2017年10月29日

史跡看板散歩-66 栗崎町諏訪神社

久々の史跡看板シリーズです。

今日は、栗崎町「諏訪神社」


「上野国神社明細帳」には由緒不詳とありますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
由緒不詳なれども往昔同郡倉賀野駅飯玉神社より分け祭れりと云ふ。(略)
亦合併したる諏訪神社の由緒記によれば大永三年(1523)中、信濃國諏訪明神を勧請し、上下両社に分祀して当村の鎮守とし、上諏訪下諏訪と称し奉る。
其後明治十年四月四日下諏訪鎮座の下照姫命(したてるひめのみこと)を上諏訪に合祀せり。
末社経津主命(ふつぬしのみこと)、疱瘡(ほうそう)社一社あり。
信州より分祀し奉りしより、旱魃の際、雨晴等祈禱能く霊験あること最も人の知る処也。
寛文五年(1665)乙巳(きのと・み)安藤對馬守御検地に際し、御除地六反餘歩を賜はる。」

一段高くなっている境内の東南角に、史跡看板が建っています。



「馬頭観世音」は、最初の写真右端に写ってるのがそれです。
「種子道陸神」は、史跡看板の左に並んでいる石造物の一番左。


「大地土公神」「百庚申」は、大きな桜の古木の下に並んで建っています。



「土公神」という神様は知りませんでしたが、土を司る神様で、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭と、季節によって居座る場所を変えるらしいです。
なので、その季節にその場所を動かしたり侵したりすると祟られちゃうんだとか。
看板では「どぐうじん」と仮名が振られていますが、Wikipediaでは「どくじん」あるいは「どこうじん」と読ませています。

ここの「百庚申」塔は、一枚の板碑に「庚申」という文字が百刻んであります。
よく道端に建っている「庚申塔」は、60日に一度巡ってくる「庚申」(かのえ・さる)の日に行う「庚申待ち」の講を、3年18回行った記念に建てるものです。

その「庚申塔」を百基建てるのが本来の「百庚申」でしょうが、それには「庚申待ち」を1800回、300年かかることになります。
そこで、あちこちの寄進者による「庚申塔」を一箇所に集めて「百庚申」と称したり、一基の「庚申塔」「百庚申」と刻んだり、ここのように「庚申」という文字を百刻んで、同じご利益を得ようというのもあったりする訳です。

また、文字を百刻む場合ひとつづつ違った書体にするものが多いのですが、ここの「百庚申」塔はまるで機械で彫ったかのように同じ字体で百刻まれています。
建立は万延元年(1860)とありますので手彫りのはずで、これはこれですごい手技です。

あ、そうそう、栗崎町と言えば、高崎城のシャチホコが載っている門を探しに来たことがありました。
ご興味のある方は、探してみて下さい。
ただし、そっとね・・・、そっと。


【栗崎町の諏訪神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:20
Comments(2)高崎市名所旧跡案内板

2017年10月22日

不幸だった道標 「國道九號線」

先日、「幸福の道標 左道通行」の記事を書きましたが、実はその真逆の「不幸な道標」があります。

飯塚町の一貫堀に架かる「清水橋」の親柱、そしてそれは、高崎の歴史を語る「國道九號線」の道標でもありました。

8年前の記事をご覧ください。
   ◇高崎に国道9号線?

この親柱、つい最近まであって、ストリートビューにも残っているんですが・・・。


いつの間にか、なくなっちゃいました・・・。


どうも、昨年から今年にかけての橋改修工事で、撤去されてしまったようです。

高崎土木事務所へ電話して、親柱はどうなったのか問い合わせたところ、「区長さんからの要請もあって、塚沢公民館に保管されている。ただ、撤去時に破損したものは廃棄した。」ということでした。

早速、塚沢公民館へ行ってみました。
主事さんのご案内で保管してあるという場所へ行ってみると、外階段の下に置いてはあったのですが・・・。


肝心の「國道九號線」と刻まれた親柱は、廃棄されてしまったようです。

もしも土木事務所の担当者が、あるいは工事業者が、「これは何か大切なものじゃないか。」と思ってくれていたら、破損しないように注意しながら作業してくれたんじゃないでしょうか。
例え破損してしまったとしても、つぎはぎして復元してくれたんじゃないでしょうか。

そういう人のご縁を得た「左道通行」の道標に比べ、ご縁を得られなかった「國道九號線」の道標は誠に不幸でありました。

8月の上毛新聞「ひろば」欄に、こんな投稿がありました。


羨ましい話です。

ただでさえ少なくなってしまった高崎の歴史を、これ以上捨ててしまうことがないようにしたいものです。
高崎の行政に携わるあらゆる人達に、そしてこれからの高崎に生きていく子どもたちに、高崎の歴史を伝えていく必要性を、強く、強く思う日々であります。


【清水橋】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
Comments(8)◆高崎雑感◆高崎探訪

2017年10月19日

選挙で問われているものは?

