2020年07月26日

史跡看板散歩-198 若田ヶ原古戦場と若田八幡宮

「八幡霊園」の南、「若田町住民センター」の駐車場に、「若田ヶ原古戦場」の史跡看板が建っています。



「若田原台地」「若田支台」とも呼ばれ、「剣崎支台」「八幡支台」とともに烏川碓氷川に挟まれた台地です。


「若田ヶ原合戦」の際、武田信玄が本陣を置いたというのが、前回の「福泉寺」でした。
寺の周辺を土地の人々は「乱闘場」と呼んでいるということでしたが、ここ「若田ヶ原」もまさに「乱闘場」だったのでしょう。
現在その一角に「八幡霊園」が造成されているというのも、何か因縁を感じさせます。

ブランコの向こうに、もうひとつ史跡看板が見えます。




看板の最後に、「弁慶が書いたと言われる額が、八幡宮参道の大鳥居に掲げられていると言います。」と、妙な言い回しで書かれていますが、実はその額は掲げられていません。


8年前は、たしかに掲げられていたんです。→◇伝者繁栄


どうしちゃったんでしょう。
「八幡八幡宮」にお聞きしたら、平成二十八年(2016)の鳥居改修の時に外し、八幡宮で保管しているとのことです。

レプリカでも掲げておけばいいのになぁ。


【若田ヶ原古戦場跡史跡看板】


  


2020年07月19日

史跡看板散歩-197 鼻高小学校跡

「鼻高天満宮」から「鼻高展望花の丘」方面へ440mほど坂を上り、細い道を左へ入って100mほど行くと、「福泉寺」があります。


「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。


入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。


境内に入ってまず驚くのは、これです。


草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。

ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。

この平屋建ての建物が本堂でした。

写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。

冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。

「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)

「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
そういえば各寺の墓地の整理はまたすさまじい。
無縁の石塔は墓地のすみにコンクリートで固められ、またある寺ではゴミ捨て場にという所もあるという。
福泉寺の住職は、こうした無縁の墓を粗末にするのは、人間を生き埋めにするに等しい。
ただの石ではない。その時の念がこもっているのだ。
こうして無縁の石塔を集めれば、自然と有縁の霊が集まると住職はさわやかに話してくれた。」
それで、このように一基一基大切に建てられて供養されていたのですね。
感動です。

この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。

二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。

幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。


供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。


内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
中鼻高の福泉寺の東は内出と呼ばれています。
内出とは中心城から派出された出城のことです。
ここは永禄九年(1566)九月、武田信玄が箕輪城攻撃の最後の野戦、若田ヶ原の合戦のとき、甲州軍の本陣を置いた所といいます。
また福泉寺の前の平は乱闘場といって、上杉武田両軍の合戦のあった所だといわれています。
昭和の初め、ここを開墾していて四、五体の戦国時代の人骨が掘り出されました。
その後も牛蒡を作っていて人骨が出たり、梨畑を掘って討ち死にしたらしい人骨が出たりしました。
骨を掘りだした人は良くない事が続くなどといわれ、最近はさまよい歩く戦国の亡霊を見た、などとささやかれるようになりました。(略)
再建なった福泉寺の周囲を戦国の亡霊がさまよう噂が広まって、テレビにも放映されました。
橋本師は、乱闘場に四百年も冥ることの出来ない戦国の武士の霊を鎮めるため、五輪の供養塔を建てました。昭和五十六年五月のことです。
以来亡魂の噂は聞かれなくなったといいます。」

境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。

お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。




【福泉寺】


  


2020年07月12日

史跡看板散歩-196 鼻高天満宮

少林山通りを安中方面へ行くと、「鼻高展望花の丘」へ別れる信号があります。
その角にあるのが、「鼻高天満宮」です。


さすが天神様を祀る「天満宮」
石段の途中に梅の種が・・・。


あれ、史跡看板、ここ?!

