2020年06月28日

史跡看板散歩-194 鳴熊神社

土地勘のない私には説明しにくいのですが、剣崎町小島鉄工所の西300mの所です。

どう見ても、大きな家のアプローチの植え込みなんですが。


そこに、いろいろな石造物が並べられています。


如意輪観音の後方に、「鳴熊神社」という札の掛かったお社があります。


そこに建っている史跡看板を読んでみましょう。

ここには「剣崎小路城」の支城と伝わる単郭の屋敷があったということです。

その屋敷「鳴熊城」の図と、Google Earthの写真を並べてみました。

たしかに、城跡という感じではないですね。

「鳴熊城」について、「新編高崎市史資料編3」にはこう書かれています。
ここは福田氏の城とされているが、福田忠政が永正四年(1507)関東管領上杉顕定の招きに応じて、武蔵国児玉郡福田村から下板鼻鳴熊の地に移り、その子加賀守信義が倉賀野十六騎の筆頭になったと伝えられている。
信義は倉賀野落城後、ここに戻り武田方となり「板鼻陣箕輪先駆相勤め」(上野志)、その功として永禄九年(1566)頃藤塚を与えられて移った。
それまでここを拠点としていたのであろう。」

近くに、本城である「剣崎小路城」の跡があるというので、そちらへも行ってみました。
城跡だという「御嶽山神社」「鳴熊神社」の北東400mほど、群馬八幡-剣崎線添いにあります。


石段を上ると、大きな「御嶽山座王大権現」碑が建っています。




碑の前に説明看板が建っていました。


しかし、「新編高崎市史資料編3」の付図を見ると、「御嶽山神社」「剣崎小路城」とは、まったく違った場所になっています。


そして「剣崎小路城」については、こう書いてあります。
現在完全に消滅し、その場所の推定さえ困難である。
大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。
わざわざ丘の上をやめて平地に構えている点、八幡館とは逆に作戦的配慮の薄い築城と考えられる。(略)
丘を背にした中世館から近世陣屋へ移っていったのであろうか。」

ということで、幻の剣崎古城址巡りでありました。


【鳴熊神社】

【御嶽山神社】

【剣崎小路城跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:59
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2020年06月21日

史跡看板散歩-193 剣崎の宝積寺

県道406号線の剣崎バス停から南へ140mほど入った所に、「宝積寺」(ほうしゃくじ)があります。

西側の門扉は針金でガッチリ閉められています。

南側の表門へ回ってみると、

やはりチェーンと門扉で封鎖され、今流行りのロックダウン状態です。

立ち番をしているお地蔵さまと観音さまに聞いてみると、「史跡看板を読みなさい。」ということでした。

あー、板鼻「称名寺」のご住職が兼務していて、普段は無住のお寺なんですね。
「称名寺」については、グンブロ仲間の風子さんが記事にしてますので、そちらをご覧ください。
  ◇板鼻・七不思議伝説〈3〉♪

これ、山門ではなく鳥居と言うらしいんですが、銅板葺きの立派なものです。


右の柱には、「天台宗寶積寺」、左の柱には何やらいろいろと書かれています。


これがなかなか気になります。
上の方の「吾唯足知」は分かりますが、その上にくっついてるマークは何なんでしょう。
「卍」なのかなぁ。

その下に、文字がたくさん書いてあります。
「世間虚仮」「唯佛是真」聖徳太子の言葉で、「せけんこけ・ゆいぶつぜしん」と読むんだそうです。
意味は、「世間は虚しき仮のもの。唯一仏のみが真実である。」ということです。
いかにも、すべてお見通しの聖徳太子らしい言葉ですが、その実は、「仏教で善い世の中をつくろうと力を尽くしてきたのに、世間は相変わらず対立や戦を繰り返している。」と嘆いた言葉らしいです。

「忘己利他」(もうこ・りた)は、「己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。」という、天台宗開祖・伝教大師(最澄)の言葉だそうです。
「止悪行善」(しあく・ぎょうぜん)は、読んで字の如く「悪いことは止め、善い行いをする。」
「不思不足」は、「思わざれば足らず」ということなのでしょうか、その後に「創意工夫精進努力」と続きます。

ここまで読んでくると自分にはとても無理なことばかりで、相田みつをの言葉を借りれば、「それがなかなかできねぇんだよなぁ。」ってとこですが、その後に書かれている言葉に、少しホッとします。
「明日は明日の風が吹く
 その風を看(み)て
 其の場に最善の努力する」