このブログで政治ネタを扱うのはなるべく避けているのですが、ちょこっとだけ書いてみます。

新聞・テレビで今回の選挙について連日報じているのですが、国民をどんどん的外れな方向へ誘導しているような気がします。

落ち着いて考えてみましょう。

今回、衆議院を解散して選挙をする理由として安倍首相が挙げたのは次の2点です。
1. 急速に進む少子高齢化を克服し、我が国の未来を開くために消費税を上げ、使い道の配分を見直す。
 ・生産性を高める
 ・高等教育の無償化
 ・給付型奨学金の支給額を増やす
 ・一度社会に出た者の学校への再入学を保障する
 ・幼稚園や保育園の費用を無償化する
 ・介護人材の処遇改善をする
2. 北朝鮮の脅威に対して国民の命と平和な暮らしを守り抜く。
 ・力強い外交を進めていく
 ・北朝鮮に対して毅然とした対応をとる

この程度のことなら、なにも解散などせずとも、粛々とやればいいだけの話です。
これ以上に国論を二分し、憲法違反だと指摘される法案(特定秘密保護法、安保法、共謀罪法)でさえ、国民に信を問うこともなく粛々と強行採決してきたんですから。

それができる議席数を持っているのに、なぜ今回わざわざ解散・総選挙に打って出たのか。
ここが、今回の選挙の最大の争点であるはずなのに、新聞・テレビは知ってか知らずかその争点とは全く違うところを報じ続けています。

目を逸らされてはいけません。
本当の解散理由は?

今回の選挙で真に問われているものは、我々国民の見抜く眼の有無かも知れません。  


Posted by 迷道院高崎at 17:03
Comments(2)◆世事雑感

2017年10月18日

ホロコースト展

前橋エキータで開催されている「ホロコースト展」を見てきました。



沢山の人が見に来ていることに、まず驚きました。
説明パネルも沢山展示されていて、一枚一枚のパネルの説明文の多さにも驚きました。
来ていた人もみな、その説明文を熱心に読んでいました。

私は、入ってすぐのパネルの文章に深く共感を覚えました。
「忘れない勇気」
本展は、1933年にヒトラーが権力の座に就いてから始まった、ナチス・ドイツによる反ユダヤ人政策の歴史をたどるものである。
1945年に第二次世界大戦が終結するまでに約600万人のユダヤ人が殺害され、史上最悪の大虐殺となった。
ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党の略語がNazis)の人種憎悪政策は、憎しみを煽る宣伝から大量虐殺へと容赦なく移行した。
ホロコーストという途方もないほど無慈悲で残忍な、そして冷酷かつ組織的で機械的な大量虐殺は、類を見ない。
だが、ホロコーストの根本的な原因は特別なものではない。
人種憎悪、人間の心理的、精神的な弱点、無実の者への迫害に対する普通の人間の間接的な関与は、おぞましくはあるが、身近なことでもある。
したがって我々は、それがどんなに心を乱すとしても、ホロコーストのことを忘れない勇気を持ち、学び続けていかなければならない。
将来、このような憎悪を二度と起こさないために大切なのは、一人一人が知識と道徳心を身につけることである。

ホロコーストを煽動したヒトラーという人物は勿論とんでもない人物ですが、彼一人ではあれだけのことはできなかった訳で。
彼の周囲には、彼を煽動した者もいれば、積極的であれ消極的であれ彼に同調した大勢の市民がいた訳で。
そう考えると、彼は実は冷酷残忍な「ヒトラー」という人物を演じていただけで、演じさせたのは彼に支配されていたように見える「市民」ではなかったのかと。

「命のビザ」を発行して迫害されるユダヤ人を救った、杉原千畝の勇気を嚙み締めたい。
最初の回訓(外国に駐在する外交官が指示を仰いだ事項に対する、本国政府の回答の訓令)を受理した日は、一晩中私は考えた。考え尽くした。
回訓を文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれと考えた。
かりに当事者が私でなく他の誰かであったとすれば、恐らく、その百人が百人、東京の回訓通りビザ拒否の道を選んだだろう。
それは何よりも、文官服務規程および何条かの違反に対する昇進停止、ないし馘首が恐ろしいからである。
私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた・・・。
(略)
苦慮、煩悶の揚句、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。
私は、何も恐るることなく、職を賭して、忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。」
(杉原千畝晩年の回想より)

当今、やたらと「○○ファースト」という言葉が流行っていますが、どこか自分本位で、「○○以外は二の次」という、ともすれば差別につながりかねないような言葉にも聞こえ、私は大嫌いな言葉です。
でも、同じ「○○ファースト」でも、千畝の言う「人道・博愛精神ファースト」は素直に心に入ってきます。

「ホロコースト展」、10月22日(日)まで。





  


Posted by 迷道院高崎at 07:07
Comments(4)◆世事雑感沈思黙考

2017年10月15日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(3)

嬉しいニュースが飛び込んで来ました!