みなさん、分かりました?左側の植え込みの陰です。

これじゃ、読めないじゃありませんか。


枝を手で掻き寄せ、苦労して写真に収めました。


「天満宮」「菅原道真」については、社殿の横っ腹に詳しい説明板が掛っています。
難しい漢字には仮名が振ってあって、親切です。


社殿の後ろへ回ると、「飛梅」ならぬ「落梅」がいっぱい。
熟した実の、いい香りが漂っています。


境内には「鼻高の石造物」という看板、そして立派な「地蔵和讃碑」が建っています。



碑の隣には、沢山のお地蔵様が捉えられて檻の中に入れられています。


銘版の文字が小さくてちょっと読みにくいので、書き出してみました。
「21世紀 愛と心 結ぶお地蔵さま」
お地蔵さまは地上に現出してあらゆる人々を救護してくださる菩薩様です。
特に子供の守り本尊であります。一心に拝む心がご利益を授けてくださいます。
子供達に「健康と、やさしい心、すなおな心」・・・お地蔵さまはいつもにこにこ見てござる。
お地蔵さまは江戸中期頃碓氷川近くの上川原に建立され、あたりはお米がいっぱい取れ、畔道には花が咲き・・・子供達の遊ぶ声がするのどかな場所でした。
天満宮の近くでは、仲よく、醤油を作り、笑う声が聞こえ・・・その風景をにこにこと・・・お地蔵さまが見守っていてくれました。
しかし、時が流れ子供のころ手を合わせたその場所に行って見たら、お堂も無く、お地蔵さまは土にうもれ首も取れて、そのお姿は大変あわれでした。
そこで私達は修復し鉄のお堂を作り、昭和45年12月末日に長伝寺住職の師にあたる、能登本山総持寺祖院監院黒杉道院老師のもと、上鼻高町内の有志で盛大なる法要を営みました。
その後年月が過ぎ鉄のお堂が古くなったので、ハイレベルな技術でお堂を再建いたしました。歴史あるお地蔵さまに心より手を合わせ、町の発展と子供達の守り本尊として、後世に伝えていきたいと願うものであります。
平成15年7月24日  施主 深堀誠
あぁ、檻じゃなくてお堂だったんですね。
失礼いたしました。

その地蔵堂の右に、石造物がずらっと並んで建っています。

ひときわ大きな庚申塔は、少林山達磨寺九代住職・東嶽和尚の筆だそうです。

小さいながらも、しっかりと鼻高の地を見守ってくれている「鼻高天満宮」でした。




【鼻高天満宮】


  


2020年07月05日

史跡看板散歩-195 大聖護国寺

「八幡八幡宮」の隣にある「大聖護国寺」



昭和五十三年(1978)に再建されたという本堂は、平成二十八年(2016)の開山八百年を機に改修されて、きれいになりました。
平成二十四年(2012)に撮影した写真に、改修前の本堂が写っていました。


平成二十九年(2017)には客殿、令和元年(2019)には阿弥陀堂書院も建立されました。


史跡看板に、「大聖護国寺」と徳川五代将軍・綱吉の母・桂昌院との関係が書いてありますが、この桂昌院という女性、なかなか興味深い人物です。
寛永四年(1627)の生まれで名前は光子、父親は京都の八百屋だという説があります。
その父が亡くなった後、母は賄い奉公先の本庄宗正と再婚します。
本庄宗正が二条家の家臣だったことからか、光子は六条家のお万の方の輿入れに同行し、江戸城奥勤めになります。
後に春日局の目に止まって、秋野という名前で将軍付き中臈に取り立てられます。
そこで将軍・家光のお手がついて、側室・お玉の方となります。
「玉の輿」という言葉は、ここからきているんだそうで。

そして将軍のお種を宿し、無事男子を授かりたいと、以前から帰依していた「大聖護国寺」二十四世住職・亮賢僧正の祈祷を受けます。
亮賢僧正「将来、天下を取る男子が生まれる。」という予言通り、正保三年(1646)男子・徳松(後の綱吉)を産み、ついには将軍の母・桂昌院にまで上り詰めるという訳です。

この亮賢僧正は、「大聖護国寺」へ来る前は小野小町伝説のある富岡「得成寺」(とくしょうじ)の住職だったということで、同じような話「得成寺」にも伝わっています。

「大聖護国寺」の参道左側、「阿弥陀堂」の横に、徳川綱吉、桂昌院、亮賢僧正の供養塔が並んで建っています。



本堂には、亮賢僧正像の後ろに、桂昌院が寄贈した本尊・不動明王像三十六童子像が祀られています。


三十六童子像は今も修復作業中で、昨年の12月1日~6日の間、その工程が客殿に展示されていました。


その時は、仏師の方々の作業風景も見学することができ、大変感動いたしました。


その外、いろいろお伝えしたいことはあるのですが、あまりにも長くなりそうなのでこの辺に留めておきましょう。
「大聖護国寺」さんのHPが大変すばらしい出来栄えで、沢山の写真・資料も惜しみなく公開されていますので、どうぞそちらをご覧ください。

ところで、昔から参道にあるこの木、面白いんですよね。


伽羅の幹の虚に、楓がちゃっかり根を張って生きてるんです。

これも一つの「玉の輿」・・・?

そして、もうひとつ面白いものを見つけました。
「大聖護国寺」の門前から隣の「八幡八幡宮」境内に続く小道の途中、高台に建ってる大きな石碑。
どこかで見たような・・・。




前回の記事で、「剣崎小路城」跡だという「御嶽山神社」に建っていた石碑とそっくりじゃないですか。

そう言えば「新編高崎市史資料編3」に、「剣崎小路城」「大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。」と書いてありました。
そっくりな二つの「御嶽山座主大権現碑」は、そのことと関係あるのでしょうか。

「剣崎小路城跡」の推定地から、「大聖護国寺」方向を遠望してみました。


道祖神と庚申塔が、疫病の侵入を見張っているようでした。


【大聖護国寺】

【剣崎小路城跡】