2013年09月01日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(2)

←文政六年(1823)に建立された庄川杢左衛門の墓碑、そこに刻まれている杢左衛門を顕彰する碑文は難しい漢文です。

これを、銚子市史編纂委員長の篠崎四郎氏が読み下し、昭和六十三年(1988)当時「銚子市小川町郷土芸能保存会」会長の髙橋作右衛門氏が石碑にして、墓碑の隣に建立していますので、こちらでご紹介しましょう。↓

本了院圓観宗融居士尊位
居士之姓は藤原、 氏は庄川、 諱(いみな)は杢左衛門、 字(あざな)盛職。君は髙﨑侯の忠臣にして、性は仁篤慈慧貞順、 古今の名士也。

嘗て天明中銚子港の郡司となり、租税訟獄を掌(つかさど)る。
同三癸卯(みずのとう)の年七月 信州浅間嵩(だけ)焼く。

沸騰する焔火は天に亘り、焼灰は雨の如く降り、白昼浡昧として闇夜を漣う如し、積ること寸有余、立毛(たちげ:刈入れ前の稲)大いに痛み、公米八百俵を戴く。
同六戊午(丙午・ひのえうまの誤り)の年、霖雨降り続き以て冷気募る。複(また)七百俵を戴き、再び飢渇餓死を凌ぐ為め、百両余を以て扶助さる。

性命を保ち農事を励み、飢渇餓死に至らざる者千有余人なり。且つ浦の退転を起立の為め二百俵、并(ならび)に通邨二万余人数千俵余并に数百両余を救う。
之の金米を以て、一統餓死退転も無く連綿として相続く。
昭(あきらか)なる哉、大君の仁徳を以て多勢の性命を保つ。

悲しい哉、寛政二庚戌の年九月三十日、病を以て五十有七歳にして卒し、髙﨑館の先塋(せんえい:祖先の墓)に葬る。
仰ぎ願はくば郷中一統永久に髙恩に報ぜん為め、万代仰いで興廃易(かわ)らず霊場に鎮め 安置して後世に伝え、石に刊して碑を建つ。
然れば則ち絶ゆるを継ぎ廃するを起し、賢君永久たり。
道徳は礼敬厚く、怠慢無く以て御武運長久を欲し、敬礼は在(ましま)すが如く拝礼を為すべき也。


伝承では庄川杢左衛門「代官所の庭で、りっぱに腹を切って死んだ。」となっていますが、顕彰碑には「病気で死んだ。」と刻んであるのです。

さらに事をややこしくしているものに、最初に庄川杢左衛門の顕彰碑を建立した加瀬家の過去帳があります。
加瀬家の過去帳に、なぜか庄川杢左衛門の戒名、享年、救済高などとともに、「高崎御城内ニ於死去」と記されているのです。
「病」とは書かれておらず、「高崎城内に於いて」とあるので、これは責めを負って切腹したに違いないという訳です。

伝承と頌徳碑との食い違いについて、昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」では、「強いて想像すれば、自殺して果てたなどと云う文言は、その人の徳に対しても、また公儀を憚る手前からも刻みこむワケにはいかなかった為かと思われるに過ぎない。」と、暗に伝承の方を支持しています。

郷土史家の先生方の間でも、このことについては意見が分かれています。
次回は、その辺のお話をいたしましょう。





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この記事へのコメント
迷道院高崎 様

いやいや、難解ですね、江戸時代より俗説には、
過去帳と家系図は当てにならないと、云われて
居りますが庄川氏も当たらずも遠からずかも、
藩のメンツもあり、寺の立場もあり苦渋の結果と

人間のした事は、善悪にかかわらずたいてい
いつかは表れるものです、永い眼で見ていると、
世の中のことは不思議なくらい公平に配分が保たれて行く様です。
(ちいさこべ、山本周五郎)より
Posted by wasada49  at 2013年09月01日 21:04
昔から、英雄や賢者の死については異なる
言い伝えが多いですね。
困窮の人々を救った立派な方が、無惨な死を
迎えたとは思いたくない気持ちもわかります。
実は生きて大陸に渡った…とかの英雄伝説も、
庶民は信じたいのです。
庄川杢左衛門さんは病死であってほしい。
切腹なんて悲し過ぎます。
Posted by 風子風子  at 2013年09月02日 08:18
>wasada49さん

「永い目で見ていると、不思議なくらい公平に配分が保たれていく」
あー、そんな気もしますね。

一生の内でそう思う時もあるし、数世代の間でそう思う時もあります。
ついつい、その時の損得で動いちゃうことが多いですけど、心しなくちゃいけませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年09月02日 18:46
>風子さん

そうですよね。
自分の命の恩人が、そのために切腹させられたなんて話し、耐えられませんよね。

代官まで勤めた人のことなんですから、何でもっとはっきりした記録が残ってないんでしょうね。
不思議なんですよ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年09月02日 19:02
たとえ切腹や自決してしまったとしても、子孫や家に傷がつかないよう配慮して病死扱いにしたとは考えられないでしょうか。

封建制度(今にも通じますが)では主君の命(上意)は絶体ですが、儒教道徳では代官の行動は領民に対する「徳」であり顕彰されるべきことなのではと思います。「忠」である前に「仁」であったと考えます。


現在となっては当時の顛末はもはや推定するしかありませんが。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年09月03日 19:23
>ふれあい街歩きさん

みなさんのコメント、素晴らしいですね!

ふれあい街歩きさんの仰る「忠である前に仁」、ほんとにそう思います。
道徳副読本にある「じょうかんよ」で、子どもたちに「仁」を身に付けてもらえるといいですね。

あ、その前に、私初め大人たちが身に付けなくちゃかな。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年09月03日 21:33
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