2010年03月30日

号外!「群馬伝統銭湯大全」

「隠居の思ひつ記」を始めて間もない2009年01月04日、「高崎に残る「湯屋」めぐり」という記事を書いたことがあります。

その時お世話になったのが、「めっかった群馬」さんのHPでした。
とにかく、群馬県内の銭湯を実際に入って記事にしているのですから、すごいんです!
人見知りの激しい迷道院は、銭湯の外観だけこっそり撮影し、内部は「めっかった群馬」さんの記事をちゃっかりリンクさせて頂きました。

その「めっかった群馬」さんのオーナー・抜井諒一さんが、このたび、その探訪記を一冊の本にまとめて出版されました!

抜井さんとはメールのやり取りもしていたのですが、正直、もっとご年配の方だとばかり思いこんでいました。
新聞で見て、こんなお若い方だったと知り、吃驚仰天です!

抜井さん、ご出版おめでとうございます!


  


Posted by 迷道院高崎at 19:38
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2010年03月28日

三国街道 帰り道(15)

一週間のご無沙汰でした。迷道院高崎でございます。

大八木町南交差点を東に折れて100mほど行くと、左側に大きな石灯籠があります。

「大八木の高燈台」と呼ばれていて、ここから北へ向って井野川を渡ると「諏訪神社」があります。
その「諏訪神社」の参道入り口を示すための灯籠なのでしょうが、それにしても大き過ぎます。

また、この灯籠には不思議なことがいくつかあります。
ひとつは、「文化十二年・・・」の文字が塗り消され、新たに「明治二十四年・・・」と刻まれていることです。
さらに、「諏訪神社」の参道にありながら、台石には「金毘羅大権現」の文字も見えます。

実はこの灯籠、もとは中山道新町宿神流川(かんながわ)岸に建っていたものだそうです。
それを、大八木で明治二十四年(1891)に買い取ったというのです。
山内種俊氏著・「上州の旧街道いま・昔」には、こんな話が載っています。

「明治二十四年大八木石灯籠が欲しいことがあり、うわさに新町に廃物があると聞いた。
そこでこれを正常のルートを経ずに一種のボスの働きで、包み金で買ってきたといわれる。
そして金毘羅大権現文化十二年(1815)の文字を削り取った---
しかし文字ははっきり見える。
これについて大八木側は、新規に設置ということで削ったという。
のち新町の文化人の間で、郷土再認識熱も高まり、この灯籠に強い執着をもち、再三の返還を求めたが、大八木側が譲らず、やむなく新町三差路の角に、新しい石造りの見通し灯籠を再建した。」


その新町の、再建された「見通し灯籠」が、右の写真です。→
昭和五十三年(1978)に再建されました。

その傍らには、「見通灯篭再建之記」という石碑が建てられています。↓
この碑文を読むと、再建への熱意がひしひしと伝わってきます。

碑文にもありますが、「見通し灯籠」とは中山道を往来する旅人が、夜間に神流川を渡るための目安としたものだそうです。
本庄側に一基、新町側に一基を設けて渡る場所を見通すということから、「見通し灯籠」あるいは「見透かし灯籠」と呼んだようです。

右の図は、浮世絵師・渓斎英泉による、木曽路六拾九次の内、「神流川渡し場」の図です。

手前側が本庄宿で、「見通し灯籠」も描かれています。
向こう岸は新町宿で、その向こうに見える山並みは上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)と日光男体山・浅間山だそうです。

