九蔵町の一里塚跡にも、史跡看板が建ちました。
看板にもあるように、高崎市域にあったという三つの一里塚ですが、現存するのは「上豊岡(藤塚)の一里塚」だけです。
九蔵町にあったという一里塚はその痕跡も残っておらず、描かれている絵図面もないので、場所を推測するには文献の記述によるしかありません。
たぶん、「九蔵町の一里塚」のことが最初に出てくるのは、宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子」(たかさき・すなご)でしょう。
次に出てくるのが、寛政元年(1789)に川野辺寛が著した「高崎志」で、巻中の「九蔵町」の項にこうあります。
明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した、「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)弐巻「通町」の項には、こんな記述があります。
上記三書に出てくる「中頃の大路」、「昔ノ本道」、「旧時中山道」というのは、看板にも書かれていますが、井伊直政が高崎城下を開いた頃の「最初の中山道」のことです。
「最初の中山道」は、本町から真っ直ぐ椿町に入り「法華寺」に突き当たって南へ曲がり、通町を抜けて東へ折れ、佐野→中居→下之城を経て倉賀野の永泉寺前へ出るというルートでした。
いま一般的に「旧中山道」と呼ばれているルートは、酒井家次が城主となってから付け替えられたものです。
三書に書かれていることを総合すると、「九蔵町の一里塚」は、
「最初の中山道通り西側の人家の裏にあり、大雲寺へ曲がる角の屋敷に一里塚の上にあった稲荷宮、その反対の天野という家の後ろに千間宮(浅間宮?)がある。」
ということのようですが、これだけではまだ一里塚の場所ははっきりしません。
しかし、その後の研究が進んだのでしょうか、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では、相当詳しく記述されています。
「九蔵町むかしがたり」の著者・宮野入孝氏が作成した、「明治三十七年(1904)九蔵町住民図」を見ると、五十五番地がどこかが分かります。
五十六番地・反町徳太郎氏の家も描かれています。
昭和六十三年(1988)発行の「図説 高崎の歴史」では、石原征明氏の記述でこう書かれています。
「だるま紺屋」については、「高崎市史 下巻」の「染色業」の項に、こうあります。
前掲の「九蔵町住民図」五十四番地に、「万染物 落合庄平」とありますが、ここの屋号が「橋本屋」で、商標が「だるま」なのです。
ここまでくれば、「九蔵町の一里塚」の場所はもう特定できたようなものです。
ただひとつ、「高崎志」の「西側人家ノ裏ニアリ」という記述とは食い違いますが、通りを挟んで東西にあったと考えれば良いのでしょう。
史跡看板が建っている場所は、文献の位置とは若干ずれているように思いますが、当たらずとも遠からずということで。
次回は、もうひとつの一里塚跡へ行ってみましょう。
看板にもあるように、高崎市域にあったという三つの一里塚ですが、現存するのは「上豊岡(藤塚)の一里塚」だけです。
九蔵町にあったという一里塚はその痕跡も残っておらず、描かれている絵図面もないので、場所を推測するには文献の記述によるしかありません。
たぶん、「九蔵町の一里塚」のことが最初に出てくるのは、宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子」(たかさき・すなご)でしょう。
「 | 九蔵町之内 一、東横町 鉦打町(かねうちまち)へ出る。是より前橋、東上州、下野への通路。この町人家の裏に一里塚あり、中頃の大路あり。」 |
次に出てくるのが、寛政元年(1789)に川野辺寛が著した「高崎志」で、巻中の「九蔵町」の項にこうあります。
「 | 一里塚 裏町通町通リ、西側人家ノ裏ニアリ、今ハスガレテ其カタバカリ残レルノミ、上ニ稲荷ノ小祠アリ、是昔ノ本道也、」 |
明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した、「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)弐巻「通町」の項には、こんな記述があります。
「 | 老平云、通町ハ旧時中山道ノ往還ニシテ、・・・又本町ヨリ往還今ノ椿町ヨリ法華寺ノ前ヲ南ニ折レタリ。 |
其証ハ九蔵町(今ノ大雲寺ヘノ曲尺手ノ角)隅ノ屋敷ニ一里塚ノ稲荷宮アリ。其向頬天野某ノ背戸ニ千間宮アリ。此往還タルノ旧趾也。」 |
上記三書に出てくる「中頃の大路」、「昔ノ本道」、「旧時中山道」というのは、看板にも書かれていますが、井伊直政が高崎城下を開いた頃の「最初の中山道」のことです。
「最初の中山道」は、本町から真っ直ぐ椿町に入り「法華寺」に突き当たって南へ曲がり、通町を抜けて東へ折れ、佐野→中居→下之城を経て倉賀野の永泉寺前へ出るというルートでした。
いま一般的に「旧中山道」と呼ばれているルートは、酒井家次が城主となってから付け替えられたものです。
三書に書かれていることを総合すると、「九蔵町の一里塚」は、
「最初の中山道通り西側の人家の裏にあり、大雲寺へ曲がる角の屋敷に一里塚の上にあった稲荷宮、その反対の天野という家の後ろに千間宮(浅間宮?)がある。」
ということのようですが、これだけではまだ一里塚の場所ははっきりしません。
しかし、その後の研究が進んだのでしょうか、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では、相当詳しく記述されています。
「 | 一里塚ノ趾 |
舊前橋道、九蔵町五十五番地ニアリ、明治元年ノ頃ハ人家ナク、塚上ニ一里塚稲荷ノ小祠アリシモ湮滅其趾ヲ止メズ、 | |
後年土中ヨリ祠ノ礎石トモ見ルベキ六角形ノ花崗石、基石ヲ發見ス、 | |
今隣地五十六番地反町徳太郎氏ノ後庭ニアルモノ是ナリ、 | |
塚ハ文政ノ頃マデハ僅カニ存セリト云フ」 |
「九蔵町むかしがたり」の著者・宮野入孝氏が作成した、「明治三十七年(1904)九蔵町住民図」を見ると、五十五番地がどこかが分かります。
五十六番地・反町徳太郎氏の家も描かれています。
昭和六十三年(1988)発行の「図説 高崎の歴史」では、石原征明氏の記述でこう書かれています。
「 | 江戸日本橋から二十七里目の一里塚跡は、九蔵町の元だるま紺屋屋敷裏手にあった。」 |
「だるま紺屋」については、「高崎市史 下巻」の「染色業」の項に、こうあります。
「 | 染色業ハ慶長年中箕輪ヨリ移リ元紺屋町ニ住シ、斯業ヲ營ミシヲ始トス、 |
今日ヨリ凡ソ二百年以前九蔵町ニ橋本某開業シ、爾來數代今日ニ至リ盛ニ營業セルモノアリ」 |
前掲の「九蔵町住民図」五十四番地に、「万染物 落合庄平」とありますが、ここの屋号が「橋本屋」で、商標が「だるま」なのです。
ここまでくれば、「九蔵町の一里塚」の場所はもう特定できたようなものです。
ただひとつ、「高崎志」の「西側人家ノ裏ニアリ」という記述とは食い違いますが、通りを挟んで東西にあったと考えれば良いのでしょう。
史跡看板が建っている場所は、文献の位置とは若干ずれているように思いますが、当たらずとも遠からずということで。
次回は、もうひとつの一里塚跡へ行ってみましょう。
【九蔵町の一里塚跡史跡看板】