2018年07月29日

史跡看板散歩-102 八王子神社

吉井小学校北側の道を吉井西中学校に向かって400mほど行くと、右に「魚健」左に「花広場」のある小さな交差点があります。


その交差点を左(南)へ入って50mほど行った所に、「八王子神社」が祀られています。



「八王子」とは、「天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)が誓約(うけい)した時に生まれた五男神と宗像三女神」のことと看板に書かれていますが、もう少し説明を加えましょう。

黄泉の国から逃げ帰ってきた「伊弉諾神」(イザナギノミコト)は、穢れた身体を清めるために禊(みそぎ)をします。
その時、左目から生まれたのが「天照大神」、右目から生まれたのが「月夜見尊」(ツクヨミノミコト)、鼻から生まれたのが「素戔嗚尊」です。

イザナギは、アマテラスに天を、ツクヨミに海を、スサノオに地を治めるように命じます。
ところがスサノオはそれを嫌がり、母・イザナミの居る「根の国」へ行きたいと大声で泣きわめきます。

「どこへでも行ってしまえ!」と追い払われたスサノオは、高天原のアマテラスに別れの挨拶に行きますが、アマテラスは自分の国を奪いに来たに違いないと考え、戦闘準備をして迎えます。

そこでスサノオアマテラスに、そんな異心はないという誓約(うけい)を交わす訳です。
その証として「もし私が女神を生んだら異心があり、男神を生んだら異心はない」と。

スサノオが、アマテラスの身に着けていた玉を噛み砕いて吹き出すと、五柱の男神が生まれました。
アマテラスも、スサノオが腰に帯びていた剣を噛み砕いて吹き出すと、三柱の女神が生まれたので、スサノオへの疑いを解いた。
・・・という話です。(異なる説話もあり)

八王子つまり八柱の神は八方の方位を司るとして、疫病や災厄が村に入って来るのを防ぐ「塞の神」(さいのかみ)として信仰されたようですが、この地域では失せ物を探し出す力も高かったんですね。

さて、吉井町にはいたる所に城館跡があるのですが、ここにも「塩川の砦」というのがあったようです。


「中世吉井の城館跡」によれば、「軍事的に見て平地にあり、わずかな崖端を利用して構築した城であり、居館の趣が強い。」とありますが、「塩川城は全壊しており、城跡にかかわる遺構を発見することは困難である。」ということです。
永禄六年(1563)の武田信玄侵攻に対し、塩川城主・菅沼大善之孝は激しく抵抗したが落城した、と「箕輪軍記」に記されているようです。

図の中央、「平館」とある所には、いま黒澤家の立派な屋敷が建っています。


もっと気になったのが、左上にある「玉子湯」です。
黒澤家の相向いの方にお聞きしてみると、子どもの頃はよく行ってたよ、と仰います。
もうだいぶ前から営業してないけど、建物はまだ残っているといいます。

行ってみると、何となくこれかなぁという建物がありました。


今は空き家になっているらしく、しばらく建物の周りをウロウロしていると、怪しい奴と思われたのでしょう、隣の家の方が出てきました。
いや、実は・・・と訳を話すと、たしかにこの建物が「玉子湯」だと教えて下さいました。

それどころか、この方、「玉子湯」オーナーのお孫さんだったんです。
いや、これは大変失礼しましたとお詫びをしましたが、そのあと、いろいろとお話を伺うことができました。

お話によると、この建物の一階に見える所は実は二階で、その下に川に面した一階部分があるんだそうです。
川の対岸から撮ってみましたが、木に覆われていてよく分かりません。


この建物は湯客のための休憩棟で、浴場は現在住居になっている所にあり、渡り廊下で浴場と休憩所を行き来してたそうです。
川から汲み上げた鉱泉は休憩棟内のボイラーで加熱し、パイプで浴場へ送っていたとか。


不思議なことに、ここの鉱泉は塩分を含んでいたそうで、きっとツルツルの玉子肌になるので「玉子湯」だったのでしょう。
40年ほど前に営業を終え、いまは鉱泉も枯れてしまっているそうです。

