2013年08月11日

銚子・高崎・英学校(4)

ダラス・リング事件に巻き込まれ、大学南校を免職となった小泉敬二でしたが、彼を迎え入れたのは「高崎藩英学校」でした。

「新編高崎市史」の英学校に関する記述は実にあっさりしたもので、小泉敬二の名も出てきません。

明治三年(1870)八月には高崎藩立の英学校が、静岡藩士作楽戸痴鴬(さらくど・ちおう)を教師として檜物町(ひものちょう)に設立された。藩校文武館とは異なり英語を教授する専門的な藩校である。
なお、この学校は群馬県における初めての英学校であった。
藩士五〇人を選んで生徒とし、藩主大河内輝聲も学んだという。生徒の中には高崎藩士出身で日本を代表するキリスト教思想家の内村鑑三や、明治から昭和前期にかけての政党政治家で「憲政の神様」と称えられた尾崎行雄らがいた。(略)
英学校は明治六、七年には廃校となった。」

大正二年(1913)発行の「高崎藩近世史略」には、小泉の名前が出てきます。

明治三年八月某日静岡藩士作楽戸痴鴬ヲ雇ヒ英学教員ト為シ仮英学校ヲ檜物町ニ設置ス、因テ士族五十人ヲ選抜シテ以テ生徒ト為ス知事公モ亦痴鴬ヲ召シテ之ヲ学ブ、
其後チ故有リ痴鴬ノ雇ヲ解キ士族藤田栄親ヲ英学大助教ニ任ズ、(略)
後チ又、柏原藩士小泉敬二ヲ雇フ、(略)」

さて、この小泉敬二「高崎藩英学校」の教師となるについては、過日記事にした「美加保丸事件」がその発端であるといってもいいでしょう。

美加保丸事件で国元へ戻された郡奉行・土方景尉に代わり、銚子民政総裁として着任した菅谷清允
そこへ難破したフランス船に乗っていた、イギリス人のダラス
菅谷に請われて英語を教え始めたダラスに教わっていた、清允の養嗣子・正樹

正樹は、東京へ出たダラスの下でも英語の教えを受ける訳ですが、そこでダラス門下の小泉敬二と出会うのです。
ダラスが例の事件で大学南校を去り、米沢藩の洋学教師として採用された後も、正樹ダラスの家に寄寓して英語を学んでいます。
時は、はや明治四年(1871)となっていました。
この年、菅谷清允は銚子民政総裁の職を勤め上げ、高崎に戻って高崎藩少参事の要職に就いています。

これらのことを考え合わせると、小泉「高崎藩英学校」の教師として採用されたのは、自分のことで巻き添えにしたと思うダラスが、菅谷正樹を通じて父・清允に斡旋を依頼し、贖罪としたかったのであろうという推測は、果たして穿ち過ぎでしょうか。

「高崎藩英学校」での小泉は、生徒にはなかなか人気があったようです。
小泉の就任後2、3年で英学校は廃止されてしまう訳ですが、その後、三重県伊勢山田の英学校へ移る小泉と共に、転校する生徒も何人かいたといいます。

高崎藩の飛び領地、銚子の沖から繰り出された一本の糸は、人と人とを結びつけながら本地・高崎まで伸びてきました。
そして、その糸は再び銚子へ戻り大きな輪っかとなるのです。
小泉敬二が着任することで「高崎藩英学校」の教職を解かれた藤田栄親は、その後、銚子で私塾「勧徴舎」を開設しています。
げにも不思議な、因縁よなぁー。

さてさて、このブログも再び銚子へ戻ることに致しましょう。

(参考図書:「幕末維新期 動乱の高崎藩」)







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この記事へのコメント
群馬県ではじめての英学校だったそうですが、年若い藩主も共に学んだという、文明開化後の新しい時代に向かう勢いのようなものを感じます。
ただ、三年かそこらで廃校になってしまったのが残念ですね。
英語教育に熱心だったことが、高崎市のその後に何か影響を及ぼしているのでしょうか。
知りたいところです^^。
Posted by 風子風子  at 2013年08月11日 10:17
>風子さん

>英語教育に熱心だったことが、高崎市のその後に何か影響を及ぼしているのでしょうか。

そこなんですよねー。
英学校で学んだ人の中に内村鑑三や尾崎咢堂、ハル・ライシャワーの祖父がいた、というようなことは書かれているのですが、高崎への影響というのは特に見当たらないんです。

やっぱり、町民にまで門戸を開いていなかったからでしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月11日 18:58
檜物町と言えば大手門の脇、高崎の町役場があった「一等地」ですね。(2010年8月22日の記事にもありますね)
藩が当時、英語塾に並々ならぬ力を入れていたことが偲ばれます。


こちらの英語塾との関係は判りませんが、同時期欧州に留学されてパン屋を開業された方も高崎にいらしたそうです。先取の精神が高崎の人々に芽生えていたことは確かだと思います。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年08月12日 00:46
英学校で学んだ
ライシャワー夫人のハルの祖父星野長太郎さん
勢多郡水沼村(桐生市黒保根町水沼)で生まれ
1893年(明治26年)、横浜生糸合名会社(後に三菱商事に吸収合併)を創業し同社専務(後に会長)に就任は、この時学んだことが後々役に立ったですね。
Posted by wasada49  at 2013年08月12日 07:21
>ふれあい街歩きさん

英学校が檜物町のどこにあったのか定かではないのですが、あら町の大村そば店の角をお堀の方に向かって進み、南銀座通りと交差する角であったろうと推測されています。

最後の高崎藩主・大河内輝聲は、古いしきたりにこだわらない新し物好きだったようです。
そこに藩の財力が伴っていれば、何の問題もなかったのですが・・・。

パン屋さんのお話しは、日英堂の清水浜吉さんでしょうかね。
確かに、昔は進取の気鋭に富んだ人達が、競って高崎の町を盛り上げていたような感じがします。
いま生きていたら、どんなことをしたんでしょうか。
やらせてみたい気がしますね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月12日 19:23
>wasada49さん

ハルさんの祖父のこと、よくご存知ですね。
さすが!

英学校の生徒だったのは、ハルさんの母方の祖父・新井領一郎だったようです。
その実家の兄が星野長太郎さんで、領一郎は明治9年にニューヨークへ渡って、長太郎さんの製糸所の生糸を輸出販売したと聞いています。

それにしても、この時代、アメリカへ渡って商売をしようなんて、よほど英学校で学んだ語学力に自信があったのか、それとも度胸がよかったのか、すごいですよね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月12日 19:42
私の知る限りでは、新井領一郎「12歳の時、桐生の絹織物業者などに生糸を販売する問屋新井系作の養子となる。
1874年(明治7年)、開成学校に入学。1875年(明治8年)、東京商法講習所(現一橋大学)に入学し1881年(明治14年)、横浜同伸会社の
取締役ニューヨーク支店長に就任となっていますが、年代については、関係なく、
秀才であった事は紛れもない事実で有りますね。
Posted by wasada49  at 2013年08月12日 20:57
>wasada49さん

なるほど、すごい人物なんですね。

高崎藩英学校は、当初藩士のみを対象としていましたが、明治政府から高崎県大参事として派遣された安岡良亮により、藩士以外にも門戸を開いたということです。

それでも、誰でも入学できたという訳ではないようですから、領一郎の能力も新井家の家格も高かったのでしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月12日 22:38
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