12月4日、午前中の「ふるさと再発見講座」で、元高崎藩主・安藤家の当主・安藤綾信氏の講演を聞き、その足で高崎シティギャラリーで開催される「小栗上野介展」オープニング行事へ馳せ参じました。
目当ては、德川宗家第十八代当主・德川恒孝(つねなり)氏の講演です。
德川恒孝氏は会津松平家のご出身だそうです。
小栗上野介に危険が迫る時、身重の道子夫人は権田村を脱出しますが、その落延びた先が会津藩だったことを考えると、深き因縁を感じます。
講演に先立つ、小栗上野介展実行委員長の市川平治氏の挨拶には、考えさせられるところがありました。
「小栗上野介公と、ここ高崎市とは誠に興味深い因果関係があります。
つまり、德川幕府の命運に殉じて幕閣の要職を退き、知行地の一つである上州権田村に隠棲した小栗公を、西軍の命により追補し罪なくして処刑したのは、時の高崎藩、吉井藩、安中藩等でありました。
小栗公にとっては正に敵方であります。(略)
いまや、小栗公を巡るかつての敵味方の地は一つの自治体となり、共に新しい歴史の歩みを踏み出した訳であります。
まさに、歴史の流れを感ぜずにはいられません。」
德川恒孝氏の講演にも、考えさせられることが沢山ありました。
そのひとつは、徳川時代になって日本中から戦が無くなったことによって、領地を超えたインフラ(水利、街道、通貨、度量衡など)が整備され、それによって急速に豊かな日本になったのだということです。
それまで領主が個々に蓄えていた軍資金(軍事費)を、戦が無くなったことによってインフラ整備に回す(回させる)ことができ、農地が増え、流通が増え、人口が増え、庶民の収入が増えて、物質的に豊かになった、その頂点が元禄時代であったということです。
しかし、やがて資源の開発は頭打ちになり、人口だけは増えてくるというアンバランスが起きて、経済は停滞します。
そこへ、天候不順による大飢饉が追い打ちをかけます。
各藩や幕府の財政も苦しくなった時に登場したのが、紀州藩の財政立て直しの実績を持つ徳川吉宗です。
吉宗は、幕府自ら手本を示して、各藩や庶民に倹約を奨励します。
いわゆる、「享保の改革」です。
しかし、倹約ばかりでは世の中が暗くなるので、併せて、金を掛けなくてもできる楽しみも奨めたそうです。
そのひとつが花見で、江戸城内の桜の木1200本を掘り起こして、飛鳥山に植え、隅田川沿いにも沢山の桜を植えて、庶民が楽しめる場を用意したといいます。
これによって、元禄時代の物質的な娯楽から、文化・文政時代の知的・質的な娯楽へと変わっていって花開いたのが、いわゆる「化政文化」だそうです。
吉宗のブレーンであった儒学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)の書いた、「名君家訓」というのも紹介されました。
「心に偽りを言わず、身を私に構えず、心素直にして外に飾りなく、作法乱さず、礼儀正しく、上に諂(へつら)わず、下に驕らず、己が約束を違えず、人の艱難を見捨てず、(略)
さて、恥を知りて首を刎ねられるとも、己がすまじきことはせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理を重んじてその心鉄石のごとく、また温和慈愛にして物のあはれを知り、人に情けあるを節義の士と申し候」
小栗上野介忠順という人は、正にそのような人柄であったのではないかと思います。
この日、小栗上野介を讃えた「小栗讃歌」が演奏されました。
作詞は、小栗上野介菩提寺の、旧倉渕村・東善寺のご住職・村上泰賢師です。
では、お聞きください。
德川恒孝氏は、次のような言葉で話を締めくくっておられました。
「永遠の右肩上がり経済はあり得ない。
日本に蓄積されてきた、優れた文化の再発見が必要ではないか。
それは、簡素な生活と学問、文化の豊かさ、優れた道徳観念、知足文明への道である。」
長い記事になってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。
目当ては、德川宗家第十八代当主・德川恒孝(つねなり)氏の講演です。