そういえば、ここの地名は「塩川」でした。
それに、「玉子」は、「王子」によく似ています。

「八王子神社」「玉子湯」「塩川」と、なんだか三題噺の趣きが・・・。
はい、お後がよろしいようで。


【八王子神社】



  


2018年07月25日

上州弁手ぬぐい 新規取扱店のご案内

「上州弁手ぬぐい」が、じわじわと広がっております。
引っ込み思案で商売下手な迷道院を見かねた皆様の、ご厚意とお力添えによって広がっております。

新しく置いて頂いたのは、観音山の「観音茶屋」さん。
迷道院の活動のお手伝いのつもり、と実にありがたいお言葉を頂きました。





そしてもう一か所、高崎駅東口のおみやげ処「群馬いろは」です。
個人ではとてもここに置くことはできませんが、中村染工場さんの商品として置いて頂きました。





感謝、感謝です。
本当に、ありがとうございます。

   ◇「上州弁てぬぐい」物語
   ◇「上州弁手ぬぐい」取扱店MAP


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
Comments(2)◆上州弁手ぬぐい

2018年07月23日

号外! 長野堰用水から見た高崎展

とにかく素晴らしいので、ぜひ行ってみてください!


企画展を開くたびに、新しい視点と深い洞察、それを分かりやすい展示で示してくれる「長野堰を語りつぐ会」のみなさんですが、今回もまたやってくれました。

目玉のひとつは、「昔の測量方法」の解説模型です。


なんでも、毎回展示会をするたびに、「昔、長野堰を造れるほどの測量技術があったのか。」という質問を受けるので、文献を調べ、模型を作って、自分自身が確信できるまでに至ったということです。

もうひとつの目玉は、「頼政神社例大祭絵巻」のジオラマです。


新編高崎市史の小さな口絵写真をもとに、立体的なジオラマを作ったこともすごいことですが、その作業の中で高崎の殿様と庶民の関係、高崎の大火との関係、現在の「高崎まつり」の意義にまで及ぶ、深い洞察力にも驚かされます。

その他、高崎の歴史を多様な視点でまとめた写真年表など、見どころ満載の企画展です。
ぜひ、高崎シティギャラリーへ行ってみてください。
行かないと、損しますよ。

明日、7月24日(火)午後5時までです。  


Posted by 迷道院高崎at 15:24
Comments(2)◆高崎雑感

2018年07月22日

史跡看板散歩-101 長根神社

国道254号、吉井町長根「西部コミュニティセンター入口」という長い名前の信号を左(南)に入ります。


曲がって170mほど行くと右側に「長根神社」があり、鳥居を潜った左に史跡看板が建っています。



看板に書かれている「獅子舞」については、高崎市のHPにもう少し詳しく書かれています。


社殿は、127段の石段を上った高台にあります。


「境内地は長根城跡の一部で・・・」と看板にある通り、神社は「長根城」の北東の方角、つまり鬼門に位置します。


神社の裏には、見るからに土塁と思しきものが続き、


その土塁が切れた所を入ってみると、


「本丸」跡が広がり、奥の方に「殿様の墓」が見えます。


道なりに進むと、図でいう「横宿」「光円寺」、現在「上の場公民館」の前に出ます。


公民館の前には、六地蔵と何やら東屋のようなのが建っています。
そこに、こんな看板が掛かってました。


つい、右上から縦に読みたくなってしまいますが、左上から横に読んでください。
これで見ると、六地蔵は「光円寺」というお寺の名残り、東屋のようなのは「不動堂」の堂宇だったのかなぁ、と思います。

