2010年06月30日

山梨で出会った高崎の宝

先日、歴史民俗資料館主催の「三国街道史跡めぐり」の時、参加者の中に、元高崎市史編纂委員の中村茂先生がいらっしゃることに気付きました。

中村先生には、昨年「高崎五万石騒動史跡めぐり」がご縁で、拙ブログにコメントを頂いたこともあります。
そのコメントの中で、九蔵町大雲寺に、武田信玄の軍師として有名な山本勘助の子孫のお墓があると教えて頂き、「号外!高崎に住んでた山本勘助」という記事を書かせて頂きました。

山梨で出会った高崎の宝そんな話を先生にしていたら、カバンの中から
←このチラシを出して見せてくれました。

今、山梨県立博物館山本菅助の企画展をやっているというのです。

山本菅助と言えば武田信玄武田信玄と言えば甲州山梨ですから、少しも不思議はないのですが、企画展のタイトルが「実在した・・・」となると、大いに気になります。
実在をほぼ決定づけたのは、安中で発見された真下家文書です。
そのことを、山梨ではどのように扱っているのか、大いに気になるところです。
で、行ってきました。

面白かったのは、受付で「JAFの割引はききますか?」と聞くと、
「JAF割引はないんですが、山梨県内のホテルや旅館に宿泊すると割引になります。」と言うんです。
それじゃ、ということで領収書を見せて100円割り引いて頂きました。
粋な計らいだと思いますよね。
高崎も、取り入れたらどうでしょう。

山梨で出会った高崎の宝館内は撮影禁止なので、入口のパネルディスプレイだけご覧ください。
展示の一部は、博物館のHPでご覧いただけます。

山本勘助が架空の人物とされてしまった経緯、それが近年になって一転、実在の人物とされるまでの経緯が、時系列的に分かりやすく展示されていました。
学芸員の方も、積極的に来館者への説明をされており、とても好感が持てました。

展示資料の中には、安中で発見された古文書、高崎大雲寺にある菅助子孫の墓の写真パネルも展示されており、協力者として中村先生のお名前もありました。

そして、もうひとつ意外な物が紹介されていたのです。
それは、高崎城の構造を記した「高崎城大意(たかさきじょう・たいい)」という書物が、山本菅助と関係のあるものとして展示されていたことです。

五代目菅助である山本十左衛門幸運は、元禄八年(1695)松平輝貞高崎藩に転封されたのに伴って、高崎にやってきます。
このとき十左衛門が、高崎城の構造を詳しく記述し、輝貞に呈したのが「高崎城大意」だと解説されていました。

その高崎では、まだ「高崎城大意」が、山本菅助と関係しているとは、広く知られていないようです。
古城塁研究者の山崎一氏が、昭和四十二年(1967)に校註した「高崎城大意」の中でも、「山本十左衛門は元禄・享保の頃の高崎藩の軍学者」とあるのみです。

高崎藩内では、、五代目菅助・山本十左衛門に甲州流軍学を学び、「高崎城大意」は築城の軍学書として用いられます。
その成果あって、高崎藩には優れた軍学者が生まれることになったようです。
安政元年(1854)蝦夷・松前城の設計をしたのは、高崎藩の軍学者・市川一学であると言われています。

遠い山梨で、知らなかった高崎の宝を再発見しました。
その宝が、地元・高崎でほとんど知られていないことは、実にもったいないと思います。
できれば、山梨県立博物館とのジョイント企画で、群馬県立歴史博物館でも「山本菅助展」が開催できないものでしょうか。

(参考図書:「群馬県立歴史博物館館長講座資料」「群馬県史資料集別巻一 古城史篇」)





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Posted by 迷道院高崎 at 08:38
Comments(10)◆出・たかさき
この記事へのコメント
高崎観光ナントカ・・・・・

チャチがなぁ(笑)。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年06月30日 17:54
>昭和24歳さん

