いやー、すっかりご無沙汰をいたしまして。
わかよたれそ つねならむ。
やっと落ち着きましたが。
さて、庄川杢左衛門のことでありますが、私は自刃していないという説をとります。
そもそも自刃を裏付ける史料が何一つないのですから。
高崎に戻ってからの「高崎代官頭取席」昇進は、飢饉のさなかに銚子代官として領民をよく治め、他国のような一揆騒動を防いだことへの褒美と、素直に解釈すべきでしょう。
自刃説をとる大野富次氏はこの昇進をも、
と述べていますが、これはあまりにも穿ち過ぎのように思います。
ただ、自刃したのでないとなると今度は、小足武司氏の言う、
という疑問に突き当たります。
そのことについて、私には庄川杢左衛門とどうしても重なって見えてしまう、ある人物のことが思い出されます。
その人物とは、斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)です。
八十右衛門は、享保十七年(1732)上野国緑野郡緑埜(みどの)の大きな農家の生まれですが、旗本・松平(能見)忠左衛門の知行地である緑埜の代官を務めていました。
八十右衛門も、代官就任中に天明年間の大飢饉と浅間山大噴火に見舞われます。
その時、庄川杢左衛門同様、飢餓に苦しむ人々を見過ごすことが出来ずに、米蔵を開いて近郷近在の人々を救済しています。
詳しくは、過去記事「鎌倉街道探訪記のおまけ」をご覧ください。
その過去記事にもリンクされているのですが(幻の「鋳銅露天大観音」)、八十右衛門は浅間焼けからの復興と蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、高崎清水寺観音堂脇に鋳銅製の「聖観世音立像」を寄進しようと考えました。
しかし、そのことが時の高崎藩主からは「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎めらてしまいます。
八十右衛門は一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像は建立することができたのですが、成就後、責任を取って自刃したと伝わって※います。
八十右衛門が自刃して果てたのは、観音像建立直後の寛政八年(1796)でした。
寛政二年(1790)に庄川杢左衛門が没した、その6年後ということです。
さてここからは、迷道院の当て推量になります。
単なる隠居の思い付きだということをご承知の上で、お読みください。
斎藤八十右衛門切腹の一件が、風の便りに銚子へ伝わってきたとしましょう。
銚子の人々の、こんな会話が想像できませんか。
「おい、高崎の殿様にお咎めを受けた代官が、切腹したんだとよ。」
「何でも、飢饉の時に米蔵を開いて百姓をお救いになった方だとさ。」
「え!そりゃ、おめぇ、庄川様のことじゃねえのか!」
「庄川様は、お城ん中で病気になって亡くなったって聞いてたが、ほんとは切腹させられてたんだなぁ!」
「おー、そうだ、そうにちげぇねえ!」
「あんなに偉ぇ人を、なんてまぁ・・・、俺たちのためによぉ。」
すっかり庄川杢左衛門のことと思い込んでしまった、そんな人々の思いが「じょうかんよ節」となって、銚子の人々に歌い継がれてきたのだとは考えられないでしょうか。
大野富治氏の記述の中に、元銚子市史編纂室長の明石恒七氏の「じょうかんよう節の由来について」の一文が紹介されています。
それによると、著名な民謡収集家の話を例にして、「この民謡は節に清元の影響がうかがわれ、文化・文政の時代(1804~30)のものであろう」とあります。
とすれば、「じょうかんよ節」は、庄川杢左衛門が没してからずいぶん後になって歌われ始めたことになります。
このことも、庄川杢左衛門切腹の話が、没後ずっと後になって広まったということを、示唆してはいないでしょうか。
さぁ、「隠居の思ひつ記」読者の方々の、お考えや如何に。
末筆になりましたが、庄川杢左衛門に関する数々の資料をご提供いただきました中村茂先生に、厚く御礼申し上げます。
では、高崎藩銚子領シリーズは、これでひとまず終わりということに致します。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
わかよたれそ つねならむ。
やっと落ち着きましたが。
さて、庄川杢左衛門のことでありますが、私は自刃していないという説をとります。
そもそも自刃を裏付ける史料が何一つないのですから。
