2017年07月30日

史跡看板散歩-55 太鼓橋

倉賀野町「五貫堀」に架かる「太鼓橋」です。
「太鼓橋跡」と言った方が正確なのでしょうが。



看板に、「飯盛女が名前を刻んで寄進した・・・」とあります。
「高崎の散歩道 第二集」にもそう書かれていて、迷道院もブログ駆け出しの頃、◇女郎が架けた「太鼓橋」という記事でそのようなことを書きました。

しかし今は、その話ちょっと怪しいかな、と思っています。

享和三年(1803)、倉賀野宿問屋年寄たちが高崎町奉行と道中奉行に橋架け替えを報告した文書に、こう書かれています。
享和二壬戌年十二月、宿内旅篭屋溜銭積金弐百両余出金、石橋ニ架替、翌亥年八月出来、字太鼓橋ト唱」
(文献による倉賀野史第三巻)

出した二百両は「旅篭屋溜銭積金」とあります。
倉賀野宿では、旅籠屋から飯盛女一人につき165文(天保八年時)「刎ね銭」を取り、これを宿場の歳入に充てていました。
この「刎ね銭」を溜めたのが「溜銭積金」で、たしかに元をたどれば飯盛女に由来はしますが、寄進したということではありません。

それがなぜ「飯盛女が寄進した」として伝わっているのでしょう。

推測ですが、その元は昭和十五年(1940)に発行された「伝説之倉賀野」という本ではないかと思います。


皇紀二千六百年の記念行事として、倉賀野の小学校研究部で編纂されたこの本は、当時の町民、特に子どもたちへの愛国心・愛郷心教育という目的が強かったようです。

その序文には、このようなことが書いてあります。
(ここ)に我國は光輝ある年を迎へ躍進日本の巨歩を東亜の天地に記しつゝある秋、國民は一層日本の歴史や國柄を善く知る必要があると同時に、其細
胞である鄕土の姿をはっきりと認め、一層愛國心と愛鄕心を高潮させ國力の發展に寄與せねばならぬ、此意味に於て此冊子の出現は善い結果を齎(もた)らす事と信ずる。」

「傾城(飯盛女)という身分でありながら、自発的に公のために寄進した。」という美談として子ども心に植え付けられ、そのまま大人になっても信じ込まれていたのではないでしょうか。
教育とは、一面、恐ろしいものでもあります。

また看板には、「現在、(飯盛女の)名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されている」と書かれ、「太鼓橋」の絵図とともに「寶蔵橋」と刻まれた橋の親柱の写真が載っています。


その石は、倉賀野神社境内南端の木立の中に、ずらーっと寝かされています。



石材に「三國屋内 佐ね」などと刻まれているので、これが寄進をした飯盛女の名前だと言われています。
本当にそうなのでしょうか。

見ると「梅澤屋」の石には四名の名が刻まれています。
前回「九品寺」の記事にも書きましたが、一軒の旅篭屋で雇える飯盛女は二名まで、というのがお上の定めです。
そのお定めを破る数の名を、人通りの多い天下の中山道の、しかも最も人目に付く橋の欄干なんぞに刻んだりするでしょうか。

また、「寶蔵橋」「太鼓橋」の正式名称だと言いたそうなのですが、本当にそうなのでしょうか。
もしそうならば、先にあげた享和三年の橋完成報告書に、「宝蔵橋」の名称が出てきてよさそうなものですが、それがないというのは不思議です。

そもそも、これらの石材は本当に「太鼓橋」のものなのでしょうか。

倉賀野の郷土史家・前澤辰雄氏が昭和四十年(1965)に発行した「上州倉賀野河岸」という本に、大正九年(1920)に撮影された「太鼓橋」の写真が載っています。


欄干の部分が写っていないのが残念ですが、逆に考えると、前述のような特徴ある欄干であれば、その写真が残っていないというのも不思議です。

そして前澤氏は、この写真にこうコメントしています。
享和二年、石橋に掛け替えられてから昭和十年の道路改修で取つぶされるまで、百三十三年間の寿命を保った太鼓橋の、これは晩年の姿である。(略)
解体された石は埋土代りに使われ、現在の道路下にあるとか・・・・・。」



