2014年09月14日

駅から遠足 観音山(3)

八島町の五本辻交差点です。

写真右端の建物は「高崎市美術館」、その左に接した鬱蒼たる樹木は旧井上房一郎邸の生垣、今は「高崎哲学堂」として美術館から入れます。

八島町は明治三十五年(1902)にできた町です。
一面田んぼだったこの辺りが一町を成したのは、「高崎停車場」誘致に尽力した矢島八郎の功績であるとして、当初「矢島町」とする予定であったが、矢島八郎の固辞により字を変えて「八島町」としたのだと伝わっています。
「矢」「八」に変えたのは、末広がりで縁起がいいからという説と、「八郎」「八」を付けたのだという説とありますが、さて、どうなのでしょう?

ところで「八島町」の読み方ですが、公的には「やまちょう」と読ませるようです。
しかし、迷道院が子どもの頃、周りの人は皆「やまちょう」と言っていましたし、今もそう呼んでる人が多いように思います。
町の由来からすれば、「やまちょう」に改めた方がよいのではないでしょうか。

写真正面の建物が、道を二方向に分けています。
右の道は通称「観音通り」聖石橋を経て観音山へ行きます。
左の道は通称「愛宕通り」、昔の人は「愛宕様」と呼ぶ「愛宕神社」への道です。

大正十三年(1924)には、まだ「観音通り」はありません。

「観音通り」の前身ともいえる「南堀通」というのが、「延養寺」から来る道にぶつかって止まっています。

昭和九年(1934)の地図では、「南堀通」が真っ直ぐ「光明寺」まで延びています。

この直線が、ちょうど高崎城南側の「遠構え」、つまり「南堀」なのです。

まだ「遠構え」の堀が残っていた頃、中山道と交差する堀に「寿橋」という、幅一丈八寸(約3.27m)長さ九尺五寸(約2.88m)ほどの石橋が架かっていたそうです。
明治六年(1873)新(あら)町の篤志家・岡田孫六が架け替えたもので、その時91歳の孫六と、その子源平等三組の夫婦で渡り初めをしたので、「寿橋」と名付けたのだとか。
そういえば、新町源平が営んでいた高級料亭「岡源」も、今は昔の物語となりました。

新田町(しんでんまち)以南の中山道が拡幅され、「観音通り」も拡幅されて聖石橋までスム-ズなラインになったのは、昭和四十年(1965)頃のようです。

その代わりに、「南の遠構え」のラインはちょん切れてしまいましたが・・・。

さて次回はちょっぴり遠回りになりますが、左の道を選んで「愛宕神社」へ行ってみるとしましょうか。


【矢島町交差点】

【寿橋のあった辺り】






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この記事へのコメント
町名や橋の名前にも、ちゃんとしたいわれがあるのは面白いですね。
いにしえの高崎を知らない者には、町名の読み方も濁点があるなしで、随分印象が違ってきます。
現在の都会的な高崎からは想像できない町が存在していたのですね^^。
Posted by 風子風子  at 2014年09月16日 09:23
>風子さん

そうなんです。
地名というのは、みんな意味があるんですよね。
だから、安易にひらがな表記してはいけないと思います。
できれば、大字小字も復活させたいところです。
そうすれば、その土地の特性や歴史も分かるようになりますからね。
災害防止にも役立つんじゃないでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月16日 20:21
鶴見小路に大師小路など、ほとんどの路地に名称があったことを初めて知りました。
江戸の切絵図にも「小路」の名前が見受けられますので、城下町時代から続く名称なのでしょうか?

いずれにしても現在失われてしまった歴史遺産として記録に残して欲しいですね。


最近、どこかの電柱で「広小路線」という銘板を見たような気がするのですが、過去にあった通りの名前が送電線の名前に引き継がれていたものだったと判りました。
Posted by ふれあい街歩き  at 2014年09月17日 18:08
>ふれあい街歩きさん

面白い地図だと思います。
全ての道に名前が付けられてますよね。
その名前で、歴史が分かるというのがいいです。

電柱とかバス停の呼び名には、けっこう昔の小字とか、ここに何があったかというのが分かったりするのがありますね。
これも面白いと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月17日 21:33
こんにちは。昔の地図を見ると、通りにすべて名称がありますね。情緒風情があってとても良いと思います。復活させてくれないかな・・・。

県道マニアの自分としては高崎吉井線の基点が旧中山道である事に注目してしまいます。今は県道71号高崎神流秩父線になって、聖石橋交差点に起点が移りましたが・・・。

岡源懐かしいですね。そして感慨深いです。私の父は幼少時に養子に出されましたが、実の父、つまり私の実の祖父は岡源で板前をしていたそうです。戦時中若くして亡くなったので私は会った事がありませんが、稼ぎの良い人で、生活は豊かだったと言います。

父方の祝言はすべて岡源で行われており、私も何回か行った記憶があります。アルバムを見ると父の膝の上で、料理を神妙な顔つきで見つめている幼い私の姿があります。写真の中の父は今の私くらいの年齢。一昨年亡くなりました。懐かしくもちょっと寂しいです。

岡源といえば、どうしても親戚宅があった檜物町を思い出してしまいます。「アイガー」(こんな屋号だったと記憶しています)という洋菓子屋さんで、メロンのショートケーキを買ってもらうのが楽しみでした。そして中紺屋町の「島田模型」や「イスズ科学教材社」でプラモデルを買ってもらうのも楽しみでした。

余分な事をいろいろ書いてすいません。「岡源」というキーワードから、思い出が次々と飛び出してしまいました・

http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo
Posted by SAC  at 2014年09月18日 08:57
>SACさん

そうでしたか、岡源の板前さんといったら、それは稼ぎがよかったに違いありません!
私が岡源に行けるようになったころには、レストランになっていました。

「アイガー」って聞いたことはありますね、どこだったか思い出せませんが。
「島田模型」と「イスズ化学教材社」は、たぶん私もプラモデルを買いに行ってると思います。
昔のことを思い出すのは、楽しいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月18日 18:17
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