「鶴瓶の家族に乾杯」で見て、いい町だなぁと思いました。
いつか行ってみたいと思っていたのですが、やっと訪ねることができました。
観光客にも無料開放している飛騨市役所の駐車場には、匠の町らしい木造の立派な東屋が建ち、こんなパンフレットの置き方をしています。
市役所のすぐそばにある「飛騨古川まつり会館」へ行きましたが、全景写真を撮り忘れました。
まさに「あとのまつり」。
代わりに、近づくと口を開けながら猛烈な勢いで迫ってくる、お祭り好きでやんちゃそうな池の鯉の写真を・・・。
迫ってくると言えば、「まつり会館」で上映されていた3D映画が、すごかったです。
本当にその場にいるような気分になる、迫力満点の映像でした。
高崎もコンベンションホールに替えて歴史資料館を建設すると決まった際には、ぜひ取り入れて欲しいです。
「まつり会館」の広場から、古川のシンボルともいうべき「瀬戸川」と白壁土蔵街の風景が始まります。
見るからに美しいこの「瀬戸川」、毎年3月と11月に、地域のすべての世帯が参加して一斉清掃が行われるそうです。
「瀬戸川」の由来を刻んだ石板には、「瀬戸川は、四百年の長い間清く豊かな流れの絶えることなく、常に古川町民の生活を支えてきました。」とありますが、戦後の生活様式の変化で、生活排水による汚染が進んだ時期もあったようです。
それを40年ほど前、再びきれいな川にしようと呼びかけをしたのが、地元ローカル新聞「北飛タイムス」でした。
行政や住民に一斉清掃を呼びかけ、寄付を募って放流した230匹の鯉が、今は1000匹を超える数に増えて、訪れる人を楽しませています。
高崎の遠構えの堀も開渠に戻して、鯉でも放したらさぞかし素晴らしいでしょうね。
平成四年(1992)、当時の野村憲一町長は、町予算の半分にあたる24億円を掛けて、「瀬戸川」の改修、「飛騨古川まつり会館」の建設、その周辺広場の整備を行っています。
野村町長は、従来の農業振興・工業誘致という行政方針を、文化の育成を基軸に据えた街おこしへと大転換させた人物です。
その動きの元となったのは、それより遡ること20年前、旧態依然とした古川の商店街に危機感を持った20~30代の若者たちでした。
若者たちは、飛騨古川青年会議所を設立し、最初はなかなか行政や市民からは相手にされなかったようですが、熱い思いで町づくりの活動を続けます。
同じく若返りで変化したのが、古川町観光協会でした。
それまで、どちらかというと観光関連業者の親睦程度の活動であったものを、「商業主義に走らない町づくり、民間レベルで行う町づくり」を標榜し、観光から「まちづくり」に方針を変換して、活動が活発化していきました。
若者たちの活動に弾みをつけたのが、女優の浜美枝さんです。
古川出身ではない浜さんですが、「古川にはふるさとがある。」と言って、何十回もこの町を訪れています。
◇浜美枝ダイアリー『あなたに逢いたくて』古川への旅
その浜さんの力を借りて、昭和五十七年(1982)、「ふるさとに愛と誇りを」という自主映画を作成したのも、当時の青年会議所メンバー村坂有造氏を中心とする若者たちでした。
1980年代20万人だった観光客は、2000年に約63万人に増え、NHKの朝ドラ「さくら」の舞台となった翌年の2003年には、100万人を超えたそうです。
まさに、「町づくりは、若者、ばか者、よそ者」を実証するかのような話です。
長くなって、素敵な町並みの紹介ができなくなりましたので、話は次回につづきます。
いつか行ってみたいと思っていたのですが、やっと訪ねることができました。
観光客にも無料開放している飛騨市役所の駐車場には、匠の町らしい木造の立派な東屋が建ち、こんなパンフレットの置き方をしています。
市役所のすぐそばにある「飛騨古川まつり会館」へ行きましたが、全景写真を撮り忘れました。
まさに「あとのまつり」。
代わりに、近づくと口を開けながら猛烈な勢いで迫ってくる、お祭り好きでやんちゃそうな池の鯉の写真を・・・。
迫ってくると言えば、「まつり会館」で上映されていた3D映画が、すごかったです。
本当にその場にいるような気分になる、迫力満点の映像でした。
高崎もコンベンションホールに替えて歴史資料館を建設すると決まった際には、ぜひ取り入れて欲しいです。
「まつり会館」の広場から、古川のシンボルともいうべき「瀬戸川」と白壁土蔵街の風景が始まります。
見るからに美しいこの「瀬戸川」、毎年3月と11月に、地域のすべての世帯が参加して一斉清掃が行われるそうです。
「瀬戸川」の由来を刻んだ石板には、「瀬戸川は、四百年の長い間清く豊かな流れの絶えることなく、常に古川町民の生活を支えてきました。」とありますが、戦後の生活様式の変化で、生活排水による汚染が進んだ時期もあったようです。
それを40年ほど前、再びきれいな川にしようと呼びかけをしたのが、地元ローカル新聞「北飛タイムス」でした。
行政や住民に一斉清掃を呼びかけ、寄付を募って放流した230匹の鯉が、今は1000匹を超える数に増えて、訪れる人を楽しませています。
高崎の遠構えの堀も開渠に戻して、鯉でも放したらさぞかし素晴らしいでしょうね。
平成四年(1992)、当時の野村憲一町長は、町予算の半分にあたる24億円を掛けて、「瀬戸川」の改修、「飛騨古川まつり会館」の建設、その周辺広場の整備を行っています。
野村町長は、従来の農業振興・工業誘致という行政方針を、文化の育成を基軸に据えた街おこしへと大転換させた人物です。
その動きの元となったのは、それより遡ること20年前、旧態依然とした古川の商店街に危機感を持った20~30代の若者たちでした。
若者たちは、飛騨古川青年会議所を設立し、最初はなかなか行政や市民からは相手にされなかったようですが、熱い思いで町づくりの活動を続けます。
同じく若返りで変化したのが、古川町観光協会でした。
それまで、どちらかというと観光関連業者の親睦程度の活動であったものを、「商業主義に走らない町づくり、民間レベルで行う町づくり」を標榜し、観光から「まちづくり」に方針を変換して、活動が活発化していきました。
若者たちの活動に弾みをつけたのが、女優の浜美枝さんです。
古川出身ではない浜さんですが、「古川にはふるさとがある。」と言って、何十回もこの町を訪れています。
◇浜美枝ダイアリー『あなたに逢いたくて』古川への旅
その浜さんの力を借りて、昭和五十七年(1982)、「ふるさとに愛と誇りを」という自主映画を作成したのも、当時の青年会議所メンバー村坂有造氏を中心とする若者たちでした。
1980年代20万人だった観光客は、2000年に約63万人に増え、NHKの朝ドラ「さくら」の舞台となった翌年の2003年には、100万人を超えたそうです。
まさに、「町づくりは、若者、ばか者、よそ者」を実証するかのような話です。
長くなって、素敵な町並みの紹介ができなくなりましたので、話は次回につづきます。