ところが、平成二十五年(2013)に倉賀野地区地域づくり活動協議会が発行した「未来への道しるべ」という冊子では、前澤氏の活動として「宝蔵橋(太鼓橋)の欄干石を池より掘り出し保存した」という記載になっています。


どちらの記述が本当なのでしょう。

その真相を探る手がかりになりそうなのが、「倉賀野神社」東口にある石玉垣です。
これにも寄進者らしき名前が「金沢屋内 里津 ひ呂 きん」という書き方で刻まれています。


看板には、その説明が書かれています。


注目すべきは、「この玉垣はもと三光寺稲荷のもので、社殿が川曲へ売られた時、倉賀野神社と養報寺に移された」となっていることです。
つまり、この玉垣は「三光寺稲荷」にあったものだという訳です。

そこでこの玉垣の石材の寸法を測ってみると、木立の中に置かれている石材の寸法とぴったり一致します。
ということは、どちらの石材も、「三光寺稲荷」にあった玉垣のものと考える方が自然ではないでしょうか。

となると、「太鼓橋」「寶蔵橋」は別物で、「寶蔵橋」「三光寺稲荷」のどこかに架かっていた橋だということになります。

うーん・・・。


【太鼓橋跡】


【倉賀野神社石玉垣・石材置き場】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2017年07月23日

史跡看板散歩-54 九品寺

「倉賀野宿本陣跡」の道向こうに細道があり、その突き当たりが「九品寺」(くほんじ)です。




看板にはいろいろ書かれてますが、迷道院としては「九品」とは何かが知りたいところです。
Wiki.によると、「物質や人の性質を3×3で分類したもの」だそうで、「上品」とか「下品」という言葉はここからきているのだとか。
九つの区分の最も下が「下品下生」(げぼん・げしょう)で、「五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者」とあります。
ほ~、さぞかし地獄は大賑わいだろう・・・、行きたくないなぁ。

山門を潜った右手にケヤキの大木、幹のコブが生きてきた歳月の長さを感じさせます。


本堂の破風には、「葵の御紋」


「九品寺」は浄土宗総本山「知恩院」の末寺で、徳川家が浄土宗を信仰していたことから朱印地十五石を賜っていたとか。
(文献による倉賀野史第三巻)

史跡看板には、いろんな人の墓があると書いてありますが、迷道院は「飯盛女の墓」の他はあまり興味が湧きません。

倉賀野宿に何人の飯盛女がいたのかよく分からないのですが、天保十三年(1842)の「旅篭屋渡世書上帳」「飯売旅篭屋三十二軒」とあり、定めでは一軒二人までということになっているので、単純に掛け算をすれば64人ということになります。
(文献による倉賀野史第三巻)

しかし、実際には定めを越えた人数を置いていた旅籠が多かったようです。
そのため度々お上の手入れがあり、享和三年(1803)には22軒の旅籠が過料銭と手鎖を申し付けられ、定めを越えた数の飯盛女が53人もいたといいます。
(文献による倉賀野史第三巻)

この時捕えられた飯盛女たちは、宿役人に預けられた後、49人が倉賀野宿内や高崎城下、周辺の村々へ妻として縁づきます。
また国元(越後国蒲原郡)へ帰った者2人、剃髪して仏門に入った者もいたそうです。
(新編高崎市史通史編3)