公民館のすぐ左に、「長根城本丸跡」という石柱と、説明板が建っています。



この道の奥に「殿様(小河原家)の墓」があります。
墓地には、古い石祠や墓石、板碑がたくさん残っています。


「長根城」の図を見ていて気になって仕方なかったのが、右下に書かれている「たもと観音」です。
橋のたもとにでもある観音さまなんでしょうか。

探していると、ちょうどアジサイの剪定をしている方がいたので、「この辺に、たもと観音というのがありますか?」と聞くと、「このすぐ下だよ。右に下りる道があるだろ。」と教えて下さいました。


けもの道のような坂の先にお堂のような建物が見えます。


行ってみると、「元三大師」という扁額が掛かっていて、これではなさそうです。
左手前に折れる石段の先には立派なお堂があって、境内のあちこちに石仏が建っています。
そのどれかが、「たもと観音」なのかなぁ・・・。


と思ったら、このお堂がそうでした。


ただ、肝心の「袂観音」の由来が書いてありません。
「上野国志」にあるから、それを見ろという訳です。

しかたなく「上野国志」を見てみると、たしかに多胡郡の項に「袂之観世音菩薩縁起」という記述がありました。

毛呂權蔵著「上野国志」(明治43年発行)より

ただ、すべて漢文で、素養を持ち合わせない迷道院には読み下しができません。
どなたか漢文にお強い方、ご教示頂けたら幸いです。

ま、字面から推測すると、大体こんなことが書かれてるんじゃないかと思います。(間違ってたらごめんなさい。)
法界の数多くの衆生を救おうと、大和の国の機が熟したのを見て、千手観音菩薩は本邦の至る所に聖閣を設けた。
当寺の本尊は行基大士が彫った千手千眼観音で、その妙なるお姿と威厳は四方の人々から信仰された。
堂宇は飛騨の匠により造営されてから数百年数十世になる。

法灯が灯されたのは一千年の昔、信州伊奈郡の伊藤長者の娘の話に始まる。
その娘は玉のように艶やかで、花のように美しく、父母親族の深く厚い愛情を受けて育った。
しかし、この娘は幼い頃から仏を崇敬し、長じてくると出家をしたいと言い出して、父母の制止の言葉も聞こうともしなくなった。

娘が十七歳になった時、父母は強引に結婚をさせようとするが、娘はその日のうちに家を出て行ってしまう。
驚いた父母は親族とともに後を追い、多胡郡長根村大悲閣の近くでようやく娘に追いつき、なおも逃げようとする娘の袂を捕らえて引っ張ったところ、袂は千切れてしまった。
千切れた袂が寺の窓から堂内に入ったと見るや、娘の姿が見えなくなってしまった。
堂内には、ただ千手観音の尊像があるだけだった。
人々は大変不思議がって、それ以後、袂之観世音と呼ぶようになった。」

失礼をして堂内を覗いてみると、千手観音像の前に白い布が巻き付けてあります。
もしかすると、これが千切れた「袂」


因みに、ここ「常行院」は、樹齢600年と言われる「ラカンマキ」があることでも有名です。


大変長い記事になってしまいましたが、なかなか奥深い歴史スポットでした。


【長根神社】



  


2018年07月15日

史跡看板散歩-100 奥平城跡

場所の説明が難しいのですが、多胡橋北詰の岩崎の信号を富岡方面へ右折して2.7km、岩平小学校を過ぎたら上奥平方面へ右折します。

そこから250mほど行くと、左側にポツンと史跡看板が建っています。
後ろのこんもりした所が「奥平城跡」です。



看板から70mほど行くと、「奥平城跡」の入り口です。


道の草は払われているんですが、奥へ行くとすっかり竹林になってしまっていて、城跡らしき姿はわかりません。


「中世吉井の城館跡」に載っている図で見ると、大手を上って来て、八幡社付近で佇んでいるようです。


「申田川」(さるたがわ)越しに、武家屋敷があったという「九台」(くだい)が望めます。


南側の「桜沢」も深い谷になっていて、敵は容易に登れそうにありませんが、すぐ近くにある「ゴルフ城」から飛び道具を使って玉を撃ち込んでくるようです。


「九台」の集落への入り口に、「史蹟奥平公廟所」の石柱が建っています。


「奥平城」の主・奥平氏は、看板に「十四世紀の末に三河国に移った」と書いてありますが、「中世吉井の城館跡」には、
天授年間(1375~80)三河国作手(つくで)に移った。
その後もこの地に奥平氏は残ったが、永禄六年(1563)武田軍の攻撃を受け落城した。」
とあります。