因みに、本庄宿の灯籠は、本庄宿名主・戸谷半兵衛が建立したもので、明治二十年代に埼玉県上里町大光寺境内に移されています。

一方、新町宿の灯籠はその資金集めに苦労したようで、「再建之記」碑にも、約十年かけて資金を蓄えたとあります。
これには、かの俳人・小林一茶も関わっています。

雨で烏川の川留めにあった一茶は、新町宿高瀬屋に泊ることになりますが、夜五更(午前3時~5時)頃、専福寺と書いてある提灯を提げた男に起こされて、灯籠の寄付をせがまれます。
懐の寂しい一茶は断りますが、なおもしつこくせがむ男に、ついに十二文を渡すことになります。
何を言っても許してもらえない己が姿を、「閻魔の前に蹲(うずくま)る罪人のようだ」と表現しています。
そして、こんな句を残しています。
   「手枕や 小言いふても 来る蛍」
「蛍」とは、提灯を提げた男のことでしょう。
これが、「再建之記」碑にある、「一茶の七番日記」の話です。

国道17号の神流川に架かる「かんなかわはし」の欄干には、やや小ぶりの「見透灯籠」が、新町側と本庄側に載せられています。

その下には、ちゃんと「見透灯籠」のいわれが書いてあります。

一方、本物である「大八木の高燈台」には、何の由来も書かれていません。
台石に、由来を刻んだプレートでも埋め込められないものでしょうか。


【大八木の高燈台】

【新町の見通灯籠】


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Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(12)三国街道

2010年03月22日

号外!「高崎寄席 新町演芸館」

「勝手に紫文応援団」の、迷道院高崎です。
同じく団員の昭和24歳さんも、勝手に応援してましたね。
「爆笑、柳家紫文 !!!」

で、その柳家紫文師匠が、新町文化ホールで凱旋公演です!

毎年定例のこの寄席、今年でもう3年目だそうです。
6月6日なんてまだ先の話だなんて、油断しちゃいけません。
毎回350人ほどの入りだそうです。
チケットお買い逃がし無きように!

チケットは、下記の施設で購入できます。
◆群馬音楽センター ☎027-322-4527
◆高崎市文化会館 ☎027-325-0681
◆高崎シティギャラリー ☎027-328-5050
◆箕郷文化会館 ☎027-371-7211
◆新町文化ホール ☎0274-42-9133
◆榛名文化会館 ☎027-374-5001
◆吉井文化会館 ☎027-387-3211
◆高崎市倉渕支所 ☎027-378-4522
◆高崎市群馬支所 ☎027-373-1212

《お知らせ》
「隠居の思ひつ記」は、1週間のお休みを頂きます。


【新町文化ホール】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:03
Comments(2)柳家紫文

2010年03月21日

号外!「旧三国街道フットパス網計画」

三国街道 帰り道(14)の記事に、ふれあい街歩きさんからコメントを頂きました。

「話は変わりますが、3月18日付の上毛新聞「視点」欄に、旧三国街道の歴史的遺産を地域振興に活用する「旧三国街道フットパス網計画」が進められているとの記事が出ていました。」というものでした。

実は私も、「おっ!」と思って、切り抜いておいた記事です。
寄稿者は、関東森林管理局赤谷森林環境保全ふれあいセンター所長の田中直哉さんです。

田中さんは沼田市にお住まいですが、高崎飯塚の分去りから月夜野金比羅峠まで、旧三国街道を歩かれたとのことです。
歩いて感じたこととして、「あと数年ほっておくと完全に読めなくなってしまう石碑や、放置されている史跡が散見され、(略)正直もったいない気がしました。」とあります。

田中さんが関わる「赤谷プロジェクト」では、豊かな自然環境や歴史的遺産を地域振興に活用するため、「旧三国街道フットパス網計画」の検討を進めているそうです。
詳しくは、新聞記事をご覧ください。



高崎も、刻々と歴史的遺産が消えてそうな気がします。

何かせねば・・・。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
Comments(4)三国街道

2010年03月19日

三国街道 帰り道(14)

大乗寺山門左の土堤上に、忠霊塔が建っていますが、なぜか参道に対して裏向きになっています。
以前「裏返え碑」という記事を書いたことがありますが、それと同じような理由があったのかなと思いました。

ところが、上毛文庫出版の「ぐんまのお寺」を見ると、「戦後、南向きの山門参道が東側に移され・・・」と書いてありました。
ということで、戦前は参道が「堤ヶ岡幼稚園」側にあったんですね。