越後国小嶋谷村の喜左衛門が倉賀野宿の旅籠屋・善兵衛に出した、「飯売下女年季奉公人請状之事」という証文が、「文献による倉賀野史第三巻」に載っています。
原文は候文ですが、現代語訳の方をご紹介します。
越後国三嶋郡小嶋谷村喜左衛門の娘ちい十六歳で、よんどころない金子入用のため、親類一同相談の上、倉賀野へ連れて来て、旅篭屋善兵衛方へ旅篭屋飯売下女として、年季奉公に出す。
文政七年(1824)八月から天保二年(1831)まで、六年六カ月間、給金は拾八両と極(き)め、給金残らず慥(たしか)に受取りました。
そうしたからには、諸親類や外の者より異議申立をする者は一人もありません。
もし、何か申す者が出たならば、我等何方(いずかた)までも出掛け、貴殿には御苦労をお掛け致しません。
万一、取り逃げ、欠落など致しましたら、早速尋ね出し、お渡し致します。
もし行方知れずの場合には、代わりの人なりとも、給金でも、思召次第に差出します。
年季中勝手なお暇など決して取らせません。
ことに、ご家内の風にあいませんときは、お知らせ次第出掛けて来て、他の宿へ渡しても良いし、我等遠方のために貴殿の手筋で、他の旅篭屋へ住替えさせ、お金を御取り下さい。
後日に加印請状を改めます。
もし、年季中に妻に欲しいとの人がありましたら本人得心の上、先様を見届けの上、貴殿(主人)の娘として、縁付かせてください。」

娘が死んだときのことも、証文に書かれています。
万一このもの煩死・病死・けが・あやまちにて、不慮の死の場合は、お知らせ次第お伺いして、立合い致すつもりですが、遠方のためできかねますから倉賀野宿の請け人(勘七)立合の上で、貴殿旦那寺に御取置、後日に法名をおつけください。」

しかし、ほとんどの飯盛女たちは墓も名も残さずに生涯を終えて逝ったのでしょう。
「新編高崎市史通史編3」によれば、倉賀野宿内の寺で確認された「飯盛女の墓」は、わずか28基だそうです。

「九品寺」にはその内6基が、墓地に入ってすぐの塀際に並んでいます。


昭和六十一年(1986)に無縁仏を一ヶ所に集めて供養塔を建てる時、ここに並べたそうです。

墓石の文字は肉眼で読めませんので、「新編高崎市史資料編14」の記載から引用します。
・越後國三島郡石地宿田澤屋栄之助娘はま 行歳廿才
・越後國蒲原郡柴田領
  沼垂内山木戸村
角蔵娘よしきく 行年廿四才
・北越後長岡 行年二十
・越後新潟平次娘きく
・越後三條裏館村こよ
・越後大宮嶌村へて
・越後三條久兵衛女里よ
・越後国長岡中源町権介娘やの

本堂脇に、「慈母観音」を刻んだ碑が建っています。


昭和二年(1927)の建立だそうですが、いいお顔をしています。
世の人々がみな、このように優しく穏やかな顔で、安寧の日々を過ごせますように。


【九品寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2017年07月16日

史跡看板散歩-53 倉賀野宿本陣跡

「高札場跡」から200mほど東へ行った、「ベイシアマート倉賀野店」のところが「本陣跡」です。




看板の絵図を見ても、本陣・勅使河原(てしがわら)家の大きさを窺い知ることができます。


因みに「脇本陣」(須賀喜太郎家、須賀庄兵衛家)は、このように描かれています。


「本陣」は門・玄関・書院を設ける特権が与えられ、上段の間も設けられていたそうです。
一方「脇本陣」は門・玄関のみ設置が認められていましたが、倉賀野「脇本陣」では玄関は設けていなかったようです。

「須賀勝彌家文書」(新編高崎市史通史編3)に、天明五年(1785)時点の夫々の屋敷規模が記載されています。
本陣(勅使河原八左衛門家)
  敷地 間口14間奥行40間 560坪
  家屋 間口13間3尺奥行14間194坪
脇本陣(須賀喜太郎家)
  敷地 間口12間5尺4寸 奥行29間374坪
  家屋 間口 9間3尺奥行15間 94坪
脇本陣(須賀庄兵衛家)
  敷地 間口22間5尺奥行27間617坪4分
  家屋 間口13間奥行13間 72坪

倉賀野宿では初め「本陣」のみがおかれ、「脇本陣」は後になって設けられたようで、天保十三年(1842)の「松本家文書」(文献による倉賀野史第三巻)によると、こうなっています。
本陣(勅使河原八左衛門家)
  八代以前 元和年中ゟ本陣相勤申候
脇本陣(須賀喜太郎家)
  六代以前 延宝年中ゟ脇本陣幷旅籠屋仕来申候
脇本陣(須賀庄兵衛家)
  七代以前 延宝年中ゟ脇本陣仕来候
【元和(1615-1624) 延宝(1673-1681)】

