2020年05月31日

史跡看板散歩-190 下豊岡の団地稲荷大明神

ここも史跡看板が無かったら、分かりづらい所です。



看板にあるように、昭和三十四年(1959)に造成された豊岡団地に因んで、「団地稲荷大明神」となっています。

この鳥居は平成三十年(2018)に奉納されています。

お社の中には、なるほど「団地稲荷」らしく、お稲荷さんが密集していました。


昔は、「ハケノ山稲荷」とか「原の稲荷」とか呼ばれていたと書いてあります。
境内に、「果之山正一位稲荷大明神」の石碑が建っています。

いつ建てたものなのかなぁ、と思って碑背を見たら、昭和三十八年(1963)でした。

「果」「ハケ」は、崖の端を意味するということで、上空から見てみると確かにそんな感じです。


だったら、そのまま「ハケノ山稲荷」の方がよかったんじゃないでしょうか。

ちょっと物足らなかったので、この近くの「姫宮神社」もご紹介しておきます。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(11)


【団地稲荷大明神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年05月24日

史跡看板散歩-189 中豊岡の毘沙門堂

ここは史跡看板が建ってなかったら、まず分かりません。


うっかり入り込むと、住居侵入罪で捕まりそうな・・・。


その奥に空き地があって、傾きかかったお堂が建っています。



その中に「毘沙門天」(びしゃもんてん)が祀られています。


史跡看板にはいろいろ書かれていますが、この毘沙門天がなぜここに祀られているのかまでは書かれていません。

「施主飯野善左衛門」とあるので、上豊岡茶屋本陣の飯野家が建立したものです。
「寛政九年」ということは、二代目の善左衛門でしょう。

飯野家は、三代にわたって掛屋・御用達役を務めた名家です。
「新編高崎市史通史編3」に、次のような記載があります。
飯野家の由緒書によると、寛保元年(1741)善次郎が御城方御材木御用・御払米御用役となり、宝暦四年(1754)から十人扶持・御用之節帯刀御免となり、御領分御米御用役に任命されている。(略)
飯野善次郎は、その後、平日帯刀御免、並代官格、中小姓加扶持十人扶持、御勝手御用役などを経て、宝暦十三年(1763)には江戸表で郡奉行席となり新知二百石、以後、元締御用役勤めの武家として城内に居屋敷が与えられた。
これにより、善次郎の弟善左衛門が上豊岡村の飯野家を受け継ぐと同時に、藩から御用達・御払米世話役を命ぜられ、安永六年(1777)に名字御免、同八年に三人扶持・帯刀御免、天明三年(1783)十一月から地役人上席に任ぜられたのである。
寛政四年(1792)二月、善左衛門の跡を継いだ二代善左衛門も御用達として三人扶持であったが、同十年九月に御掛屋・御用達を命じられ、以後、飯野家は嘉永三年(1850)九月まで三代にわたり掛屋・御用達役を務めた。」

いつの世も、権力と財力は、持ちつ持たれつなんですなぁ。
藩にとって飯野家は「余人をもって代えがたい」存在だったのでしょう。


【毘沙門堂史跡看板】


  


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2020年05月17日

史跡看板散歩-188 上台の地蔵堂

「血書理趣分塔」のある「下台公民館」から北へ、道なりに450mほど行くと、「上台公民館」があります。


史跡看板が、桜の木の下に建っています。


今は公民館となっていますが、ここに「常安寺」七世住職が建てたという「地蔵堂」があった訳ですね。
現在は、公民館の建屋の中に地蔵尊が祀られているようです。


「豊岡・八幡の民俗」には、上台の地蔵祭について、こんな記載があります。
子供達は一人で一個、大きい子は二個のあんどんを作る。
公民館の庭の桜の木にひもを張って、あんどんを吊り下げる。
三時頃、六時頃、八時頃の三回、庭で花火を上げる。(子供用花火を大人があげてやる)。
午後五時から常安寺の和尚さんにお経をあげてもらい、その後大人の代表が線香をあげる。
次に子供の世話役があげ、お経の間、二列に並んで待っていた子供達が一人一人線香をあげる。
子供達に、赤飯、西瓜、ジュースを与え食べさせる。
お母さん方が七~八人と男の世話役で面倒を見る。
子供達は小学生だけである。」

この日は、子どもたちがお客様なんですね。

そういえば、お地蔵さまの前で遊ぶ子どもの姿というのは、ほのぼのとした農村の原風景です。
「地蔵菩薩」のことを、サンスクリット語で「クシティガルバ」と言うそうで、「クシティ」「大地」「ガルバ」「胎内」とか「子宮」のことだそうです。