明日オープンだそうですね。
「高崎ぷらっとまち歩きマップ」は期待してるところなんですが。

同窓生のO君も頑張ってるし、観光課の職員さんも頑張ってますから、後押ししましょっ!(^_^)v
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年06月30日 19:48
偶然です!
今日は恥ずかしながら、はじめて高崎シティギャラリーに出掛けて、
その後で城址公園あたりをぐるぐる散歩していて、「高崎城乾櫓の由来」という看板で「高崎城大意」という書物による説明書きを読んできたばかりです!
以前、迷道院さんのブログで読んでいたので、なるほど・・・とスラスラ(^^納得できました。
「山本菅助展」近くでやっていただけたら・・・うれしいですねぇー^^。
Posted by 風子風子  at 2010年06月30日 20:09
>風子さん

風子さんのブログ、見ましたよ!
今日はちょっと暑くて、散歩も大変だったんじゃないですか?
私のブログがお役に立てたとは、嬉しい限りです(^^)

「山本菅助展」、県立博物館の黒田館長もやりたいって仰ってたんですけどね。
まだ、予定として発表されてません。
やって欲しいなー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年06月30日 20:34
「号外!高崎に住んでた山本勘助」を
読んで

黒田館長の
「・・・歴史資料を確保し、残すことが
 歴史研究の最も大切な仕事です。」
と言う言葉を大事にしたいですね。

また、中村先生とのご縁に
「次か治か?」がきっかけになっていたのには
驚きます。
いつか「次か治か?」について
お話できればと思っています。
Posted by いちじん  at 2010年07月01日 15:04
>いちじんさん

そうでした。
この件は、ぜひ、いちじんさんにお聞きしなくてはいけません。

近々お話しできる機会が持てるといいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月01日 18:49
山梨で出会った高崎の宝、遠路ご苦労様でした。
ところで、五代目十左衛門幸運は越後村上で没し、昨年7月に村上満福寺で墓石を見つけました。
山本家文書によると、三代目山本菅助は淀で没し、岩清水八幡宮別当である神応寺に葬られました。慶安2年〔1649〕のことです。すぐにでも京都へ探しに行きたいところですが、遠方でもあるし、江戸初期の墓石が残るのは奇跡に等しいものがあるので躊躇していました。そんな時、某高崎藩士家の史料に、山本家は三代目菅助の200回忌を行い、神応寺へ金300疋を納めたというメモが見つかりました。
200回忌は嘉永2年に当たります。ということは、幕末には三代目菅助の墓石が存在していたのかも・・・。
これはもう行くしかない。虫がうずきます。6月21日(月)、ありました。心祐英琢居士。背面に「本国甲斐、住国山城国淀、山本菅助正幸」と読めます。何という感激。私の身長よりも少し大きい立派な墓でした。
以上、ホヤホヤの情報でした。中村。
Posted by 中村 茂  at 2010年07月02日 13:35
>中村先生

コメントありがとうございます!

山梨は遠いかと思ったら、結構近く感じました。
信玄が遠征してきたことを思えば、何の何のです。

先生の方こそ京都までの追跡、お疲れさまでした。
いつも沈着冷静な先生ですが、三代目菅助の墓を発見した時のお顔、どんなだったのでしょう(^^)

貴重な最新情報、ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月02日 18:43
群馬は武田領国の一部でしたし、「山本菅助」のみならず上野武士や武田遺臣においていろいろ関わりが見いだせそうですね。とっさに思いつきませんが、古代から中世前期、あるいは近世から近現代でも山梨と群馬は関わりが見いだせるのかもしれません。次回は「菅助」のみなら、甲上関係史を通覧するような企画が共催できればよいものです。
Posted by 黒駒  at 2010年07月07日 04:12
>黒駒さん

コメントありがとうございます!

今回の菅助展で、俄かに山梨が身近に感じられるようになりました。
歴史上のつながりを活かして、相互の観光資源として役立てられるといいな、と思いました。

共催企画展、ぜひともやって欲しいですね!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月07日 06:37
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