2017年08月20日

史跡看板散歩-58 馬街道と牛街道

「倉賀野宿本陣跡」「ベイシアマート」東の道を、「馬街道」と呼んでいたようです。


また、この道の先に「井戸八幡宮」があるので、「高崎宿・倉賀野宿往還絵図面」では「八幡道」となっていて、道の入口には鳥居が描かれています。


大きな鳥居だったので人々は「大門」(だいもん)と呼び、この辺一帯は、町名の「田屋町」よりも「大門」と言う方が通りがよかったそうです。
鳥居は安政三年(1856)の大火で焼けてしまいましたが、その礎石は昭和十年(1935)頃まで残っていたといいます。

そして、「倉賀野河岸」への道でもあるので「河岸道」とも呼ばれました。
中山道から250mほど進むと、右側に「井戸八幡宮」、そのすぐ先、左側の石垣の脇に史跡看板は建っています。



看板に掲載されている「中山道分間延絵図」では、このように描かれています。


史跡看板の建っている所の石垣は、「倉賀野河岸」「帳場」跡と言われています。
「帳場」は、河岸を出入りする荷の帳簿付けをしていたのでしょう。


上図によると、石垣の残っている所は「須賀庄」の帳場で、道を挟んで「須賀長」「須賀喜」の帳場となっています。

しかし、享保十六年(1731)の絵図では、「須賀庄」「須賀長」「須賀喜」は同じ側に並んでいて、「蔵」と書かれています。
「帳場」「蔵」は違うものなのでしょうか、よく分かりませんが「蔵」と書かれているのが全部で八つあります。


「帳場跡」から中山道へ向けて戻ると、途中、二股に分かれます。
左が「牛街道」、右が「馬街道」です。


ところで、なぜ「馬街道」「牛街道」に分かれているのか。
聞いた話によると、道が狭いのに牛の歩みは遅くて馬は追い抜くことができない、そこで馬はこの二股で分かれて違う道を通ったということだそうです。

二股を左に、つまり「牛街道」をずっといくと、「高札場跡」の前に出てきます。


ここは上町の問屋場があったところです。
問屋場で、荷物の仕分けをして各方面へ移送したわけです。

倉賀野宿の道は、なかなか合理的にできていたんですね。
歴史を辿ると、昔の人の知恵は本当にすごいと、感心させられることばかりです。


【「馬街道と牛街道」史跡看板】






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この記事へのコメント
江戸時代の方は
合理的で、無駄の無考え方をしたようですね。
現代は、経済優先で、夢が無いような気がします。
そして、馬頭観音など物事に感謝の
気持ちと助け合う事をしたような気がします。
Posted by wasada49  at 2017年08月22日 07:51
>wasada49さん

ま、江戸時代に住んだことがないので、ほんとの所はよく分かりませんが、いつの世も庶民の知恵というのは大したもんで、何があっても隙間を見つけて、スルリスルリと生き抜いてるような気がします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年08月22日 21:01
牛街道、馬街道ですか・・・面白いですね。
史跡看板に絵図が載っていて、随分親切ですね。

信州へ行くと、「塩の道」についての案内板をよく目にしますが、当然のことながら、上州にも「塩の道」があったのですね。よいことを教えて頂きました^^。
Posted by 風子  at 2017年08月24日 10:45
>風子さん

塩は生活必需品ですからね。
特に、海なし県では貴重品です。
密輸(?)する船頭もいたみたいで、
取り締まりは厳しかったようですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年08月24日 18:53
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