2010年04月09日

三国街道 帰り道(最終回)

三国街道 帰り道(最終回)前回予告した、これが「熊の墓」です。

本当なのかな?と思うのですが、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」には、こんな話が載っています。
講談調の全文を転載しますので、お楽しみ下さい。

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「熊の墓」

明治三年といえばまだまだ江戸時代の余風に生きていた頃のこと。
八月の残暑時分、村のある若衆が、朝草刈りに薄暗いうちから出かけて寺の前にかかると、引いていた馬がしきりに尻込みするので、ハテナと思ったトタン、寺の大門の草原に、真黒い大きなものがノソリノソリ。

あっだとふるえ出したが、ここぞとばかり大声あげて、「オーイ来てくれ熊だよー、皆出て来いよー」とわめき立てたから、来るわ来るわ、思い思いに村中の武器を尽くして集まって来て、たちまち包囲攻撃。

のヤッコさん、初めは人間と遊ぶつもりだったらしいが、今や全く死物狂い。
あっちへ飛びこっちへ走り、その度に包囲の一部がワッと崩れる。

でもなにしろ大勢のこと、だんだんと囲みをしぼって来るから、さすがの大熊も絶対絶命。
寺と雑木林との境の用水堀を一っ飛びして、井野川の藪に活路を求めようとした処を「ヤァヤァ我こそは・・・・・・」と名のりもかけずに紫電一閃、さっと背中に切りつけたのが、下仁田戦争生残りの勇士須藤善二郎藤原の某。
腕に覚えの長刀を、佐々木小次郎の物干竿よろしくに、下からさっとなぎ上げた。

この時遅くかの時速く、振り向きざまに後肢で立ち上がった大熊が、おうっと一声叫ぶや否や、善二郎の面部へ一撃して来た。

おのれという間もあらばこそ、さしもの勇士が眼の下からあごへかけて大きくかき裂かれ、パカリと開いた傷口から血を吹く肉片がぶらさがった処へ、エイとばかりに突出した味方の手槍が、確かに手答えあったと思うも道理、にひらりとかわされて、戦友善二郎の片ももをしたたかに縫ってしまった。
下仁田の勇士もこの日はさんざん。

どうやらこうやらで仕留めたを筵の上へころがして、一同大汗をふきながら見れば、頭と尻が筵からはみ出していたというから、もっていかに大物だったかが想像される。

でものひっかき傷は治し易いものらしく、善二郎の大怪我もあごが長く垂れ下がったままで癒着してしまい、それから以後、この勇士には村民から「あぐぜん」という愛称を奉って、狩りの殊勲に報いたという。

先玉尊霊碑はその遺跡に、明治三年八月二十八日を記念して、村の若者連中が建てたので、今でも遺骨が埋まっているはず。
皮と肉とはその当時よろしく処分されたこともちろんである。
(「中川村誌」逸話-本多夏彦氏執筆)

「先玉尊霊」碑は大八木町妙音寺本堂前、勝軍地蔵の左手、一メートル足らずの河原石で、これが熊の墓である。

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ところで、どなたか「先玉尊霊」が何故「熊の墓」を表すのか、ご存知でしたらご教授ください。

それまでは、素人探偵・迷道院が、例によっていーかんべんな思い込み推理をさせて頂きます。

思うに、「先「先なのではないかと。
「先王」とは、文字通り「先の王」「先代の王」のことですので、特定の誰かを指すものではありませんが、日本書紀の一部にこんな件りがあります。

「百済王使久氐弥州流莫古令朝貢時新羅国調使与久氐共詣於
 是皇太后太子誉田別尊大歓喜之曰先王所望国人今来朝」

テキトーな意訳をしてみると、こんな感じでしょうか。
百済と新羅から朝貢の使者が来た。
これを皇太后(神功皇后)と太子の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、
先王(仲哀天皇)が望んでいた国の人が、今来朝した。」と言って、大変喜んだ。


