2011年09月10日

鎌倉街道探訪記のおまけ

鎌倉街道探訪は、前回で一応高崎の南端に到達したのですが、対岸の藤岡に入ってからの道もざっと調べていると、とても興味を引かれるものがありました。
しかもそれは、高崎にも大いに関係のあるものなんです。

鎌倉街道探訪記のおまけ藤岡緑埜(みどの)にある、
「千部(せんぶ)供養塔」です。

「千部」というのは、供養のために千人の僧が同じお経を一部づつ読むことだそうです。
何の供養なのかは、看板を読んでみてください。↓

天明三年(1783)の浅間山は、四月に大きく噴煙を上げて各地に灰を降らし、五月、六月と噴火はさらに激しさを増していきます。

そしてついに、七月八日の大爆発により、1400人余という死者を出す大災害となりました。

噴石・溶岩流・火砕流による直接被害、それらが吾妻川を堰き止めて引き起こした洪水による二次被害、そして、遠く離れた地域にまで降り積もった火山灰による農作物被害も甚大でした。

藤岡近辺でも、田畑を埋め尽くした降灰のため農作物が実らず、大勢の人々が飢餓に苦しみ、数えきれないほどの餓死者も出ました。
この時、この地の代官を務めていた斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)は、自分の蔵を開いて近郷近在の人々に米・麦などの穀物や金品を無償で施し、人々を救済したのです。

その八十右衛門が、噴火から9年後の寛政四年(1792)に、災害や飢饉で亡くなった人々の供養のために建立したのが、「千部供養塔」です。

鎌倉街道探訪記のおまけ「千部供養塔」には、噴火の様子や各地の降灰量、降灰による凶作がもたらした物価高騰の状況が、石碑の三面いっぱいに克明に刻まれています。

天明の大噴火の貴重な記録ですが、時の経過とともに刻字が不鮮明になったということで、昭和十二年(1937)に再刻されています。

後世の人に伝えるのが八十右衛門の切なる願いで、刻まれた文の最後にその気持ちが込められています。

「しるし(記し)おく凶事は 末(すえ)の吉事なれ
   親のしかる(叱る)も かわゆさ(可愛さ)のまま」


「早く忘れてしまいたい不幸な災害のことを、敢えて記し残しておくのは、後世の人が教訓として活かしてほしいからである。
親が子を叱るのも、可愛いからこそで、それと同じである。」

という意味でしょう。

さて、その八十右衛門高崎の関係ですが。

「千部供養塔」建立の4年後、蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、八十右衛門が管内の名主・百姓等280余名の発起人となって、観音山清水寺観音堂脇に、鋳銅製の「露天聖観世音立像」を寄進しているのです。
おそらく、災害後の田畑の復旧がなって、その喜びと感謝を表したものでしょう。

しかしこのことが、八十右衛門の身に不幸をもたらしてしまいます。
その辺のことは、過去記事「幻の鋳銅露天大観音」をご覧ください。

鎌倉街道探訪記のおまけ「千部供養塔」の刻文の中に各地の降灰の量が記されていますが、高崎の状況も記されています。

「藤岡高崎 一尺」とあるのが、読めますでしょうか。
約30cm積もったんですね。

高崎柴崎町に、この時の灰を掻き集めて塚にした、「浅間山(せんげんやま)」というのが残っています。

これも、過去記事「浅間のいたずら」をご覧ください。

ここのところ、地が、海が、天が、川が、荒ぶる神となって人々に大きな試練を与えています。
願わくば、火の山を司る神には、しばし鎮まっていて頂きたいものです。
ましてや人間が、欲や恐怖に駆られて愚かしき災害を引き起こさんことを。
切に、切に。

(参考図書:「ふるさと人ものがたり 藤岡」「多野藤岡地方誌」
「旧鎌倉街道探索の旅」「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」)


【千部供養塔】





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Posted by 迷道院高崎 at 09:12
Comments(6)鎌倉街道
この記事へのコメント
天明の浅間山の噴火による
災害からの立ち直りの
様子がよく分かりました。

ここ上中居地区には
昭和30年代までは
耕地整理をしていなかったので
田んぼの隅々に
畑がありました。
それは浅間の墳灰を集めたところで
畑になっていました。
桑やサツマイモが作られていました。

40年頃の
都市化に対応しての
耕地整理や宅地化により
それらの畑は
ほとんど消えてしまいました。
50代以下の人には
知っている人が
いないとのではないでしょうか。

高崎は
津波も洪水もありませんが
歴史的には
浅間山の噴火が
災害をもたらしてきました。
その惨状の歴史を
心して生きていく必要が
あると思います。
Posted by いちじん  at 2011年09月12日 09:06
>いちじんさん

そうですかー、灰を集めて畑にしていたんですか。
桑やサツマイモは、肥沃な土でなくても大丈夫なんですね。

「忘れた頃にやって来る」と言われる災難ですが、世代をまたいでやって来るから厄介です。

やはり、普段目に留まるところに残しておくことが大切だと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年09月12日 19:18
「浅間神社」は富士山信仰に関係していることくらいしか知りませんでしたが、近在の地図を見ていると「浅間神社」があちこちにあり、気になっていました。浅間山の噴火による降灰被害からのいわれもあったのですね。浅間山の大噴火についても、もっと調べてみたくなりました。
Posted by 風子  at 2011年09月13日 21:38
>風子さん

そうですね、高崎市内にも浅間(あさま)山を祀る「浅間神社」は多いです。

時々、浅間山の噴煙が多いように見える時があると、ちょっと心配になったりします。
こればかりは、祈るしかないんですけど。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年09月13日 22:05
今晩は、ご無沙汰しています。
私は愛知県在住ですが、祖父の代まで高崎に住んでいました。
移住して約100年になります。

我が家ではこの浅間山の噴火はあるエピソードとして未だに語り継いできました。
そのエピソードとはこんなものです。

ある日突然真っ暗になり、激しく灰が振り出しました。その時お祖父さんが(多分私の祖父の祖父が)井戸に蓋をしろと言って蓋をしました。
当時の井戸は釣瓶井戸なので屋外にあるのが当たり前の時代でした。 

一段落して見渡すと灰が一尺ほど積っていたそうです。
そして村中の井戸が全部灰が入ってしまい使えなくなったのですが、その井戸だけ蓋のおかげで助かった。
村中の人が水を汲みに来て感謝されたという話でした。
この話を私は母(愛知県出身)から、母は舅から聞いたそうです。
舅も勿論実体験した事では有りませんので、親から聞いたのでしょう。

200年以上前の話ですが、我が家ではこの話が今も生きている、そんな事です。
この話を家族には普段の何でもない時に、万一のときは如何しようか、考え訓練しておく事がいかに大切かの事例として話しています。
Posted by 短足おじさん  at 2011年09月14日 21:32
>短足おじさん様

お久しぶりです!
今年も、高崎への墓参においでになったのでしょうか?

語り継がれたお話、とてもリアルに伝わってきました。
私もそうなんですが、高崎は災害に強いという神話が何となく伝わってしまっていて、万一のことを考えている人は少ないように思います。

最低でも、ライフラインが止まった時のことは常に考えておかなければなりませんね。

ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年09月15日 07:50
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