勅使河原家は中世「倉賀野十六騎」の筆頭・勅使河原備後守の子孫ということで、土地の有力者として大きな屋敷を有していました。
そのため高崎藩から「本陣」という役を任されたのでしょうが、苗字帯刀を許されたものの藩からの手当は下付されず、その経営はなかなか大変だったようです。

「脇本陣」は公的な宿泊者がない時は旅籠屋として一般客を宿泊させることができますが、「本陣」はそれを禁止されていました。
ではどうやって賄っていたかというと、宿泊する大名からの下賜金品と宿場からの助成金に依っていたといいます。

幕末に近づくにつれて大名の財政も乏しくなり、物価は高くなり、しかし助成金は据え置きという中でのやりくりで、相当苦しかったろうと思われます。
そのためか、勅使河原家は明治初年に没落し、現在子孫の行方も知られていないそうです。(文献による倉賀野史第三巻)

勅使河原家の西隣に、江戸初期から問屋年寄を勤めていた須賀善右衛門家がありました。
須賀善右衛門家も幕末に近づいて次第に衰微していったとみえ、安政三年(1856)には板鼻宿の造り酒屋・十一屋六左衛門に土地を貸しています。


十一屋六左衛門は近江国野田村出身の野田六左衛門、宝暦三年(1753)に板鼻宿で酒造業を開き一財を成した人です。
板鼻「十一屋」については、グンブロ仲間の風子さんの記事をご覧ください。 → ◇板鼻・十一屋酒造の銘酒 “群鶴” ♪

その支店として目を付けた場所が、倉賀野宿須賀善右衛門家だった訳です。
野田六左衛門は、その借地で酒を造り始めます。
そして、明治十八年(1885)にはその土地を買取っています。


明治二十五年(1892)の「倉賀野支店」の略図です。


ところが、いつの頃か分からないのですが、いきなり酒から味噌・醬油の醸造に変更します。
なんでも、火事になった時に消防の連中が火を消さずに店の酒を飲んでいたのを見て、これはいけないということで味噌醬油をつくることにしたというのですが・・・。(倉賀野町の民俗)

地元では「野田六商店」と呼ばれて親しまれ、商売も順調だったようで、大正期に敷地を拡大し真っ白な大きな蔵を建てたそうです。
おそらくこの時に、本陣・勅使河原家の土地も買取って拡張したのでしょう。

しかし戦後になって、さしもの「野田六商店」も勢いを失って閉店されます。
建物は昭和五十五年(1980)頃に取り壊されますが、昭和四十九年(1974)の航空写真に往時の建物群が写っています。


その跡地には「スーパー丸幸」ができ、その「丸幸」も平成十八年(2006)に閉店、「ベイシアマート」に変わって現在に至る訳です。

残念ながら、「倉賀野宿本陣」の遺構も「十一屋・野田六商店」の遺構もまったく残りませんでしたが、歴史を知って現地を見ると、感慨深いものがあります。


【倉賀野宿本陣跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
Comments(2)倉賀野高崎市名所旧跡案内板

2017年07月09日

史跡看板散歩-52 高札場跡

倉賀野町「高札場跡」です。



昔からある説明板は、もうまっ黒で文字がほとんど読めません。


その説明は新しく設置した史跡看板で。


「定め書」も新しい高札に書き写されています。


「五倫」とは、孟子の教え。
父子有親。「父子の間には親愛が有り」
君臣有義。「君臣の間には礼儀が有り」
夫婦有別。「夫婦の間には区別が有り」
長幼有序。「長幼の間には順序が有り」
朋友有信。「朋友の間には信義が有る」
(小林勝人氏著「孟子」より)

