「山名御野立所跡」碑のすぐそばに、「石碑(いしぶみ)の路」碑が建っています。
碑文は、
という書き出しで始まります。
信澤克己氏は高崎市の建設業・信澤工業(株)の二代目社長さんです。
昭和四十七年(1972)高崎市役所を訪れた信澤氏は、「万葉集上野国歌の歌碑を四十基ほど山名丘陵に建てたいのだが、用地の大部分が国有林なので協力して頂きたい。」と、自然歩道歌碑設立願を提出しました。
信澤氏がそう思った動機が「石碑の路」碑に刻まれています。
一基目の石碑が昭和五十年(1975)根小屋城址に建ち、二十九基目が金井沢の碑入り口付近に建ったのが、平成十三年(2001)のことでした。
信澤氏は既に故人となっていますが、運び込まれた歌碑は三十四基ほどあったといいます。
まだどこかに未設置の歌碑があるのかもしれません。
信澤氏は歌碑に名を刻むこともなく、除幕式を行うこともなく、26年間、ただ黙々と私費を投じて建て続けたのです。
昭和六十一年(1986)高崎市は、信澤氏の業績を後世に残すため「石碑の路」碑を設置しました。
当時、沼賀健次市長のもとで高崎市の観光行政を担当していたのが、「徐徐漂(ぶらり)たかさき」など高崎に関する多くの著書を残した内山信次(のぶつぐ)氏で、「石碑の路」碑の碑文は内山氏の撰です。
その碑もまた、市長・沼賀健次とも、撰文・内山信次とも刻まず、ただ「高崎市」となっています。
沼賀氏も内山氏もすでに彼岸に渡っていますが、今頃、信澤氏と共に高崎の文化について語り合っているのではないでしょうか。
願わくば、嘆き合っていませんことを・・・。 合掌。
碑文は、
「 | 信沢克己さんは土建会社の社長さんである。信沢さんは古代の人々が佐野山と呼んだ今の山名丘陵の麓、根小屋に住んでいた。」 |
信澤克己氏は高崎市の建設業・信澤工業(株)の二代目社長さんです。
昭和四十七年(1972)高崎市役所を訪れた信澤氏は、「万葉集上野国歌の歌碑を四十基ほど山名丘陵に建てたいのだが、用地の大部分が国有林なので協力して頂きたい。」と、自然歩道歌碑設立願を提出しました。
信澤氏がそう思った動機が「石碑の路」碑に刻まれています。
「 | 一九七二年、丘陵は二か所でブルドーザーが唸り、無残に山肌が削られていた。 |
丘陵には山ノ上の碑や金井沢の碑があり、万葉集に収められた上野国歌の幾つかは、この付近で唄われた古代歌謡とされる。ここは私たちの心のふるさと、緑の丘陵である。 | |
信沢さんはこの心のふるさとを大切に保存するため、万葉歌碑を建てることにした。佐野山の路にである。山ノ上の碑も金井沢の碑も、千年以上そこにある。歌碑の造立は古代のロマンを伝え、石がそこにある限り、人々はこの路を大切にするだろう。」 |
一基目の石碑が昭和五十年(1975)根小屋城址に建ち、二十九基目が金井沢の碑入り口付近に建ったのが、平成十三年(2001)のことでした。
信澤氏は既に故人となっていますが、運び込まれた歌碑は三十四基ほどあったといいます。
まだどこかに未設置の歌碑があるのかもしれません。
信澤氏は歌碑に名を刻むこともなく、除幕式を行うこともなく、26年間、ただ黙々と私費を投じて建て続けたのです。
昭和六十一年(1986)高崎市は、信澤氏の業績を後世に残すため「石碑の路」碑を設置しました。
当時、沼賀健次市長のもとで高崎市の観光行政を担当していたのが、「徐徐漂(ぶらり)たかさき」など高崎に関する多くの著書を残した内山信次(のぶつぐ)氏で、「石碑の路」碑の碑文は内山氏の撰です。
その碑もまた、市長・沼賀健次とも、撰文・内山信次とも刻まず、ただ「高崎市」となっています。
沼賀氏も内山氏もすでに彼岸に渡っていますが、今頃、信澤氏と共に高崎の文化について語り合っているのではないでしょうか。
願わくば、嘆き合っていませんことを・・・。 合掌。
(参考図書:「続・徐徐漂たかさき」「みなみやはたの歩み」)
【「石碑の路」碑】