「左道通行」の道標が、新(しん)町から返還され、元あった粕沢に設置されたというのです。


元あったと言っても、正確に元の場所という訳ではないのですが、松並木を背に、浅間山古墳を右手に見る、現時点では最適な場所だと思います。

この「左道通行」については、つい最近記事にしたのでご記憶の方もあるでしょうが、こんな経緯がありました。
   ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(1)
   ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(2)

ここまでの間、御尽力を頂いた皆さま方に、心より感謝申し上げます。

次の期待は、ここに史跡看板が設置されることです。
関係者の皆様には、引き続きよろしくお願い申し上げます。


【「左道通行」の道標】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(6)倉賀野

2017年10月08日

史跡看板散歩-65 火雷若御子神社

東中里町「火雷若御子(からい・わかみこ)神社」です。




神社名の「火雷」は、「火雷神」(ほの・いかづちの・かみ)のことですが、これが実に大変な神様でして。

「イザナギ」「イザナミ」が結婚して、国を産み、島を産み、神を産むのですが、最後に産んだ神様が「火之迦具土神」(ひの・かぐつちの・かみ)という火の神様だったものですから、「イザナミ」は陰部に火傷を負って死んでしまうのです。

死んだ「イザナミ」は黄泉(よみ)の国へ行ってしまいますが、「イザナミ」にもう一度会いたいと思った「イザナギ」は、黄泉の国の入口まで訪ねていきます。
外で待っていてくださいと言う「イザナミ」を待ちきれずに、中へ入った「イザナギ」が見たものは、蛆が這い回る「イザナミ」の変わり果てた姿でした。

そしてその身体には八柱の「雷神」が纏わり付いていて、胸の部分にいたのが「火雷神」なのです。
その姿におののいて逃げる「イザナギ」を追いかけたのも、「雷神」達でした。

そんな怖い神様ですが、雷の多い上州では雷除けの神様として、また稲妻や雨をもたらす豊作の神様として祀ったのですね。

看板に、祭神は「火産霊命」(ほむすびの・みこと)とありますが、この神様の別名は「火之迦具土神」「イザナギ」が死の直前に産んだ神様なのです。
境内社の「秋葉神」の祭神「軻遇突智命」(かぐつちの・みこと)も、同じ神様です。
もう一柱の祭神「宇気母智神」(うけもちの・かみ)は、その屍から牛馬、粟、蚕、稗、稲、麦・大豆・小豆が生まれたとされる、食べ物の神様です。

神社名に「若御子」と付いている意味はよく分かりませんが、那波郡下ノ宮(現玉村町)の「火雷神社」から勧請したということなので、「火雷神の御子」といった意味なのでしょうか。

(なお余計なお節介ですが、「大山祇命」「おおやまぎの・みこと」と仮名が振られていますが、「おおやまつみの・みこと」の誤りだと思います。)

社殿は質素な造りですが、駒犬の顔は迫力があります。


迫力のある風神・雷神の絵馬も奉納されています。


その並びに、「神楽殿」という額があるんですが・・・?


境内に「神楽殿跡」という看板が建っていますので、どうやら額だけ残して社殿に飾ったもののようです。


試しにGoogleストリートビューで見てみたら、2012年にはあったようですが、2015年には無くなっています。


社殿後ろの石碑に、こんなことが刻まれています。
明治十九年中宮殿ヲ建換ヘ 神樂殿幷ニ沓堂ヲ新築ス 同廿八年一月廿四日神號ヲ舊ニ復シ奉り 同月廿七日御遷宮式大祭典ヲ挙行ス」

明治丗四年一月廿七日氏子等建之
      五十嵐勘衛謹書

明治十九年(1886)に建てた「神楽殿」ですから、けっこう傷んでいたのかも知れません。

上の石碑に「五十嵐勘衛謹書」とありますが、境内には、同氏の名前があちこちに見られます。




高崎五万石騒動で斬首された大総代・佐藤三喜蔵の家が移築された場所を探して、この五十嵐勘衛氏宅に辿り着いたことを懐かしく思い出しました。 → 「久々の五万石ネタ」

看板の後半に書かれている「御沓堂」です。
「おくつ」と仮名が振られてますが、正確には「御沓」(おくつ)を納めるお堂で「おくつどう」なんでしょう。


中は相当荒れていますが、草鞋や絵馬が残っています。


「馬の草鞋」「御」を付けて「御沓」というのは、「雷神」が乗る白馬に履かせる草鞋に由来するようです。

前橋上新田町にも「雷電神社」があるんですが、そこに謂れを書いた看板があるのを思い出しました。
7年前に尋ねてました。


社殿の手すりには、沢山の「御沓」が奉納されていました。


さて、「火雷若御子神社」に戻りましょう。
看板の最後に書かれている「石造物」というのがこれです。


ただ、この中に謎のものがありまして・・・。


お地蔵様の後ろに円い石が置いてあって、いや、置いてあると思ったら、しっかりコンクリの土台に埋めてあるんです。
何なのかなぁ、って・・・。

小さな神社でしたが、面白くって、つい長い記事になってしまいました。


【火雷若御子神社】


【上新田町雷電神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:18
Comments(8)高崎市名所旧跡案内板