集落入り口から150mほど上って右へ曲がり、さらに30mほど行くと墓地があります。
そこに、「奥平家発祥之地」という大きな石碑が建っています。


隣に、「奥平氏開基 仁叟寺跡地碑」という標柱が建っていますが、現在吉井町神保にある「仁叟寺(じんそうじ)」のことで、同寺の開基は応永年間(1394~1427)と言いますから、この地に残ったという奥平氏が開基したのでしょう。
因みに「公田院仁叟寺」「公田」は、「九台」のことらしいです。

一方、三河に移って命脈を保ってきた奥平氏は、天正三年(1575)の長篠の合戦に於いて目覚しい武功を上げ、一気に家運を上げます。
長篠合戦の功により(奥平)信昌は上野国宮崎へ三万石を以て封ぜられ、次男家治は長根、四男忠明は小幡を与えられ松平を姓として故地に錦を飾った。
以後十万石の大名として系を伝えて現在まで二十六代、大分県中津城内に居住する。」
(中世吉井の城郭跡)

ご近所の方のお話では、今もご子孫の方が墓参に見えるそうです。

人と土地それぞれに歴史あり。
すごいことだなぁ。


【奥平城の史跡看板】


【奥平家発祥之地碑】



  


2018年07月08日

史跡看板散歩-99 天久沢観音堂

吉井インター直近の「牛伏山自然公園」入口に、「天久沢(あまくざわ)観音堂」の史跡看板が建っています。



「天久沢観音堂」は、ここから直線距離で400m、道のりでは800mも離れた所にありますので、現在地から観音堂までの略地図が描いてあります。
ぜひ行ってほしいという、地元の方々の気持ちがよく伝わってきます。

ただ欲を言えば、略図の向きを左に90度回転させると図と現地の方向が合うので、より分かり易くなったと思います。
ついでに言えば、案内ルート(赤線)が上信越自動車道の下を潜ってるように描かれてますが、実際は上を跨いでいますので、何かの折に修正して頂けたらと思います。
すみません、部外者がつべこべと。

その上信越自動車道を跨ぐ橋を渡ると、小高い丘の中腹に「天久沢公園」の看板が見えてきます。


駐車場に車を止めて、けっこうな鉄製の階段を上ると・・・、


なかなか、いい眺めです。


そりゃ眺めもいいはずで、武田信玄がここに陣を構えたというんですから。
実は、桜の季節も静かでいい穴場なんですよ。

(2006年4月撮影)

回廊状になってる桜の並木道から石段を上ると、「天久沢観音堂」があります。



昭和五十九年(1984)に改修された堂には、平成元年(1989)美しい天井絵と欄間絵が施されました。


観音堂の脇に、詳しい由来を書いた看板が建っています。


看板表題の「天久沢陣城」跡が、現在の「天久沢公園」です。


文中の「一郷山城」牛伏山に、



「新堀城」多比良(たひら)の普賢寺の所にあった砦です。


位置関係はこうなります。


それにしても、信玄はよくまあここまで出張ってきたものです。
「天久」という馬は、きっと天翔けるように速く走れたのでしょう。
馬に乗れる人はいいけど、ついてくる徒歩きの兵隊さんはさぞ大変だったでしょうね。

大変といえば、観音堂の正面にものすごく急な石段があります。

きっと昔はこれが参道だったんでしょう。

やめようかと思ったんですが、覚悟を決めて下りてみると、「牛伏大橋」の袂に出ました。


やれやれ、また上るしかありません。


162段ありました。
ふー。


【天久沢観音堂の史跡看板】


【天久沢観音堂】



  


2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】