「鰥(かん)」は妻のいない男、「寡(か)」は夫のいない女、「孤」はみなしご、「独」は子のいない老人、「廃疾」は不治の病や不自由な身体を持つ人のことだそうです。

「教育勅語」なんぞを復活させるより、この「お定め」を復活させた方がよっぽどいいかも知れません。

もうひとつ「お定め」が掲げられています。


「ばてれん」は神父、「いるまん」は神父になる前の修道士。
「立かへり者」は一度信仰を捨てたが再び信徒に戻った者。
さらに、「同宿」とは宣教師らと寝起きを共にして手助けをした人、「宗門」は信徒のことだそうです。

庶民は目前の金銭的誘惑に弱いということを、お上はよく知ってます。
自分は「一般人」だから関係ないと思っていても、他人の目に「自然(じねん)不審な者」と映れば、捕まっちゃいます。

「宗門」の仲間同志だって、油断はできません。
密告すれば最高金額の褒美を出すという、「司法取引」も用意されてますから。
村内の誰かが匿ったりすれば「組織的犯罪集団」、名主や隣組まで罰せられちゃいます。

まさに、「総監視社会」を創り出そうという狙いですね。
そういえばつい最近、似たような「お定め」が・・・。

高崎にも、「隠れキリシタン」はいたようです。
   ◇高崎の隠れキリシタン
   ◇隠れマリア

ところで、高札場のうしろに一本の樅の木があります。


この木、「伝説の樅の木」と呼ばれているものです。
安政二年(1855)の倉賀野大火の折、この木の梢に降り立った大天狗により類焼を免れたというのが、「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋年寄・須賀長太郎家でした。

その「須賀長」は今ありませんが、その東隣で「脇本陣」をつとめていた「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家は、昔の佇まいを残しています。


最近改修工事が行われてきれいになり、これを機に一般公開して頂けるのかと期待もしたのですが、やはり個人宅ということで非公開のままです。

ただ幸運なことに、改修中に内部を拝見させて頂く機会がありました。 → ◇脇本陣 壁の下張り
内部の写真はあまり載せてはいけないでしょうが、このくらいはいいかなと思うものを少し。



本陣は大名・公家しか泊まれませんが、脇本陣は一般の旅人も泊まれたそうで、太田蜀山人草津への旅の途中、「須賀喜」に一泊したと伝わっています。
ところが、その時の女中の客あしらいがあまり良くなかったらしく、こんな狂歌を残していったとか。

  須賀須賀と 銭は取れども 用足らず
           こんな宿屋に なんで喜太郎



【高札場跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:04
Comments(4)倉賀野高崎市名所旧跡案内板

2017年07月02日

史跡看板散歩-51 田子屋の獅子

倉賀野「永泉寺」から中山道手前の比較的小規模な町内が、「田子屋」です。



「永泉寺」東の二股道を左へ行くと、建物の壁にへばり付くように、二十二夜塔馬頭観音碑が建っています。


ここが「田子屋公民館」で、今回の史跡看板「天下一角兵衛田子屋の獅子」があります。



倉賀野の各町内は屋台を持っていますが、「田子屋」は持っていません。
その代わり、倉賀野神社の祭礼で五台の屋台が巡行する時は、いつも「田子屋の獅子」がその先頭を進んだということです。


「天下一角兵衛」というのは獅子舞の流派のことで、現在高崎の獅子舞保存会に登録されている16組の内、「天下一角兵衛」を名乗っているのは田子屋上中居だけだそうです。

もっとも、上中居の獅子舞は天保三年(1832)に田子屋から指導されたものだと言われています。
これについては面白い話があって、指導する時に田子屋で舞っている通りではなく、舞と囃子の組順を変えて教えたということです。
なので、同じ演目で同じ囃子を演奏しても、田子屋上中居では違う舞いなのだそうです。


因みに、他の地域の獅子舞の曲数は25~26曲であるのに、田子屋では75曲もあるそうです。
「天下一角兵衛」流師範としての自負を感じます。

そんな「田子屋の獅子」も後継者不足のため、十数年途絶えた時期がありますが、平成十七年(2005)秋の倉賀野神社七百五十年祭を機に復活し、以降春秋例大祭に奉納されているそうです。

伝統芸能の継承が難しい時代、永く続いていってほしいと思います。


【天下一角兵衛田子屋の獅子史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:05
Comments(6)倉賀野高崎市名所旧跡案内板