2017年10月01日

史跡看板散歩-64 一本杉

「荒神」から「倉賀野緑地」へ下る坂の左に、伝説の「一本杉」があります。





看板では字数の制限があってあらすじしか書けなかったと思いますので、「伝説之倉賀野」の全文を読んで頂きましょう。

「一本杉」
天下麻の如く亂れた戰國の世も、元和の春と共に、世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。
父は旗本八萬騎の四天王の一人として多數の部下を統率する身であった。
その性質は勤嚴そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名を謳はれた勇將にて、暇ある毎に語り聞かすは當時の武勇傳であった。

新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。
後添には一人の娘が居た。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待って居た。
然し、運命は皮肉にも新之助の心は、いつか許嫁とは反對な邸(やしき)の門番の娘お露にあった。
『忍ぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人の問ふまで』
いつまでも知れずにはゐなかった。
桃千代を通じて繼母に、繼母より父へと知られた。
如何に辯解したとて名ある旗本の嫡男の身が、いやしき門番の娘などと・・・。

清廉潔白の士を以って世に聞ゆる父に許され樣もない事を知った二人は、或る夏の夜兩國大花火を期して姿を消した。
行く先は豫(か)ねて便りに薄ら記憶の老女中、お藤の餘世を送る上州碓氷の坂本宿であった。
江戸を出てから夜に日を次いで武州熊谷も過ぎ、本庄に辿りついた。
何の用意とてない上に御苦労知らず、働く能なき二人には、それは此の世ながらの生地獄であった。

折しも豪雨降り續き、河といふ河は未曾有の増水となった。

船賃とて持たぬ上に、江戸から追手が迫ってくると聞いた兩名は、どうしてもこの川を渡らねばならなかった。

或る夜淺瀬を見付けて川越しをした。
だが不幸にも足はすべって河中に・・・・怒り狂ふ荒波の中に!
明くる朝河岸近くの河原に多くの人が集まってゐた。
近寄って見れば何と互ひに胴を結びし男女の溺死體であった。然も可憐にも女の體には新しい肉塊の動きさへ見受けられた。
純朴な村人の目には涙さへ催された。

やがて二人のために河岸近くの高臺に比翼塚が建立された。

兩親も江戸より馳付けた。此の二人のいぢらしさに肉親の愛情がこみ上げてきた。

一切を許して立派な塚が立てられ、その上に二本の杉が植ゑられた。
一本は大きく一本は小さくとは優しい村人の心遣ひの表象(あらわれ)であった。
さゝやか乍も石塔も立てられた。

よく其處には訪れる人の供へた、だんご草花の供養も見出だされる。
其の邊を荒神山(くわうしんやま)と云ひ、人々はあの杉を荒神山の二本杉と呼び慣らした。
それから荒神山はただ荒れるに委せられて狐や貉の巣くふ荒山となった。

星移り年も幾度か改まって明治となった。
さしも荒れに荒れた荒神山一帶も文明開化の叫びと共に、次第に開墾され田畑となった。荒神と名づけた田も出來た。
だがどうした理由か、水田の水掛りが悪い上によく人々が怪我をする。
又其の田を耕す者の家には必ず不幸が見舞ふとさへ云はれた。
人々は古老の言に從って二人の供養塔を立てゝ懇ろに弔った。
其れ以來惡い事もなくなったと人々は喜んだのである。

植ゑた二本杉は年を經て、すくすくと靑天に聳ゆる大木となった。

或る年雷が落って一本が真二つに割れてしまった。
幸ひ枯れはしなかったが、その空洞になった所に、時々乞食どもが集まって火を燃してゐた。
或る冬の朝、村人たちは怒って追出したが、すぐに又集まって來た。
遂に一本は枯れた、だが抜目のない乞食どもは、他の一本にも空洞を見付けて、相變らず火を燃やしてゐた。

訪れる人々はその一本杉の根元に黒くこげた、むごたらしい痕跡を見つけて、風雨幾星霜にさらされて立つ梢を、深い感槪を以って眺めることであらう。」


もとは「二本杉」だったという、「一本杉」の悲恋物語でした。


【一本杉】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
Comments(2)倉賀野高崎市名所旧跡案内板