2010年03月07日

三国街道 帰り道(10)

棟高町「堤下公園」の一角に、こんな写真の付いた石柱が建っています。

誰だろう?と思いましたが、写真の下に「山村暮鳥詩仙」と刻まれていたので、「あぁ、山村暮鳥ね。」と思いつつ、どういう人かほとんど知らない自分に気づきました。

恥ずかしながら、傍らの碑文を読むまで、旧群馬町出身の人だということすら知りませんでした。

碑文によると、暮鳥「明治十七年(1884)一月に群馬町棟高に生まれ、本名木暮八九十で後に土田姓となる。」とあります。

しかし「堤ヶ岡村誌」によると、もっと複雑な経緯があるようです。

戸籍上は、棟高村志村庄平の二男・八九十(はっくじゅう)となっていて、木暮姓ではありません。
そして実のところは志村庄平の二男でもなく、庄平の長女・シヤウ(しょう)の長男なのだそうです。

暮鳥には妹がいますが、その妹・アサは明治二十一年(1888)の生まれで、シヤウの私生児として届け出されています。
暮鳥も、そのような複雑な生い立ちであったのでしょう。

母親のシヨウはその翌年に総社村に嫁いでいますが、その相手が木暮久七という人で、暮鳥はそこの養子となって木暮姓に変わる訳です。

そして、土田姓になるのは暮鳥29歳の大正二年(1913)、師事している牧師の娘で、18歳の土田富士と結婚してのことでした。
暮鳥は、この富士にぞっこんだったようで、こんなのろけ話を書き残しています。
「牧師の秘蔵の一人娘なんです。(略)性質は温良、輪廓も整ってゐます。不思議な匂ひのある黒い長い髪毛。皮膚の光沢。愛嬌の蟻地獄の靨(えくぼ)。活々した眼。可愛らしい口辺。」(秋田魁新報より)
いいかげんにしろ!
と言いたくなるほどです。

碑文にはまた、「幼くして秀才の誉れ高く、十六歳の時に堤ヶ岡小学校の代用教員となる。」とあります。
しかし、堤ヶ岡小学校に残る当時の履歴書には、明治十五年生まれとなっているそうで、どうやら年齢を二つほど多く誤魔化していたようです。

詩碑に刻まれているのは、暮鳥の処女詩集で、その名もものすごい「三人の処女」という中の一篇です。

  「独唱」
かはたれの
そらの眺望(ながめ)の
わがこしかたの
さみしさよ。
そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。

そうそう、小学校の教科書に出てきたこの詩が、暮鳥の詩だったということをすっかり忘れていました。
    おーい雲よ
    ゆうゆうと ばかにのんきそうじゃないか
    どこまでゆくんだ
    ずっと いわきだいらの方まで ゆくんか


はっきり言って、当時は「なんのこっちゃい?」という感じでしたが、今、この詩は3つの部分に分かれていることを知りました。

  「雲」
    丘の上で
    としよりと
    こどもと
    うつとりと雲を
    ながめてゐる

  「おなじく」
    おうい雲よ
    いういうと
    馬鹿にのんきさうぢやないか
    どこまでゆくんだ
    ずつと磐城平の方までゆくんか

  「ある時」
    雲もまた自分のやうだ
    自分のやうに
    すつかり途方にくれてゐるのだ
    あまりにあまりにひろすぎる
    涯(はて)のない蒼空なので
    おう老子よ
    こんなときだ
    にこにことして
    ひよつこりとでてきませんか


それでも、まだ分かるような、分からないような・・・。
でも、この「雲」という詩集の序文を読んで、何となく分かるような気持にもなりました。

「人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。
 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。」


暮鳥は、この詩集「雲」を編集中の大正十三年(1924)、茨城県大洗町にて40歳の若さでこの世を去ります。
山村暮鳥というペンネームは、詩人・人見 東明(ひとみ とうめい)から、「静かな山村の夕れの空に飛んでいくという意味をこめて、つけてもらったものだそうです。

小学校の先生、こんなエピソードを話してくれていたら、暮鳥のこと忘れなかったのになぁ、と、何でも人のせいにする迷道院でした。

(参考図書:「群馬町誌」)


【堤下公園 山村暮鳥詩碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
Comments(6)三国街道