2010年07月16日

三国街道 めぐり会い

高崎市歴史民俗資料館「企画展 三国街道と宿場」の講演会、2回とも聴講してきました。
三国街道 めぐり会い

とにかく、参加者の多いことに驚きます。
定員60人のところに、予約もせずにいきなり来る方もいて、会場は大賑わいでした。
歴史好きな人というのは、結構いるもんですね。

この企画展では、いろいろな方とのめぐり会いがありました。
高崎市史編纂委員の中村茂先生とのめぐり会いは、「山梨で出会った高崎の宝」で書きましたが、他にもこんな方とのめぐり会いがありました。

講演会後、展示写真を見ていると、「これ、私の父が撮った写真です。」と仰ってる方がいます。
見ると、この方の顔には見憶えがありました。
「もしかして、伊藤さんですか?」と聞くと、びっくりした顔をされていました。
ご本人は気付かなかったようですが、実はこの方の奥さんとお子さんにも面識があるんです。

撮影者名は掲示されてませんでしたが、高崎の昔の写真というと必ず出てくる、伊藤富太郎さんの写真だったのです。
まさかこの方のご家族だったとは、今日の今日まで知りませんでした。
世の中には、不思議なご縁があるもんです。

また、こんなめぐり会いもありました。
展示物の「諸業高名録」の版木を見ていると、矢島館長さんが来られて「迷道院さん、天田さんに会われましたか?」と仰います。
館長さんの取り持ちで、電話でお話ししたことはあったので、
「今日お見えになるとはお聞きしてますが、まだお会いしてません。」と言うと、すぐ引き合わせて頂きました。

天田さんとは、「諸業高名録」の作者・天田倉蔵氏のご子孫の方です。
天田倉蔵氏については、旧三国街道 さ迷い道中記(16)をご参照ください。
三国街道 めぐり会い

天田さんには、号外!「企画展 三国街道と宿場」の記事にも、コメントを頂いています。

天田さんのお宅には、明治初期に払い下げられた、高崎城築地塀(ついじべい)が残っています。
三国街道 めぐり会い
塀本体は、移築時に改築されたと思われますが、屋根の瓦は高崎城に使われていた本物です。

その瓦の特徴は、波型でなく平らであることで、非常に珍しいものだそうです。
三国街道 めぐり会い

城址公園「乾櫓」(いぬいやぐら)が復元されていますが、そこにある築地塀は、天田さんのお宅に残る築地塀に倣って復元されたものです。
三国街道 めぐり会い
三国街道 めぐり会い

以前、「民家に残る高崎城」で、払い下げになった高崎城の遺構の数々を紹介しましたが、今回、またひとつの遺構にめぐり会いました。

ますます、高崎城を復元したい気持ちが強まります。

【天田家築地塀】





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Posted by 迷道院高崎 at 06:51
Comments(6)三国街道
この記事へのコメント
先日は、お疲れさまでした!
お話できまして大変ありがたく思っております。

すみません!!
うっかり記憶違いしておりました。
高崎城址公園の瓦は下滝町の天田季近さんというお方のものを、そのまま移されたのだったのですね!
うちのは瓦ではなく、うちの塀を真似しただけなんですね。まだ実際に立て看板を見ていませんでしたので間違って記憶するところでした。お写真掲載ありがとうございます。

どこかで、瓦を焼いたという話も聞いた記憶があったのですが、違う話みたいです。すみませんでした。

「下滝町の天田季近さん」
実は、うちは江戸時代の初期に下滝町から金古町に移り住んだと云われています。苗字も同じ天田なので凄く気になります。機会があったら調べてみます。
瓦をそのまま寄贈されて訳ですから太っ腹な方だったのでしょうね。何か色々と繋がりが増えそうな予感がしまして、楽しみになって来ました。


うちの塀の写真の掲載もありがとうございます。あまりにも汚い塀なので皆さんにお見せ出来るような代物ではなく誠にお恥ずかしい限りなのですが、お写真の腕前のおかげで、立派に見れる映像になっていまして大変感謝しております。


文書館の岡田昭二先生のお話は、地元の人間にとりまして大変興味深いお話でした。
玉村から利根川の西側を通るルートのことはあまり知らなかったのですが、そちらのルートが盛んであったという事実は金古近辺からの江戸時代初期の資料が少ないことから大変納得させられます。金古ルートが盛んになるのは、旅人などが往来するようになった経済状態の良くなった江戸の中期から後期なのでしょう。
物資などの輸送には便の良い玉村からの利根川沿いルート、旅を楽しむのなら高崎田町を通って金古ルート、だったのではないかと勝手に想像しています。


実はあの後、姉夫婦らと渋川の落合簗に鮎を食べに行ったのですが、その帰り道に利根川沿いルートを捜してみました。八木原町~高井町までは当時の面影を偲ばせる道幅狭い街道が続いておりました。整備はされていない道でしたが、しっかりと地域の生活を感じさせるものがありました。のどかな街道でした。


それにしても、沢山の参加者には驚かされました。興味を持たれている方、多いのですね!
講演終了前に館長さんより
「諸業高名録の版木の提供者ということで皆さんにご紹介しましょう!」
と言われましたが、人数の多さにビックリしていましたので恥かしくなり丁重にお断り致しました(笑)。



長々と失礼致しました。
またの機会にも宜しくお願い致します。
本当にありがとうございました。
Posted by あまちゃん  at 2010年07月16日 17:23
>あまちゃん様

先日は、お会いできてよかったです!
しかも、ご家族の方にまで。

講演も面白かったですね。
佐渡奉行街道を辿って帰られたのですか。
私もいつか辿ってみたいとは思っているのですが。

文化財の保存については、個人の方の努力に頼っていては、なかなか難しいと思います。
実は今日も、昭和初期の風情ある建物を見せて頂いたのですが、お話を伺えば伺うほど、残すことの難しさを知りました。

何とかしたいことばかりですが、先立つものが何ともなりません。
自分がアラブの大富豪だったらなぁ、なんて思ってます(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月16日 21:09
そうだったんですか。迷道院様、金古の高信の隣の所を入っていった所の天田様の重厚な塀は私も以前から代官所の大門と共に気になってましたが、高崎城から移築されたものだったとは、初めて知りました。これで愛犬と共にお散歩の楽しみが増えました。今度じっくり拝見させてもらいます。
しかし迷道院様、本ブログはつくずく不勉強な私にとって地元の身近な歴史の再発見につながる事を痛感しますなあ。誠にありがたい事です。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年07月17日 05:21
高崎市歴史民俗資料館の「企画展 三国街道と宿場」の講演会、
街道について知りたいので行きたかったのですが・・・。

いろいろなめぐり会いがあって、よかったですね。
お陰さまで、私も多くの方や物事や史跡と不思議なめぐり会いができ、
ありがたい毎日です^^。
Posted by 風子風子  at 2010年07月17日 06:04
>柏木沢の農家おじさん様

そう言って頂けると、浅薄なこのブログもやりがいが生まれてきます。
先人の業績や、研究者の業績をただ中間で伝言してるだけなので、本当は恥ずかしい限りなんですが・・・。

それにしても、文化財の保存は難しい問題です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月17日 06:57
>風子さん

風子さんの板鼻歴史散歩も、すごいです!
知らないことばかりで、毎回ワクワクしながら拝見しています。

めぐり会い、本当に不思議ですよね。
昨日も、またまた不思議なめぐり会いがありましてね。
そのめぐり会いから、また次のめぐり会いが始まりそうなんです。
本来、人見知りの私には、少し恐いくらいなんですが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月17日 07:05
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