なるほど、「大地」という「子宮」「蔵」するから「地蔵」か。
だから、子どもの守り仏なんですね。

お地蔵さま、子どもたちをよろしくお願いいたします。(合掌)


【上台の地蔵堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年05月13日

隠居の控帳 緊急事態の空気

3月19日の「隠居の控帳」に、こう書いた。
「国民を『緊急事態』という言葉に慣れさせておき、『緊急事態条項を憲法に入れても問題ないんだよ、むしろ入れておかないと今回のコロナのように大変なことになるよ。』という空気をつくろうとしているからだろう。」と。

専修大の山田健太教授も懸念している。


だがしかし、というか案の定、世間の「空気」は、心配していた方向に向かいつつあるようだ。


この、「空気」という奴、なかなかに手強い。

「100分deメディア論」より

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、「今回のコロナは民主主義への挑戦だ。」と語っている。
「ETV特集 パンデミックが変える世界」より

メディアは、国民は、政府を監視できているか。
「臨在感的」本当は無いのに、あるように感じてしまうこと。)なものによる「空気」に支配されようとしていないか。


  


Posted by 迷道院高崎at 17:08
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2020年05月10日

史跡看板散歩-187 下台薬師堂の血書理趣分塔

「中豊岡の道しるべ」が建っていたであろう辻から北へ200mほど行くと、「お堂踏切」という面白い名前の踏切があります。

それを見たせいか、踏切を渡った左角の建物が何となくお堂っぽく見えてしまいます。

しかしその感覚は間違いではなかったようで。
建物には「下台公民館」という看板が掛かっていますが、そこにある石碑には「薬師堂」云々と刻まれています。
もとは「薬師堂」だったのでしょう。

よく見ると、前庭に香炉と花立てが備わっていました。

公民館の裏と左側は墓地になっていて、道路に面して史跡看板が建っています。


ちょっとケアレスミスの多い看板です。
パソコンの誤変換と、漢字を出す時の読みがそのまま振り仮名になってるのに、気付かなかったのでしょう。

看板の後ろにいくつかの石造物が建っていますが、その内の一つが「血書理趣分塔」です。


調べてみると「理趣経」というのは3000字以上あります。
「血書」とは言うものの、その全文を血で書いたら、行人塚に入る前に失血死しちゃいそうです。
墨に血を混ぜて書いたものも「血書」と言うらしいですから、きっとそれなんでしょう。

看板の文面からすると、その「血書」は残ってないようで、きっと、僧が入定する時、携えていったのでしょう。
そして、その代わりに建てたのが「血書理趣分塔」なのかも知れません。

看板に載っているこの写真、何の説明もないんですが。

薬師堂のご本尊である「薬師像」らしいです。

高崎市教育委員会発行の「豊岡・八幡の民俗」に、こんな記載があります。
下台の薬師
目の神様である。
十月十三日が縁日で、「おさご」「おさいせん」を進ぜる。
お堂の扉に「め、め」と半紙に書いて貼る。
以前は木彫りの薬師像があったが盗まれてしまった。
現在は石仏である。」

きっと薬師様は「めっ!」と叱ったのでしょうが、盗人猛々しいとはよく言ったものです。


【血書理趣分塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2020年05月03日

史跡看板散歩-186 中豊岡の道しるべ

あれ?
無くなってる!


8年前、ここに転がってたんだけどなぁ。

これ、「高崎最古の道しるべ」というものなんです。
史跡看板が建ったというんで来てみたんですが。
あれぇ?

あーっ、あったあった、ありました!
ずーっと奥の塀の陰の畑の畔に。

気付くかなぁ、これ。



看板の冒頭、「この場所は」って書いてありますが、文末には「現在は道路改修に伴い、ここに移されています。」と書いてあります。
じゃ、「ここ」「この場所」じゃないってことですよね。

看板の文面から、元あった場所を推定してみました。


なぜ、元あった場所に建てられなかったのかなぁ。
スペースは充分あるように思いますがねぇ。


ま、でも、無造作に転がっていたのをきちんと起こして、史跡看板まで建てて頂き、8年前の望みは叶いました。
ありがとうございます。

「向 右野道 前中仙道 後下台 左中仙道 通」
転がってた時には隠れてた面の文字も、見えるようになりました。
「右 室田 者(は)るな 神山 ??? 道」
ただ、最後が読めません。
「三之くら」「西よくら」

うーん・・・。


【中豊岡の道しるべ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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