湯野浜温泉で一泊し、11月6日の鶴岡駅前です。
駅前の大きなモニュメント、「大地」というんだそうです。
見上げていると、いきなり民謡が流れて稲束を担いだ親子の像が回転しだしました。
「あれ?時間ぴったりじゃないのに・・・。」と思ったら、特急「いなほ」の到着時刻になると動くんだとか。
やりますねー。
鶴岡は、歌「雪の降る町を」発祥の地でもあるそうで、作曲した中田喜直が鶴岡の知人を訪ねた時に見た、雪の風景をイメージして曲をつくったんですって。
12月に入ると、「大地」のメロディーも「雪の降る町を」になるようです。
駅の観光案内所で、観光者用の自転車が無料で借りられます。
システムは至って簡便、観光案内所なので散策マップで見所や食事処の案内もしてもらえます。
この自転車に乗っていると、町の人が「こんにちは!」なんて挨拶してくれます。
観光客にしか貸し出さないというのも、いい案かも知れませんね。
わが高崎の「たかちゃり」も、一考の余地ありかも。
「日枝神社」の角に、「市の神」が建っていました。
彫られた文字を見ると最近のもののように見えるので、きっと昔ここに建っていたものを復元したのでしょう。
側溝のコンクリート蓋に、こんな絵が彫られていました。
写真を撮っていたら、通りがかった女性が「これ、そんなに珍しいですか?」と話しかけてきました。
「こういうのに彫られてるのは、初めて見ました。」と答えると、「これ、『いづめこ人形』と『御殿まり』なんですよ。」と説明してくれました。
そして、「これで感動してくれるんだったら、ぜひ清川屋のトイレを見ていって下さい。ぜったい感動しますから。清川屋ですよ、清川屋。」って、くどいくらいに勧めてくれました。
樹齢330年という大ケヤキの下に、小さいながらも立派な屋根を持った社があります。
「復鎮靈社」と書かれた説明板を見ると、徳川家康の長男・信康の霊を祀っているようです。
酒井忠次が織田信長に対してうまく弁護できなかったために、信康を自刃させることになったということらしいのですが、とはいえ、「復鎮靈社」を建てた貞享二年(1685)といえば忠次から数えて五代目の時代、信康自刃から100年以上も経っています。
それでも信康を慰霊しなければならぬという、何かがあったのでしょう。
確かに、それまでの庄内藩主はみな早死にしていますので、それかも知れません。
酒井忠次といえば徳川四天王の一人、わが高崎とも大いに関係があります。
忠次の嫡男・家次は高崎藩二代目の藩主となり、今につながる高崎の城下町を事実上整備した人です。
家次は、高崎へ来る前、家康から下総国臼井藩主に任じられます。
ところが、他の徳川四天王の子はみな10万石を与えられているのに、家次だけは3万7千石しか与えられていません。
その理由が、先の信康自刃の一件だという説があり、高崎へ来た時も5万石でした。
「日枝神社」境内には、芭蕉句碑もあります。
珍らしや
山を出羽の
初なすび
芭蕉さんも、けっこうダジャレ好きみたいです。
「内川」に架かる「大泉橋」に、真っ赤に紅葉したツタウルシがきれいでした。
内川には、「開運橋」、「千歳橋」、「三雪橋」、「鶴園橋」という、個性豊かなデザインの橋が架かっていて、目を楽しませてくれます。
その中で、最も目を引かれたのが真っ赤な欄干の「三雪橋」です。
「三雪橋」というネーミングも素敵ですが、「木橋から永久橋に架け替える時、地元の人々の案で朱塗りにした。」とか、「木橋の橋脚を説明板の支柱にした。」とかって、どうです、「参りました!」ですね。
「三雪橋」のたもとに、「城下町つるおか」と刻まれている立派な説明板があります。
鶴岡市役所です。
歴史を感じさせる重厚な建物で、昔のものを大切に使っていることを感じさせます。
聞いた訳ではないので分かりませんが、税金の使われ方が町づくり優先になっているのかも知れません。
いや、そうあってほしいです。
市役所の前に建つこの碑を見て、そう思いました。
昔の人は、遥か先のことを見通して物事を行っていたんですね。
市役所の真ん前には、庄内藩の藩校「致道館」が、復元され残されています。
藩政の立て直しを目的に、徂徠学を教育したとされます。
この教育が、今日の鶴岡の町づくりにも連綿と生き続けているような、そんな気がしてなりません。
そうそう、忘れていましたが、清川屋のトイレです。
トイレのドアを開けたとたん、青~い光に包まれ、まるで水の中にいるような錯覚をおぼえます。
水槽の中では、可愛いクラゲ(おもちゃ)がプカプカ浮いたり沈んだりしてます。
どうやら、クラゲで有名な「加茂水族館」をイメージしているようですね。
鶴岡の人々、なかなかやります。
町めぐりを終えて鶴岡駅に戻ってくると、待合室にこんなのがありました。
いやー、最後まで感心しっぱなしの山形旅行でした。
長々とお付き合い下さった読者の皆様、ありがとうございました。
