久々の史跡看板シリーズです。
今日は、栗崎町の「諏訪神社」。
「上野国神社明細帳」には由緒不詳とありますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
一段高くなっている境内の東南角に、史跡看板が建っています。
「馬頭観世音」は、最初の写真右端に写ってるのがそれです。
「種子道陸神」は、史跡看板の左に並んでいる石造物の一番左。
「大地土公神」と「百庚申」は、大きな桜の古木の下に並んで建っています。
「土公神」という神様は知りませんでしたが、土を司る神様で、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭と、季節によって居座る場所を変えるらしいです。
なので、その季節にその場所を動かしたり侵したりすると祟られちゃうんだとか。
看板では「どぐうじん」と仮名が振られていますが、Wikipediaでは「どくじん」あるいは「どこうじん」と読ませています。
ここの「百庚申」塔は、一枚の板碑に「庚申」という文字が百刻んであります。
よく道端に建っている「庚申塔」は、60日に一度巡ってくる「庚申」(かのえ・さる)の日に行う「庚申待ち」の講を、3年18回行った記念に建てるものです。
その「庚申塔」を百基建てるのが本来の「百庚申」でしょうが、それには「庚申待ち」を1800回、300年かかることになります。
そこで、あちこちの寄進者による「庚申塔」を一箇所に集めて「百庚申」と称したり、一基の「庚申塔」に「百庚申」と刻んだり、ここのように「庚申」という文字を百刻んで、同じご利益を得ようというのもあったりする訳です。
また、文字を百刻む場合ひとつづつ違った書体にするものが多いのですが、ここの「百庚申」塔はまるで機械で彫ったかのように同じ字体で百刻まれています。
建立は万延元年(1860)とありますので手彫りのはずで、これはこれですごい手技です。
あ、そうそう、栗崎町と言えば、高崎城のシャチホコが載っている門を探しに来たことがありました。
ご興味のある方は、探してみて下さい。
ただし、そっとね・・・、そっと。
今日は、栗崎町の「諏訪神社」。
「上野国神社明細帳」には由緒不詳とありますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
「 | 由緒不詳なれども往昔同郡倉賀野駅飯玉神社より分け祭れりと云ふ。(略) |
亦合併したる諏訪神社の由緒記によれば大永三年(1523)中、信濃國諏訪明神を勧請し、上下両社に分祀して当村の鎮守とし、上諏訪下諏訪と称し奉る。 其後明治十年四月四日下諏訪鎮座の下照姫命(したてるひめのみこと)を上諏訪に合祀せり。 末社経津主命(ふつぬしのみこと)、疱瘡(ほうそう)社一社あり。 |
|
信州より分祀し奉りしより、旱魃の際、雨晴等祈禱能く霊験あること最も人の知る処也。 | |
寛文五年(1665)乙巳(きのと・み)安藤對馬守御検地に際し、御除地六反餘歩を賜はる。」 |
一段高くなっている境内の東南角に、史跡看板が建っています。
「馬頭観世音」は、最初の写真右端に写ってるのがそれです。
「種子道陸神」は、史跡看板の左に並んでいる石造物の一番左。
「大地土公神」と「百庚申」は、大きな桜の古木の下に並んで建っています。
「土公神」という神様は知りませんでしたが、土を司る神様で、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭と、季節によって居座る場所を変えるらしいです。
なので、その季節にその場所を動かしたり侵したりすると祟られちゃうんだとか。
看板では「どぐうじん」と仮名が振られていますが、Wikipediaでは「どくじん」あるいは「どこうじん」と読ませています。
ここの「百庚申」塔は、一枚の板碑に「庚申」という文字が百刻んであります。
よく道端に建っている「庚申塔」は、60日に一度巡ってくる「庚申」(かのえ・さる)の日に行う「庚申待ち」の講を、3年18回行った記念に建てるものです。
その「庚申塔」を百基建てるのが本来の「百庚申」でしょうが、それには「庚申待ち」を1800回、300年かかることになります。
そこで、あちこちの寄進者による「庚申塔」を一箇所に集めて「百庚申」と称したり、一基の「庚申塔」に「百庚申」と刻んだり、ここのように「庚申」という文字を百刻んで、同じご利益を得ようというのもあったりする訳です。
また、文字を百刻む場合ひとつづつ違った書体にするものが多いのですが、ここの「百庚申」塔はまるで機械で彫ったかのように同じ字体で百刻まれています。
建立は万延元年(1860)とありますので手彫りのはずで、これはこれですごい手技です。
あ、そうそう、栗崎町と言えば、高崎城のシャチホコが載っている門を探しに来たことがありました。
ご興味のある方は、探してみて下さい。
ただし、そっとね・・・、そっと。
【栗崎町の諏訪神社】