今は暗渠になっていますが、かつて「太鼓橋」の下を流れていた「五貫堀」の、その対岸に石段があります。


その石段を上った所が「冠稲荷神社」です。




看板にあるように、この「冠稲荷神社」、昔は「三光寺稲荷神社」と呼ばれていました。
もともとここには、「養報寺」の末寺で「宝珠山三光寺」という72坪ほどの小さなお寺があって、その境内に祀られていたお稲荷さんでした。


「新編高崎市史 資料編14」によると、「三光寺」は貞享三年(1686)の開基だそうです。
看板では「三光寺稲荷神社」は延宝二年(1674)の勧請とありますので、お稲荷さんの方が先にあったことになります。
そうなんでしょうか?

「三光寺稲荷」についてはこんな伝説があります。
其の昔、三光寺様は養報寺の隱居寺でありました。
其の頃は、今のお宮より、もっともっと大きな立派なお寺であったさうです。
所が、夜になると白い狐が、お寺の廊下にゐたり、又は人を化かしたりするので、大邊困りました。
其處で、町の人達はどうしたらよからうかと毎日の様に考へてゐました。
所があるお百姓さんの考へで其の狐をお祀りする事になりました。
其の頃の江戸、今の東京へ行って正一位冠稲荷と言ふ立派な位を戴いて來て、お宮を建てゝお祀りすると、不思議にそれから白狐が出なくなったと言ふ事です。」
(伝説之倉賀野)

今でこそ、ひっそりした小さな稲荷神社ですが、往時はとにかくたくさんの人の信仰を集めていたらしいです。

前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の記述で見てみましょう。
倉賀野宿遊女の稲荷様に対する信仰は大変なもので、当時三光寺稲荷といえば近郷に響き、今でも遠隔の地からはるばる参詣する人々も時たまあるが、その大繫盛ぶりは相当なものであった。
それを裏付ける如く社内境内の奉納品に高崎、玉村を始め遠方より沢山の寄進のあったことが玉垣、御神燈、社殿に明確に残されている。
特に玉垣には各女郎屋と遊女名が刻まれている。
現在の倉賀野神社の玉垣がそれで、一部は養報寺弁財天池の端の玉垣となっている。」

ここで思い出して頂きたいのが、前回の記事で「太鼓橋」「宝蔵橋」は別物らしい、というあの話です。

迷道院のいつもの当てずっぽうですが、「宝蔵橋」はこの石段下の「五貫堀」に架かっていた橋なんじゃないかと。


街道から引っ込んだ「三光寺稲荷神社」なら、飯盛女の名を玉垣に刻んだって、お上のお目こぼしも得られたでしょう。

「三光寺」は明治十年(1877)に廃寺となり、堂宇のあった所は現在「横町公民館」になっています。
「三光寺稲荷」も、看板にあるように明治四十二年(1909)に倉賀野神社に合祀され、社殿は前橋市川曲町の「諏訪神社」に売却・移築されて、いまも現存しています。

川曲の「諏訪神社」に行ってみると、最近改修されたようではありますが実に立派な社殿で、往時の「三光寺稲荷」の繫盛ぶりを想像できます。




今日は見られませんでしたが、立派な格天井絵もあるようです。
ちゃんと、倉賀野から移築したと刻まれているのが嬉しいですね。


昭和十一年(1936)に建てた「神社合祀記念碑」と、碑背の「由緒記」をもとにした、詳しい説明看板が建っています。


一方、倉賀野神社に合祀されたはずの「三光寺稲荷」は、元の場所に帰りたくて仕方がなかったようで。
ある老人の夢枕に稲荷様が立ち、『帰りたい、帰りたい』というので、それが噂となり、横町で寄付を募り、社殿の再興にこぎつけたのである。(略)
ところで、冠稲荷の名は復祀後初めて称するようになったわけではなく、その名はすでに明治十年(1877)の『郡村誌』に『土人之ヲ冠稲荷ト称ス』とみえており、明治初年に遡ることが確実である。」
(倉賀野町の民俗)

お稲荷様は元の場所に戻りましたが、倉賀野神社には今も「冠稲荷」が祀られています。


お祭りも両方の神社で行っており、横町では四月八日、倉賀野神社では二月初午だそうです。
これもまた、いいじゃないですか。


【横町の冠稲荷神社】


【倉賀野神社の冠稲荷】


【川曲町の諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:57
Comments(4)倉賀野高崎市名所旧跡案内板