中村茂先生の「高崎の資料にみる庄川杢左衛門」から、要点をご紹介いたします。
先生は、高崎藩の「御家中分限帳」の中に「御鉄炮徒 正川銀右衛門」の名を見い出します。
「正」と「庄」の文字の違いはありますが、昔は音が同じなら異なる字を書くことはよくあることのようです。
「御鉄炮徒(士)」(おてっぽうかち)というのは下級に属する士分で、八石二人扶持という低禄だそうです。
この資料の年次は不詳ですが、他の資料との関係から元禄十五年(1702)と比定しており、高崎藩庄川家初代の人物であろうと推定しています。
次に、寛政四年(1792)の「大円院様御代指物絵形順序」という資料に、「城番 庄川杢左衛門」の名があります。
その杢左衛門には前髪があるとなっているので、元服前(15~18歳)であろうということですが、家督は相続していたと解釈できるそうです。
銚子高神村の加瀬家の過去帳には、杢左衛門倅・庄川銀助は寛政三年(1791)三月に17歳で死去したという記録があります。
父・杢左衛門は寛政二年(1790)九月三十日に没していますので、家督相続の認可には時間がかかることを考えると、「倅・庄川銀助」と「城番・庄川杢左衛門」とは別人で、銀助の弟かあるいは他家からの養子ではないかというのが、中村先生の見立てです。
さらに下って享和三年(1803)のものと比定される「高崎家中附覚帳」には、「御城番 高五十石 庄川杢左衛門」の名前が出てきます。
さらに、「公私用禄留帳」の文化四年(1807)の記録にも、「庄川杢左衛門」の名が出てきます。
もうひとつ、文化十年(1813)の「分限帳」の城番18名の中に、「天休院様江被召出五代 実渡辺郡平 一高五拾石 庄川銀助」とあります。
中村先生によりますと、庄川家は天休院(輝貞)以来五代にわたって高崎藩に仕えており、この「庄川銀助」は渡辺郡平家からの養子であることが分かるということです。
これらのことを年表式に並べてみると、次のようになります。
ここから分かることは、銚子代官・庄川杢左衛門没後、少なくとも家督は二代にわたって継承されているということです。
では、中村先生の所見をご紹介いたします。
ということで、「銚子代官・庄川杢左衛門が切腹したということは考えにくい。」というお考えです。
次回は、他の郷土史家の方のご意見をご紹介します。
先生は、高崎藩の「御家中分限帳」の中に「御鉄炮徒 正川銀右衛門」の名を見い出します。
「正」と「庄」の文字の違いはありますが、昔は音が同じなら異なる字を書くことはよくあることのようです。
「御鉄炮徒(士)」(おてっぽうかち)というのは下級に属する士分で、八石二人扶持という低禄だそうです。
この資料の年次は不詳ですが、他の資料との関係から元禄十五年(1702)と比定しており、高崎藩庄川家初代の人物であろうと推定しています。
次に、寛政四年(1792)の「大円院様御代指物絵形順序」という資料に、「城番 庄川杢左衛門」の名があります。
その杢左衛門には前髪があるとなっているので、元服前(15~18歳)であろうということですが、家督は相続していたと解釈できるそうです。
銚子高神村の加瀬家の過去帳には、杢左衛門倅・庄川銀助は寛政三年(1791)三月に17歳で死去したという記録があります。
父・杢左衛門は寛政二年(1790)九月三十日に没していますので、家督相続の認可には時間がかかることを考えると、「倅・庄川銀助」と「城番・庄川杢左衛門」とは別人で、銀助の弟かあるいは他家からの養子ではないかというのが、中村先生の見立てです。
さらに下って享和三年(1803)のものと比定される「高崎家中附覚帳」には、「御城番 高五十石 庄川杢左衛門」の名前が出てきます。
さらに、「公私用禄留帳」の文化四年(1807)の記録にも、「庄川杢左衛門」の名が出てきます。
もうひとつ、文化十年(1813)の「分限帳」の城番18名の中に、「天休院様江被召出五代 実渡辺郡平 一高五拾石 庄川銀助」とあります。
中村先生によりますと、庄川家は天休院(輝貞)以来五代にわたって高崎藩に仕えており、この「庄川銀助」は渡辺郡平家からの養子であることが分かるということです。
これらのことを年表式に並べてみると、次のようになります。
・1702 | 八石二人扶持 | 正川銀右衛門 | |
・1790 | 銚子代官 | 庄川杢左衛門 没 | 57歳 |
・1791 | 杢左衛門倅 | 庄川銀助 没 | 17歳 |
・1792 | 城番 | 庄川杢左衛門 | 15~18歳 |
・1803 | 五十石 | 庄川杢左衛門 | |
・1807 | 庄川杢左衛門 | ||
・1813 | 城番 五十石 | 庄川銀助 | 養子 |
ここから分かることは、銚子代官・庄川杢左衛門没後、少なくとも家督は二代にわたって継承されているということです。
では、中村先生の所見をご紹介いたします。
「 | 言えることは、庄川家は文化年間まで存在したことが確実なことである。 もし罪を得て切腹したのであれば、御家断絶または家格を落とされるが、その形跡は見られない。 |
「高五拾石御城番」の家柄であったことは資料にある通りである。銚子代官としても妥当な家柄である。 | |
代官庄川杢左衛門が没した後も、庄川家は高崎藩士として存続していたのである。」 |
ということで、「銚子代官・庄川杢左衛門が切腹したということは考えにくい。」というお考えです。
次回は、他の郷土史家の方のご意見をご紹介します。