德川恒孝氏は会津松平家のご出身だそうです。
小栗上野介に危険が迫る時、身重の道子夫人は権田村を脱出しますが、その落延びた先が会津藩だったことを考えると、深き因縁を感じます。
講演に先立つ、小栗上野介展実行委員長の市川平治氏の挨拶には、考えさせられるところがありました。
「小栗上野介公と、ここ高崎市とは誠に興味深い因果関係があります。
つまり、德川幕府の命運に殉じて幕閣の要職を退き、知行地の一つである上州権田村に隠棲した小栗公を、西軍の命により追補し罪なくして処刑したのは、時の高崎藩、吉井藩、安中藩等でありました。
小栗公にとっては正に敵方であります。(略)
いまや、小栗公を巡るかつての敵味方の地は一つの自治体となり、共に新しい歴史の歩みを踏み出した訳であります。
まさに、歴史の流れを感ぜずにはいられません。」
德川恒孝氏の講演にも、考えさせられることが沢山ありました。
そのひとつは、徳川時代になって日本中から戦が無くなったことによって、領地を超えたインフラ(水利、街道、通貨、度量衡など)が整備され、それによって急速に豊かな日本になったのだということです。
それまで領主が個々に蓄えていた軍資金(軍事費)を、戦が無くなったことによってインフラ整備に回す(回させる)ことができ、農地が増え、流通が増え、人口が増え、庶民の収入が増えて、物質的に豊かになった、その頂点が元禄時代であったということです。
しかし、やがて資源の開発は頭打ちになり、人口だけは増えてくるというアンバランスが起きて、経済は停滞します。
そこへ、天候不順による大飢饉が追い打ちをかけます。
各藩や幕府の財政も苦しくなった時に登場したのが、紀州藩の財政立て直しの実績を持つ徳川吉宗です。
吉宗は、幕府自ら手本を示して、各藩や庶民に倹約を奨励します。
いわゆる、「享保の改革」です。
しかし、倹約ばかりでは世の中が暗くなるので、併せて、金を掛けなくてもできる楽しみも奨めたそうです。
そのひとつが花見で、江戸城内の桜の木1200本を掘り起こして、飛鳥山に植え、隅田川沿いにも沢山の桜を植えて、庶民が楽しめる場を用意したといいます。
これによって、元禄時代の物質的な娯楽から、文化・文政時代の知的・質的な娯楽へと変わっていって花開いたのが、いわゆる「化政文化」だそうです。
吉宗のブレーンであった儒学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)の書いた、「名君家訓」というのも紹介されました。
「心に偽りを言わず、身を私に構えず、心素直にして外に飾りなく、作法乱さず、礼儀正しく、上に諂(へつら)わず、下に驕らず、己が約束を違えず、人の艱難を見捨てず、(略)
さて、恥を知りて首を刎ねられるとも、己がすまじきことはせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理を重んじてその心鉄石のごとく、また温和慈愛にして物のあはれを知り、人に情けあるを節義の士と申し候」
小栗上野介忠順という人は、正にそのような人柄であったのではないかと思います。
この日、小栗上野介を讃えた「小栗讃歌」が演奏されました。
作詞は、小栗上野介菩提寺の、旧倉渕村・東善寺のご住職・村上泰賢師です。
では、お聞きください。
德川恒孝氏は、次のような言葉で話を締めくくっておられました。
「永遠の右肩上がり経済はあり得ない。
日本に蓄積されてきた、優れた文化の再発見が必要ではないか。
それは、簡素な生活と学問、文化の豊かさ、優れた道徳観念、知足文明への道である。」
長い記事になってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。
【高崎シティギャラリー】
「小栗上野介展」は、12月12日(日)まで開催しています。(入場無料)
午前11時と、午後2時にはギャラリートーク(展示物説明)があります。
「小栗上野介展」は、12月12日(日)まで開催しています。(入場無料)
午前11時と、午後2時にはギャラリートーク(展示物説明)があります。