2018年07月15日

史跡看板散歩-100 奥平城跡

場所の説明が難しいのですが、多胡橋北詰の岩崎の信号を富岡方面へ右折して2.7km、岩平小学校を過ぎたら上奥平方面へ右折します。

そこから250mほど行くと、左側にポツンと史跡看板が建っています。
後ろのこんもりした所が「奥平城跡」です。



看板から70mほど行くと、「奥平城跡」の入り口です。


道の草は払われているんですが、奥へ行くとすっかり竹林になってしまっていて、城跡らしき姿はわかりません。


「中世吉井の城館跡」に載っている図で見ると、大手を上って来て、八幡社付近で佇んでいるようです。


「申田川」(さるたがわ)越しに、武家屋敷があったという「九台」(くだい)が望めます。


南側の「桜沢」も深い谷になっていて、敵は容易に登れそうにありませんが、すぐ近くにある「ゴルフ城」から飛び道具を使って玉を撃ち込んでくるようです。


「九台」の集落への入り口に、「史蹟奥平公廟所」の石柱が建っています。


「奥平城」の主・奥平氏は、看板に「十四世紀の末に三河国に移った」と書いてありますが、「中世吉井の城館跡」には、
天授年間(1375~80)三河国作手(つくで)に移った。
その後もこの地に奥平氏は残ったが、永禄六年(1563)武田軍の攻撃を受け落城した。」
とあります。

集落入り口から150mほど上って右へ曲がり、さらに30mほど行くと墓地があります。
そこに、「奥平家発祥之地」という大きな石碑が建っています。


隣に、「奥平氏開基 仁叟寺跡地碑」という標柱が建っていますが、現在吉井町神保にある「仁叟寺(じんそうじ)」のことで、同寺の開基は応永年間(1394~1427)と言いますから、この地に残ったという奥平氏が開基したのでしょう。
因みに「公田院仁叟寺」「公田」は、「九台」のことらしいです。

一方、三河に移って命脈を保ってきた奥平氏は、天正三年(1575)の長篠の合戦に於いて目覚しい武功を上げ、一気に家運を上げます。
長篠合戦の功により(奥平)信昌は上野国宮崎へ三万石を以て封ぜられ、次男家治は長根、四男忠明は小幡を与えられ松平を姓として故地に錦を飾った。
以後十万石の大名として系を伝えて現在まで二十六代、大分県中津城内に居住する。」
(中世吉井の城郭跡)

ご近所の方のお話では、今もご子孫の方が墓参に見えるそうです。

人と土地それぞれに歴史あり。
すごいことだなぁ。


【奥平城の史跡看板】


【奥平家発祥之地碑】



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2018年07月08日

史跡看板散歩-99 天久沢観音堂

吉井インター直近の「牛伏山自然公園」入口に、「天久沢(あまくざわ)観音堂」の史跡看板が建っています。



「天久沢観音堂」は、ここから直線距離で400m、道のりでは800mも離れた所にありますので、現在地から観音堂までの略地図が描いてあります。
ぜひ行ってほしいという、地元の方々の気持ちがよく伝わってきます。

ただ欲を言えば、略図の向きを左に90度回転させると図と現地の方向が合うので、より分かり易くなったと思います。
ついでに言えば、案内ルート(赤線)が上信越自動車道の下を潜ってるように描かれてますが、実際は上を跨いでいますので、何かの折に修正して頂けたらと思います。
すみません、部外者がつべこべと。

その上信越自動車道を跨ぐ橋を渡ると、小高い丘の中腹に「天久沢公園」の看板が見えてきます。


駐車場に車を止めて、けっこうな鉄製の階段を上ると・・・、


なかなか、いい眺めです。


そりゃ眺めもいいはずで、武田信玄がここに陣を構えたというんですから。
実は、桜の季節も静かでいい穴場なんですよ。

(2006年4月撮影)

回廊状になってる桜の並木道から石段を上ると、「天久沢観音堂」があります。



昭和五十九年(1984)に改修された堂には、平成元年(1989)美しい天井絵と欄間絵が施されました。


観音堂の脇に、詳しい由来を書いた看板が建っています。


看板表題の「天久沢陣城」跡が、現在の「天久沢公園」です。


文中の「一郷山城」牛伏山に、



「新堀城」多比良(たひら)の普賢寺の所にあった砦です。


位置関係はこうなります。


それにしても、信玄はよくまあここまで出張ってきたものです。
「天久」という馬は、きっと天翔けるように速く走れたのでしょう。
馬に乗れる人はいいけど、ついてくる徒歩きの兵隊さんはさぞ大変だったでしょうね。

大変といえば、観音堂の正面にものすごく急な石段があります。

きっと昔はこれが参道だったんでしょう。

やめようかと思ったんですが、覚悟を決めて下りてみると、「牛伏大橋」の袂に出ました。


やれやれ、また上るしかありません。


162段ありました。
ふー。


【天久沢観音堂の史跡看板】


【天久沢観音堂】


【一郷山城跡】


【新堀城跡】



  


2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】