2013年10月30日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(8)

いやー、すっかりご無沙汰をいたしまして。
わかよたれそ つねならむ。
やっと落ち着きましたが。

さて、庄川杢左衛門のことでありますが、私は自刃していないという説をとります。
そもそも自刃を裏付ける史料が何一つないのですから。
高崎に戻ってからの「高崎代官頭取席」昇進は、飢饉のさなかに銚子代官として領民をよく治め、他国のような一揆騒動を防いだことへの褒美と、素直に解釈すべきでしょう。

自刃説をとる大野富次氏はこの昇進をも、
すぐに逮捕して責任を問うことは、領民を敵に回すことになり、一揆に発展するかも知れない。(略)
庄川を高崎代官頭取席に昇進させるという知恵を働かせたとも考えられる。(略)
時間差を与え、じっくり吟味した後、自刃させたというのが実態なのではないか。」
と述べていますが、これはあまりにも穿ち過ぎのように思います。

ただ、自刃したのでないとなると今度は、小足武司氏の言う、
今日に至るまで『庄川様は自死した』と信じ敬愛する人が後を絶たないことをどう理解すればよいであろうか。」
という疑問に突き当たります。

そのことについて、私には庄川杢左衛門とどうしても重なって見えてしまう、ある人物のことが思い出されます。
その人物とは、斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)です。

八十右衛門は、享保十七年(1732)上野国緑野郡緑埜(みどの)の大きな農家の生まれですが、旗本・松平(能見)忠左衛門の知行地である緑埜の代官を務めていました。
八十右衛門も、代官就任中に天明年間の大飢饉と浅間山大噴火に見舞われます。
その時、庄川杢左衛門同様、飢餓に苦しむ人々を見過ごすことが出来ずに、米蔵を開いて近郷近在の人々を救済しています。
詳しくは、過去記事「鎌倉街道探訪記のおまけ」をご覧ください。

その過去記事にもリンクされているのですが(幻の「鋳銅露天大観音」、八十右衛門は浅間焼けからの復興と蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、高崎清水寺観音堂脇に鋳銅製の「聖観世音立像」を寄進しようと考えました。
しかし、そのことが時の高崎藩主からは「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎めらてしまいます。
八十右衛門は一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像は建立することができたのですが、成就後、責任を取って自刃したと伝わっています。
自刃のことについては、観音像戦時供出跡に建てられた「芳迹不滅」碑(八十右衛門八世義彦氏撰、九世泰彦氏建立)の碑文に刻まれているが、「多野郡藤岡地方誌」や「藤岡市史」等、他の文献には記述されていない。

八十右衛門が自刃して果てたのは、観音像建立直後の寛政八年(1796)でした。
寛政二年(1790)に庄川杢左衛門が没した、その6年後ということです。

さてここからは、迷道院の当て推量になります。
単なる隠居の思い付きだということをご承知の上で、お読みください。

斎藤八十右衛門切腹の一件が、風の便りに銚子へ伝わってきたとしましょう。
銚子の人々の、こんな会話が想像できませんか。

「おい、高崎の殿様にお咎めを受けた代官が、切腹したんだとよ。」
「何でも、飢饉の時に米蔵を開いて百姓をお救いになった方だとさ。」
「え!そりゃ、おめぇ、庄川様のことじゃねえのか!」
「庄川様は、お城ん中で病気になって亡くなったって聞いてたが、ほんとは切腹させられてたんだなぁ!」
「おー、そうだ、そうにちげぇねえ!」
「あんなに偉ぇ人を、なんてまぁ・・・、俺たちのためによぉ。」


すっかり庄川杢左衛門のことと思い込んでしまった、そんな人々の思いが「じょうかんよ節」となって、銚子の人々に歌い継がれてきたのだとは考えられないでしょうか。

大野富治氏の記述の中に、元銚子市史編纂室長の明石恒七氏の「じょうかんよう節の由来について」の一文が紹介されています。
それによると、著名な民謡収集家の話を例にして、「この民謡は節に清元の影響がうかがわれ、文化・文政の時代(1804~30)のものであろう」とあります。
とすれば、「じょうかんよ節」は、庄川杢左衛門が没してからずいぶん後になって歌われ始めたことになります。
このことも、庄川杢左衛門切腹の話が、没後ずっと後になって広まったということを、示唆してはいないでしょうか。

さぁ、「隠居の思ひつ記」読者の方々の、お考えや如何に。

末筆になりましたが、庄川杢左衛門に関する数々の資料をご提供いただきました中村茂先生に、厚く御礼申し上げます。

では、高崎藩銚子領シリーズは、これでひとまず終わりということに致します。
お付き合い頂き、ありがとうございました。






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Posted by 迷道院高崎 at 09:28
Comments(6)高崎藩銚子領
この記事へのコメント
天明三年の浅間焼けの後、天明三年秋から四年にかけて、日本の北半分は惨たんたる冷害に見舞われたそうですが、その災害を目の当たりにした分限者たちは、食糧と莫大の金を出して救済に向かっています。
大笹の黒岩長左衛門、大戸の加部安、(現)嬬恋村の干川小衛の三人の奇特の行いは、名字帯刀を許され、幕府から派遣された役人の文書に記録されています。
とてつもない大災害に遭い、窮民を助けようと思うのは人として当然のことですし、それを自刃に追い込むなんて、何がどうあれ許し難いことに思えます。
迷道院さんの、「じょうかんよ節」となって人々に歌い継がれたという説に・・・乾杯!
Posted by 風子風子  at 2013年10月30日 20:34
>風子さん

乾杯して頂いて、ありがとうございます!

「分限者」って言葉、いいですね。
「金持ち」「富豪」「資産家」なんて言葉もありますが、どこか踏ん反り返ってるイメージがあって・・・。

人間ってどんな人でも、困ってる人を見たら助けたくなるものです。
その人間が組織に入ると、途端に組織を守ることを優先するようになってしまうから、困ったもんなんですが。

その点、組織を守りつつ困っている人を救済した庄川杢左衛門は、まさしく名代官だったと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年10月31日 08:38
じょうかんよ節の3番

 許し得ずして 米倉開き
 お役ご免で 自刃す  ションガエー

この歌が歌い継がれる限り
一般には「自刃」説が主流となって
いくことでしょう。
ところで
「自刃」と言う字が最後まで読めませんでした。
今調べたら「じじん」でした。

私のハンドルネームを漢字にすると
「一刃」となりますね。
Posted by いちじん  at 2013年11月01日 00:06
>いちじんさん

「一刃」さんですか?
子連れ狼は、「一刀」でしたね(^_^)
やっぱり、「一仁」さんの方がお人柄に合ってますよ。

「じょうかんよ節」は、為政者のあるべき姿と、感謝の心を忘れない姿として、そのまま歌い継がれていって欲しいと思います。
なんか、最近の世相はそれを忘れているように見えますから。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年11月01日 09:13
切腹にしろ病死にしろ、
立派な人がいた事は間違いないようです。

今以上に権力者が幅を利かせて、それを享受してた時代でしょう。
尚の事、見上げたもんです。
Posted by 陸奥雷  at 2017年09月10日 18:58
>陸奥雷さん

仰る通りですね。
天明三年の浅間山大噴火は大変なことでしたが、温情代官の話は銚子以外にも残っているようです。
いい話ですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年09月10日 20:49
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