と、ここでは仲哀天皇のことを「先王」と呼んでいます。
この仲哀天皇は、妻の神功皇后と一緒に熊襲(くまそ)討伐をしようとした人ですが、志半ばで急死してしまうのです。
一説には、熊襲の放った矢に当ったとも言われます。

さあ、「熊襲」「先王」「熊の墓」「先玉尊霊」、何だか、似た取り合わせじゃありませんか?
昔の人は、現代人が考えるより遥かに教養豊かだったようですから、「日本書紀」のこの話もよく知っていたのではないでしょうか。

ただ、変ですよね。「先王」「熊」じゃないんですから。
「熊の墓」に、「先玉尊霊」と刻むのは変です。

もしかしたら、この下に眠っているのはじゃないんじゃないか。
言い伝えでは、須藤善二郎は命を取り留めたことになっていますが、もしかしたら無念の死を遂げていたんじゃないか。
それを、熊襲討伐を前に無念の死を遂げた「先王」(仲哀天皇)になぞらえて、「先玉尊霊」としたんじゃないか。
そんな風に推理したのですが、穿ち過ぎでしょうか?

さてさて、「三国街道 帰り道」シリーズは、ここまでと致します。
お付き合い頂き、ありがとうございました。

【熊の墓】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:38
Comments(8)三国街道
この記事へのコメント
「先玉尊霊」・・・初めて見る碑名です。
先玉では辞書にも出ていませんね。尊霊は「霊魂または亡魂を敬っていう語」という解説がありましたが・・・なぜ、熊のお墓が先玉尊霊なのか、、、う~ん、わからない、難しいデス。

でも、いろいろ考えることが脳の活性化につながるそうなので、まぁ、いろいろ考えましょう。帰り道シリーズ(完)、ご苦労さまでした^^。
Posted by 風子  at 2010年04月09日 19:47
推理は、たくさんある仮説のひとつでしょうが、その中の一つを、こんな話にしてくれる迷道院さんに、脱帽
Posted by キューピー  at 2010年04月09日 20:46
>風子さん

一緒に悩んで頂いて、ありがとうございます。
伝説は、伝説のまま楽しめばいいんでしょうけどね(^^)
Posted by 迷道院高崎  at 2010年04月09日 21:43
>キューピーさん

いや、お恥ずかしい^_^;

キューピーさんの絵のように、空間を楽しめるお話ができるようになりたいと思います。
Posted by 迷道院高崎  at 2010年04月09日 21:51
三国街道往復シリーズお疲れ様でした。

土地勘がなく、コメントできませんでしたが、
もう一度、読み直したいです。 

迷道院さんの記事を、手に大勢の弟子達が、
三国街道を、往ったり来たりしはじめますよ。

伝説が伝説を生むことを、今、考えています。
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年04月10日 04:45
>捨蚕さん

勿体ないお言葉、ありがとうございます!
私も、きっかけは「高崎の散歩道」や「高崎漫歩」「徐徐漂たかさき」という先輩方の本でした。
それらの現代版が発行されると、高崎の観光がまた一つ違った形になるのではないかと思っています。

捨蚕さんのご活躍にも、大いに期待しているところですので、お互いに頑張りましょうね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年04月10日 07:26
迷道院様、碑名の謎も去ることながら私が驚いたのは明治初期に大八木界隈に熊が出没していたという事実です。と言うことはこちら柏木沢、旧相馬村近辺は榛名からの「熊銀座」だったんでしょうね。(笑)
「三国街道シリーズ」お疲れさまでした。
次のシリーズ記事が楽しみです。捨蚕様の言うとおり私など散歩指南とさせて頂いてます。
どうかお体ご自愛の上がんばって下さい。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年04月10日 18:31
>柏木沢の農家おじさん様

「熊銀座」ですかー!
そうだったのかも知れませんよね。
今、榛名に熊っているんでしょうか?
あまり、出たって聞かないですね。

次回からの迷い道も、お付き合い頂けると嬉しいです。
よろしくお願い致します!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年04月10日 20:57
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三国街道 帰り道(最終回)
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