次回からは、また観音山に戻ります。
駅前の大きなモニュメント、「大地」というんだそうです。
見上げていると、いきなり民謡が流れて稲束を担いだ親子の像が回転しだしました。
「あれ?時間ぴったりじゃないのに・・・。」と思ったら、特急「いなほ」の到着時刻になると動くんだとか。
やりますねー。
鶴岡は、歌「雪の降る町を」発祥の地でもあるそうで、作曲した中田喜直が鶴岡の知人を訪ねた時に見た、雪の風景をイメージして曲をつくったんですって。
12月に入ると、「大地」のメロディーも「雪の降る町を」になるようです。
駅の観光案内所で、観光者用の自転車が無料で借りられます。
システムは至って簡便、観光案内所なので散策マップで見所や食事処の案内もしてもらえます。
この自転車に乗っていると、町の人が「こんにちは!」なんて挨拶してくれます。
観光客にしか貸し出さないというのも、いい案かも知れませんね。
わが高崎の「たかちゃり」も、一考の余地ありかも。
「日枝神社」の角に、「市の神」が建っていました。
彫られた文字を見ると最近のもののように見えるので、きっと昔ここに建っていたものを復元したのでしょう。
側溝のコンクリート蓋に、こんな絵が彫られていました。
写真を撮っていたら、通りがかった女性が「これ、そんなに珍しいですか?」と話しかけてきました。
「こういうのに彫られてるのは、初めて見ました。」と答えると、「これ、『いづめこ人形』と『御殿まり』なんですよ。」と説明してくれました。
そして、「これで感動してくれるんだったら、ぜひ清川屋のトイレを見ていって下さい。ぜったい感動しますから。清川屋ですよ、清川屋。」って、くどいくらいに勧めてくれました。
樹齢330年という大ケヤキの下に、小さいながらも立派な屋根を持った社があります。
「復鎮靈社」と書かれた説明板を見ると、徳川家康の長男・信康の霊を祀っているようです。
酒井忠次が織田信長に対してうまく弁護できなかったために、信康を自刃させることになったということらしいのですが、とはいえ、「復鎮靈社」を建てた貞享二年(1685)といえば忠次から数えて五代目の時代、信康自刃から100年以上も経っています。
それでも信康を慰霊しなければならぬという、何かがあったのでしょう。
確かに、それまでの庄内藩主はみな早死にしていますので、それかも知れません。
酒井忠次といえば徳川四天王の一人、わが高崎とも大いに関係があります。
忠次の嫡男・家次は高崎藩二代目の藩主となり、今につながる高崎の城下町を事実上整備した人です。
家次は、高崎へ来る前、家康から下総国臼井藩主に任じられます。
ところが、他の徳川四天王の子はみな10万石を与えられているのに、家次だけは3万7千石しか与えられていません。
その理由が、先の信康自刃の一件だという説があり、高崎へ来た時も5万石でした。
「日枝神社」境内には、芭蕉句碑もあります。
珍らしや
山を出羽の
初なすび
芭蕉さんも、けっこうダジャレ好きみたいです。
「内川」に架かる「大泉橋」に、真っ赤に紅葉したツタウルシがきれいでした。
内川には、「開運橋」、「千歳橋」、「三雪橋」、「鶴園橋」という、個性豊かなデザインの橋が架かっていて、目を楽しませてくれます。
その中で、最も目を引かれたのが真っ赤な欄干の「三雪橋」です。
「三雪橋」というネーミングも素敵ですが、「木橋から永久橋に架け替える時、地元の人々の案で朱塗りにした。」とか、「木橋の橋脚を説明板の支柱にした。」とかって、どうです、「参りました!」ですね。
「三雪橋」のたもとに、「城下町つるおか」と刻まれている立派な説明板があります。
鶴岡市役所です。
歴史を感じさせる重厚な建物で、昔のものを大切に使っていることを感じさせます。
聞いた訳ではないので分かりませんが、税金の使われ方が町づくり優先になっているのかも知れません。
いや、そうあってほしいです。
市役所の前に建つこの碑を見て、そう思いました。
昔の人は、遥か先のことを見通して物事を行っていたんですね。
市役所の真ん前には、庄内藩の藩校「致道館」が、復元され残されています。
藩政の立て直しを目的に、徂徠学を教育したとされます。
この教育が、今日の鶴岡の町づくりにも連綿と生き続けているような、そんな気がしてなりません。
そうそう、忘れていましたが、清川屋のトイレです。
トイレのドアを開けたとたん、青~い光に包まれ、まるで水の中にいるような錯覚をおぼえます。
水槽の中では、可愛いクラゲ(おもちゃ)がプカプカ浮いたり沈んだりしてます。
どうやら、クラゲで有名な「加茂水族館」をイメージしているようですね。
鶴岡の人々、なかなかやります。
町めぐりを終えて鶴岡駅に戻ってくると、待合室にこんなのがありました。
いやー、最後まで感心しっぱなしの山形旅行でした。
長々とお付き合い下さった読者の皆様、ありがとうございました。
次回からは、また観音山に戻ります。