最後に、「倫理実践」と結んであります。

「宝積寺」、境内には入れませんでしたが、門前の小僧よろしく勉強させて頂きました。


【宝積寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年06月14日

史跡看板散歩-192 藤塚の皇大神宮

「藤塚の浅間神社」から板鼻方面へ約450m、道路から一段低い所に「天照皇大神宮」(てんしょう・こうたいじんぐう)の社があります。


史跡看板は、社のすぐ前に建っています。



社に向かって右に建っているのが「洪水記念之碑」

史跡看板では「洪水祈念・・・」になっていますが、洪水を祈念しちゃいけません。
これはちょっとまずい誤字ですね。

この洪水を小学二年生で体験した吉田良太郎氏の回顧談が、「高崎の散歩道第十集」に載っています。
この年は八月上旬毎日雨模様の天気で、地面が本当に湿っていた。
そのうえ十二日からは豪雨となり、まる一日降り続いた。
そのため十三日の夜明け近く上流に降った雨水を集めた碓氷川は、急激に増水し河原いっぱいに広がったと思う間もなく、堤防を乗り越えた濁流は中山道に押しよせ、道が碓氷川本流のようになって藤塚村を襲ったのであった。
私の家は当時中山道の南側にあったが、この濁流は家々を見るまに呑み込んでしまい、隣のおしんこ屋(米の粉でおしんこを作り、赤黄の色付けをしたお菓子)は見ている間に家人もろとも流されてしまった。
たまたま二階家で当時としては比較的大きい家だった私の家へ近所の人々が助けを求めてやって来た。
増水するにしたがいみんな二階へ避難した。
しかし勢いづいた濁流はみるみる中に床下から畳を持ち上げ、一階の天井近くまで水につかってしまった。
やがて朝明けと共に雨も小やみになり水勢はいくらかやわらいだようだ。
階段口(二階)より村の他五朗さんが深さを測ろうとして竹竿を下へおろした所、途中でつかえて下に行かない。
他五郎さんが『大丈夫だぞ、泥が下にたまってこの家は助かるぞ』とこれを聞き、みんな狂喜するのだった。
時間が過ぎると水もひけたので、二階から下りながら一階天井近くまで埋まった泥の中を、天井に頭をぶつけながらはいまわった。」

そしてその10年後、藤塚村はまたもや洪水に襲われます。
今度は大雨ではなくて、地滑りが原因でした。
そのことを記しているのが、「射水神」碑です。

どんなことが碑に刻まれているのかは、過去記事をご参照ください。 →  ◇藤塚の洪水碑

ところで、「射水神」ってどんな神様なんでしょう。
富山県に射水市という町があり、その隣町の高岡市に「射水神社」というのがあるそうです。
現在「射水神社」の祭神は「ニニギノミコト」ですが、古くは高岡市と氷見市にまたがる「二上山」(ふたがみやま)をご神体とする「二上神」(フタガミノカミ)だったそうです。
その「二上神」を祖神とするのが、「伊弥頭国造」(いみづのくにのみやつこ)という豪族だったと言います。

ということで、どうやら「射水神」という神様はいないようなのです。
ただ、「射水(いみず)」「出ずる水」=「洪水」とも取れますし、字面からは「水を射る」=「水をやっつける」とも取れところから、「水を司る神」として村を洪水から護ってほしいという思いで「射水神」としたのかも知れません。

さて、大正九年(1920)の洪水は、地滑りの土砂が碓氷川を堰き止めたのが原因だった訳ですが、昭和の半ばになって妙な地滑りがこの辺りに起きました。
過去記事でご覧ください。 → ◇隆起した国道18号

「天災は忘れた頃にやってくる」
近頃は、「疫病は忘れたコロナやってくる」と言われているとかいないとか。


【天照皇大神宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2020年06月07日

史跡看板散歩-191 藤塚の浅間神社

国道18号線を挟んで、藤塚「一里塚」「浅間神社」が向きあっています。


今回は、「浅間神社」の方です。



ここからは浅間山が良く見えるので、「あさま神社」かと思いきや、富士山「せんげん神社」です。


Wikipediaには、こんな記述があります。
  「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。
「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。

「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」(コノハナサクヤヒメ)ということで、社殿の中に姫の絵が掛かっています。


なぜ「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」なのかというのも、Wikipediaに書いてあります。
富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。
「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。
また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。」

「浅間神社」のある塚は、もともとが「一里塚」の片方だった訳ですから、塚の上には椋の木が立っていたはずです。
「豊岡誌」によると、藤塚の住人が「富士浅間神社」の神霊を勧請したのは、元禄期だったとあります。
場所も何度か北へ北へと移動して、今の位置になったのは、国道が拡幅された昭和六十三年(1988)のことです。
拡幅前の一里塚と浅間神社の姿が「豊岡誌」に載っていました。


向かい側にある「一里塚」については、過去記事をご覧ください。
   ◇藤塚の一里塚

では、本日はこの辺で。


【藤塚の浅間神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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