2013年08月25日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(1)

千葉県中学校長会編「中学生の新しい道」という道徳の副読本に、「じょうかんよ」という話が載っています。

(写真挿入は迷道院高崎)
「じょうかんよ」   疋田久雄・文
千葉県銚子市といえば、本州の最東端に位置する漁港の町であり、しょうゆの醸造でも有名な活気に満ちた土地である。
この銚子に髙神原町(たかがみはらちょう)という所があるが、この東南部の台地に「都波岐(つばき)神社」と呼ばれる神社がある。
この神社に上っていく石段の反対側に、墓標のような石碑が一つ建っている。

この碑は、文政六年(1823)に、庄川杢左衛門(しょうかわ・もくざえもん)という人のために建てられたものである。
この年は杢左衛門の四十三回忌(三十三回忌の間違い?)にあたったので、その供養も兼ねて、かれの偉業を長く後世に伝えるために、高神村の名主・加瀬新右衛門が中心となって、大勢の人々が力を合わせて建立したものだという。

杢左衛門は、高崎藩からの命令を受けて銚子の代官をつとめた人である。天明年間のことであった。
1781年から89年までの天明年間は、日本全国が大飢饉になった時代である。銚子地方も天明二年(1782)から六年(1786)まで、風水害や冷害で稲はもちろんのこと畑の作物もほとんど収穫がなかった。」

天明年間とは、なんとも大変な時代でありました。
中でも、天明三年(1783)の浅間山大噴火は、天明の大飢饉をさらに大きくしてしまいます。

過去記事「浅間のいたずら」にも書きましたが、この時の噴火では高崎・倉賀野に30cmも灰が積もったそうです。

200kmも離れた銚子にまで、灰は降り積もりました。

庄川杢左衛門の墓碑には「積寸有余」とありますから、4~5cmくらいだったのでしょうか。
そして「立毛大痛」とも刻まれていて、立毛(たちげ:刈入れ前の稲)は大いに痛み収穫できなかったようです。

再び、「じょうかんよ」の文です。
杢左衛門は、銚子地方のこのひどいありさまをこと細かに高崎藩に報告し、藩の貯蔵米を出してくれるよう願いでた。
しかし高崎藩の直轄領である高崎地方一帯も、同じように飢饉の被害を受けていた。そればかりか高崎地方は、浅間山が大爆発を起こしたために、その噴煙が農地を埋めてしまったので、藩の役人たちは銚子地方の救済どころではなかったのである。
杢左衛門の願いは無視された。

杢左衛門は、目の前に見る民の地獄の苦しみを見すごすことはできなかった。このままではみんな死んでしまう。(略)
人が死んだあとに米だけ残ってなんになる。
---とうとう独断で、杢左衛門は銚子にある藩の米蔵を開いてしまった。(略)

杢左衛門は金も貸し与えた。もちろん藩の御用金からである。貸したとはいえ、作柄や浜の漁がもとどおりにならないかぎり、返せるあてのない金である。
藩の許可がないのに、御用金に手を付けた責任は重い。(略)

『藩の許しも受けず、代官の分際をもって独断専行におよびし罪は軽からず。』と、とくに武士の情けをもって切腹を命ぜられたのは、それから間もなくのことであった。
ようやくおだやかな日が続くようになった代官所の庭で、杢左衛門はりっぱに腹を切って死んだ。(略)」

村人達は、庄川杢左衛門を悼み、敬い、慕い、「じょうかんよ節」という民謡で、今も歌い伝えているそうです。

♪ じょうかん(代官)よ さまよ アレワノセイ

     さまに三夜の三日月さまよ
        宵にちらりと見たばかり ションガエー

     胸に手をあて庄川様は
        人のためなら是非もない ションガエー

     許し得ずして米倉開き
        お役ご免で自刃する ションガエー ♪



高崎市立中央図書館に、伝承「庄川杢左衛門」の電子紙芝居が所蔵されています。

制作したのは、前回ご紹介した、飯沼陣屋址記念碑建立会長の名雪雲平氏です。

この伝承に興味を持たれた方は、ぜひご覧になってみてください。

ただこの伝承、実は謎もいくつかあって、次回はその辺のお話を。


【庄川杢左衛門頌徳碑】






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この記事へのコメント
「じょうかん」は聞き慣れない言葉ですが、「代官」がなまったものだそうですね。
高崎藩から出行していた庄川杢左衛門を讃える民謡が今に伝えられている…銚子の人々にとっては、命の恩人だったのですね。
Posted by 風子風子  at 2013年08月26日 09:14
>風子さん

私的には、「代官」が訛ると「でぇかん」にはなっても、「じょうかん」にはならないように思うんですよね。
むしろ、「庄川」を意識的に「じょうかん」としたような気がするんですが。

ただ、2番の歌詞にはちゃんと「庄川様」とあるので、どうもよく分かりません。

天明の大飢饉に際しては、二宮金次郎や庄川杢左衛門のように、藩の米蔵から救済米を配って村人を救った人が、きっと他にもいるんでしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月26日 19:05
現代でも会社や組織の中で臨機応変に決断を下すこと(たとえ正しいことであっても)は、大変難しいですね。災害時に緊急を要することであっても稟議や決まりが壁になってなかなか出来ません。
過去の歴史ですが、現代への問いかけにも思えます。


千葉県の副読本に取り上げられていて驚きました。私は恥ずかしながら今回の記事で知りました。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年08月26日 20:29
>ふれあい街歩きさん

私も恥ずかしながら、群馬県の道徳副読本にどんな話が取り上げられているのか知らないんですよ(^^ゞ

組織というのは、恐いもんですよね。
私も、会社という組織から離れて初めて、その恐さに気が付いたんですが。
組織の秩序を守る、組織を存続させる、ということが最優先になってしまって、人間としてどうあるべきかというのは、どうしても二の次になってしまいがちです。

それができる強い人というのが、いるもんなんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月26日 22:11
いつの世も、この様に独断専行の方がいて、
残念ですが、後世になって評価される。
天明年間は、飢餓に苦心だ方が多くそれに比例
して、特に逸話の多い時代ですが、民衆の願望が多くのヒーローを生んだのかもしれませんね、

じょう‐かん=上官と、単純な私は考えます。
Posted by wasada49  at 2013年08月27日 06:33
>wasada49さん

「上官」ですか、うーん、なるほど。

現代も、その内に世界的な食糧危機がやって来ると言われていますが、その時、人間はどのような行動を取るんでしょうね。

今から備蓄に努めて、分かち合いのできる人間であってほしいと祈るばかりです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月27日 18:32
「じょうかん」で検索したら
高崎新聞2008年5月版に
このことについての記事がありました。

■ じょうかんさま・じょうかんよう節
じょうかんは庄川が訛ったものか
代官の上官なのかは不明。
無用の官吏を意味する冗官も考えられるが、
庄川様の徳を慕う民謡なので
当時の支配体制から公儀をはばかって
じょうかんになったものか。
じょうかんよう節は盆踊りに取り込まれて
今日まで伝えられている。
Posted by いちじん  at 2013年08月30日 23:24
>いちじんさん

調べて頂いてありがとうございました。

庄川杢左衛門については、ネット上でも情報が少ないのですが、このブログをきっかけに多くの高崎市民に知って頂けたら嬉しいと思います。

高崎スプリングフェスティバルでは、調子の保存会の方が「じょうかんよ節」を披露するなど、杢左衛門を通じて交流が始まっています。
嬉しいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年08月31日 07:55
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