2018年06月24日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2)

「新町商工会館」「新町公民館」の建物の先にあるのが「堂場墓地」です。


「境野翁顕彰碑」は、墓地北の三差路にありました。
正確には、「境野清衛翁碑」でしたが。


養蚕技術の研究と伝習に生涯を尽くした人物のようです。


おどろきました。
墓地の北西角に「閻魔堂」があるんですが・・・、


その脇に、「神流川合戦戦歿者供養塔」というのが建ってるじゃありませんか。


その左側面には、
天正十年盛夏 滝川北条両軍六万数千 神流川ヲ中心ニ合戦ス 多数の戦歿将士ハ 茲ニ埋葬サルト伝ハル
当山四百二十年祭式典に嚴修スルニ当リ 供養塔一基建立シ回向ヲ呈ス
昭和三十九年四月二十一日 宝勝寺」
と刻んであります。
前回の「新町明治百年史」の記載とぴったし合うじゃありませんか。
再掲します。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

たしかに、ここ「堂場墓地」の所なら、塚を崩した土で道を補修したという「泉横丁」はすぐ近くです。


因みに、「宝勝寺」小判供養塔のあるお寺、「泉横丁」はその小判が発見されたところです。

それにしても、「首塚八幡宮」近くの字「堂場」から遠く離れたこの墓地が、なぜ同じ「堂場」なんでしょう。
「閻魔堂のある場所」「堂場」なんでしょうか。
ということは、「字堂場」にも何らかの「お堂」があったんでしょうか。
それとも、首を失った「胴」が散らばっていた「胴場」なんでしょうか。
うーん、わからん。

さて一方、「首塚八幡宮」のある「実見塚」からは、どうも骨は見つかってなさそうです。
新町10区実見塚地内にある塚は、昔から神流川合戦の首塚と伝えられている。
塚の上に古い石のほこらがあるも文字等の刻まれた形跡はない。
昔は塚の上に老松あり、塚の高さも2丈近く(6m余)あったので、武州児玉町から塚の上にある老松が見渡せたと言われている。
明治、大正の頃、ひそかに塚を掘りかえし、刀剣類を捜す人達があって、塚がくずれ、現在は低い。
昭和37年(1962)建碑当時は、塚とは名ばかりで台地となっていた。
塚一面に雑木、雑草がおい茂るヂャングルであった。
それでもこのほこらに願かける人もあって、草むらをかき分け、参拝に見えられた跡がある。首から上の病には祈願すれば効験があると言われている。
建碑の有志の方々が、このヂャングルの雑木、雑草を除き、かやの古木(相当年数を経過したもの)1本を残し、合戦の由来を刻した首塚跡と首塚八幡宮の石碑2基の建設に奉仕した。」
(新町明治百年史)

ここ、本当に「首塚」だったんでしょうか?


ま、その昔、数人の支配者の野望によって、将兵、軍馬、それに巻き込まれた住民が、この一帯で多くの命を落としたことは事実なのでしょう。

最後に、神流川合戦の顛末をうまくまとめてある、「胴塚稲荷古墳」の説明板をどうぞ。



【神流川合戦戦没者供養塔】


【境野清衛翁碑】



  


2018年06月17日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1)

新町の南端と言っていいでしょう、藤岡に近い字「実見塚」(じっけんづか)に、「首塚八幡宮」があります。



「実見塚」という字名は、看板にもあるように、神流川合戦で討ち取った者の「首実見」をし、それを埋めた「塚」があったという言い伝えからきているようです。

前からある史跡看板には、ここの西に「胴塚」もあると書いてあります。


行って見ると、民家と民家の間の路地の奥に、それらしい鳥居が見えます。


そこは藤岡市の指定史跡で、「胴塚稲荷古墳」となっています。


こちらの看板には、逆に「首塚」のことが書かれています。

ところがその「首塚」ですが、どうも首を埋めたのはここじゃなさそうなんです。
「新町明治百年史」に、こんな話が載っています。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

ということで、骨が出てきたのは「堂場」という所だそうなんです。


崩した塚があったのは「境野翁頌徳碑」あたりだというので、字「堂場」と思しき地域を歩き回ってみましたが、その碑が見つかりません。
「堂場郵便局」や、昔からやっていそうな店に飛び込んで聞いてみましたが、そんな碑は見たことがないと言います。

新町支所へも行ってお尋ねしましたが、初めて聞く話だということです。
それでも、調べてみて分かったら連絡を頂けるというので、名刺を渡しておきました。
すると1時間ほどして電話があり、「碑のある場所が分かった。」というのです。

新町商工会の所に「堂場墓地」というのがあり、そこに「境野清衛」という人の碑が建っているということでした。
しかし、そこは字「堂場」から北へ直線距離で1kmも離れています。
「?」とは思いましたが、行って見ることにしました。

長くなりそうなので、次回へ続けます。


【首塚八幡宮】


【胴塚稲荷古墳】



  


2018年06月10日

史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場

新町の東端、「神流川橋」の袂に、「神流川合戦古戦場跡」の石碑やら、史跡看板やら、いろんなものが建っています。




これらが建っている場所は、小字名で「陣馬」と呼ばれ、滝川方が陣を構えた場所と伝えられています。
その場所にいま自衛隊が陣を構えているというのも、なにやら面白いことです。


その対岸の小字「勝場」北条方が勝鬨を上げたところ、本庄の小字「御陣馬」北条方が陣を構えたところと伝わるなど、神流川合戦に由来するとされる字名が残っています。

「新町七区の諏訪神社」に出てくる「毘沙吐村」は、まさに主戦場であったに違いありません。
「神流川合戦」の看板に書かれている「東歌」(あずまうた)について、「毘沙吐村」から移された「七区の諏訪神社」に説明看板が建っています。


お時間のある方は、動画でご覧ください。


次回は、北条方が滝川方の首実見を行ったという「首塚八幡宮」を訪ねてみます。


【神流川合戦古戦場史跡看板】



  


2018年06月03日

史跡看板散歩-95 新町五区の諏訪神社

前回の「諏訪神社元宮」の場所から移設されたのが、五区にある「諏訪神社」です。


「元宮」の史跡看板は、ここに建てれば説明文そのままでよかったのにと思います。


旧中山道沿いの一の鳥居から参道を50mほど進むと、境内に入ります。


二の鳥居を潜って直角に曲がると神殿があるような配置になってますが、これについては、こんな話があります。
伝えによると中山道の南側に小千木良と呼ばれた旧家が北向きに参道の直前にあった。
笛木村からこの神社が遷座される際、神殿と向きあう形になるので、不敬に当たらぬようにと神社を東向きにしたのだという。」
(新町の神社と寺院)

拝殿前に、石造りの立派な由来碑が建っています。


最後の段に、明治三十九年(1906)の社殿全焼のことが刻まれていますが、日露戦争大勝祝賀会の神社の提燈が火元だったそうです。(新町の神社と寺院)

昭和十年(1935)に再建された本殿には、素晴らしい彫刻が施されています。



花咲か爺にしちゃ変だな、と思いつつ他の二面を見ると・・・、

楠木正成新田義貞だったので、児島高徳だと分かりました。
「太平記」がモチーフだったんですね。

境内の一番奥へ行って見ると、こんなのがありました。


洪水で埋まっちゃったのかと思いましたが、そうじゃありませんでした。


後ろ側に埋まっているのが、昔の「二の鳥居」、こんな風に建っていました。


手前に埋まってるのが、昔「一の鳥居」です。


新町「残す文化」を代表するような鳥居ですね。
すばらしい!


【五区諏訪神社】