2017年08月13日

史跡看板散歩-57 倉賀野河岸跡

「太鼓橋」の手前を、南へ入る道があります。


この道は「倉賀野河岸」へ行く「河岸道」(かしみち)で、道の両側には船頭たちが住んでいたそうです。

170mほど行くと、「共栄橋」袂から東へ入ってくる道と交差し、向こう角に石造物が並んでいます。




その石造物の所から右下へ下りる道が、倉賀野河岸へ行く昔の道だそうです。


たしかに、それらしい雰囲気のある道です。


下ってからぐっと上がった所にあるのが「河岸広場」という小公園で、そこに史跡看板が建っています。



昭和四十九年(1974)に建てられた「倉賀野河岸跡」碑と、「倉賀野河岸由来」碑もあります。


「河岸道」というのは何本もあったようです。


今回辿った「河岸道」は、「共栄橋」に最も近いルートです。

前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の口絵で、往時の河岸の様子を想像してみましょう。


河岸跡は、いま「倉賀野緑地公園」になっています。


空撮写真の中央に暗渠があって、そこから勢いよく水が流れ出ています。


これが、「太鼓橋」下を流れて「烏川」へ落ち込む、「五貫堀」の水です。


「共栄橋」の下に、「倉賀野掘りべえ」というモニュメントのようなものが建っていました。
水害防止用の排水トンネルを掘削した機械の、ドリルの部分だそうです。


そこから上の道路へ上がって北へ100mほど行くと、右の奥まったところに小さな石祠があります。
知らなければ通り過ぎてしまいそうです。


近寄って見ると、きちんと注連縄も張られて、立派な説明板も建っています。


「倉賀野町の民俗」によると、この石祠は「御行祖母」と書いて、「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか言われているそうです。

倉賀野の各町内では昔から七月十四日の朝に、町の境に「八丁注連」(はっちょうじめ)というものを建てる風習があります。
外から疫病が入り込むのを防ぐためだそうですが、それとの関係もあるのかも知れません。


「御行祖母」のある横町では、他町内との境の道五ヶ所に「八丁注連」を建て、「御行祖母」の石祠には注連縄を張り赤飯を上げる習わしだとか。


今年もきちんと注連縄を張ってお祭りをしてもらい、「おぎょうばあ」もさぞかし喜んでいることでしょう。


【河岸道と河岸跡】