高崎に戻ってからの「高崎代官頭取席」昇進は、飢饉のさなかに銚子代官として領民をよく治め、他国のような一揆騒動を防いだことへの褒美と、素直に解釈すべきでしょう。
自刃説をとる大野富次氏はこの昇進をも、
「 | すぐに逮捕して責任を問うことは、領民を敵に回すことになり、一揆に発展するかも知れない。(略) |
庄川を高崎代官頭取席に昇進させるという知恵を働かせたとも考えられる。(略) | |
時間差を与え、じっくり吟味した後、自刃させたというのが実態なのではないか。」 |
ただ、自刃したのでないとなると今度は、小足武司氏の言う、
「 | 今日に至るまで『庄川様は自死した』と信じ敬愛する人が後を絶たないことをどう理解すればよいであろうか。」 |
そのことについて、私には庄川杢左衛門とどうしても重なって見えてしまう、ある人物のことが思い出されます。
その人物とは、斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)です。
八十右衛門は、享保十七年(1732)上野国緑野郡緑埜(みどの)の大きな農家の生まれですが、旗本・松平(能見)忠左衛門の知行地である緑埜の代官を務めていました。
八十右衛門も、代官就任中に天明年間の大飢饉と浅間山大噴火に見舞われます。
その時、庄川杢左衛門同様、飢餓に苦しむ人々を見過ごすことが出来ずに、米蔵を開いて近郷近在の人々を救済しています。
詳しくは、過去記事「鎌倉街道探訪記のおまけ」をご覧ください。
その過去記事にもリンクされているのですが(幻の「鋳銅露天大観音」)、八十右衛門は浅間焼けからの復興と蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、高崎清水寺観音堂脇に鋳銅製の「聖観世音立像」を寄進しようと考えました。
しかし、そのことが時の高崎藩主からは「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎めらてしまいます。
八十右衛門は一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像は建立することができたのですが、成就後、責任を取って自刃したと伝わって※います。
※ | 自刃のことについては、観音像戦時供出跡に建てられた「芳迹不滅」碑(八十右衛門八世義彦氏撰、九世泰彦氏建立)の碑文に刻まれているが、「多野郡藤岡地方誌」や「藤岡市史」等、他の文献には記述されていない。 |
八十右衛門が自刃して果てたのは、観音像建立直後の寛政八年(1796)でした。
寛政二年(1790)に庄川杢左衛門が没した、その6年後ということです。
さてここからは、迷道院の当て推量になります。
単なる隠居の思い付きだということをご承知の上で、お読みください。
斎藤八十右衛門切腹の一件が、風の便りに銚子へ伝わってきたとしましょう。
銚子の人々の、こんな会話が想像できませんか。
「おい、高崎の殿様にお咎めを受けた代官が、切腹したんだとよ。」
「何でも、飢饉の時に米蔵を開いて百姓をお救いになった方だとさ。」
「え!そりゃ、おめぇ、庄川様のことじゃねえのか!」
「庄川様は、お城ん中で病気になって亡くなったって聞いてたが、ほんとは切腹させられてたんだなぁ!」
「おー、そうだ、そうにちげぇねえ!」
「あんなに偉ぇ人を、なんてまぁ・・・、俺たちのためによぉ。」
すっかり庄川杢左衛門のことと思い込んでしまった、そんな人々の思いが「じょうかんよ節」となって、銚子の人々に歌い継がれてきたのだとは考えられないでしょうか。
大野富治氏の記述の中に、元銚子市史編纂室長の明石恒七氏の「じょうかんよう節の由来について」の一文が紹介されています。
それによると、著名な民謡収集家の話を例にして、「この民謡は節に清元の影響がうかがわれ、文化・文政の時代(1804~30)のものであろう」とあります。
とすれば、「じょうかんよ節」は、庄川杢左衛門が没してからずいぶん後になって歌われ始めたことになります。
このことも、庄川杢左衛門切腹の話が、没後ずっと後になって広まったということを、示唆してはいないでしょうか。
さぁ、「隠居の思ひつ記」読者の方々の、お考えや如何に。
末筆になりましたが、庄川杢左衛門に関する数々の資料をご提供いただきました中村茂先生に、厚く御礼申し上げます。
では、高崎藩銚子領シリーズは、これでひとまず終わりということに致します。
お付き合い頂き、ありがとうございました。