2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】