前回の記事で、大乗寺を仮校舎として「発育学校」が創設されたと書きましたが、明治二十二年(1889)の堤ヶ岡村発足時には、村役場大乗寺境内に置かれ、戦後、その跡に設置されたのが「堤ヶ岡幼稚園」です。
ところで、大乗寺の本堂は戦前まで茅葺屋根だったそうです。
そのまま維持できていたら、素敵でしたね。

昭和三十年(1955)に建てられた「忠霊塔」の裏には、「内閣総理大臣 鳩山一郎」と刻まれたプレートが埋め込まれています。
今をときめく、鳩山由紀夫総理大臣の祖父です。

塔の下には、日清戦争から大東亜戦争まで、戦死した堤ヶ岡村出身兵士179名の名前が刻まれています。
その内訳をみると、大東亜戦争が如何に大きな戦争であったかが分かります。
・日清戦争1名
・日露戦争6名
・西伯利亜(シベリア)事変2名
・上海事変2名
・大東亜戦争168名

その隣には、明治四十年(1907)建立の、「日露戦役紀年碑」が建っています。

こちらの碑は、大国露西亜(ロシア)に勝利して二年後ですから、建立者も「堤ヶ岡尚武會」、題字は乃木希典の書と、威勢の良さが感じられます。

碑の裏には、戦死者6名の他に、従軍者67名の名前も刻まれています。
その従軍者の中に、「三国街道 帰り道(4)」に登場する、「兵隊友さん」こと植木友作さんの名前もありました。

大乗寺の墓地の奥まったところに、変わった墓石が建っています。
の上に乗った墓石です。

「堤ヶ岡村誌」の口頭伝承の項には、裏の池にいた亀を石だと思って乗った人が、転んで打ち所が悪かったのでしょうか亡くなってしまい、その人が葬られた墓だと書かれています。

また、昔、棟高村「かめ」という名の娘がいて、生まれつきの不器量のために縁遠く、ついに独身のまま寂しく世を去ってしまい、家人がこの娘の霊を慰めるために建てたのだ、という話も載っています。

事の真偽は分かりませんが、まるで違う話が伝わっているということは、古くから無縁仏だったのかも知れません。

さて、堤ヶ岡の寄り道はここまで。
また帰り道を進むことに致しましょう。

【大乗寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2010年03月17日

三国街道 帰り道(13)

「山王の猿」の前から少し南へ行くと、「大乗寺」があります。

このお寺、「寺院明細帳」では開基・創建由緒不詳となっていますが、代々名主の志村家で所蔵する享保十九年(1734)の文書には、開基は志村家の祖・監物尉挙尊(けんもつのじょう・よそん)で、開山は正和元年(1312)と記されています。

志村家とは、前回の記事で「山王の猿」のことを教えて頂いた、あの志村繁夫さんのお宅です。

志村繁夫さんの曾祖父は、志村彪三(ひょうぞう)という人です。
この人は、「三国街道 帰り道(7)」の中で、「中野秣場騒動」の仲裁役として一度登場しています。

彪三氏は、弘化三年(1846)に棟高村で生まれ、16歳にして亡父の跡を継いで名主になっています。
その後、区長、村会議員、県会議員、そして初代・堤ヶ岡村長も務めています。

特に、争いごとの仲介に長けていたようで、明治二年(1869)中里村足門村の水争い、明治十二年(1879)天狗岩堰の紛擾、そして明治十四年(1881)前述の「中野秣場騒動」など、いくつもの紛争の和解に力を発揮しています。
そんなこともあってか、村人からは畏敬の念を以って、「志村様」とか「おや玉」とか呼ばれていたそうです。

また、彪三氏は教育にも力を入れた人物で、明治五年(1872)に学制が頒布されるや、いち早く大乗寺を仮校舎として「発育小学校」を創設します。
この時の教頭が「中野秣場騒動」の大総代・真塩紋弥ですから、何とも皮肉というか、彪三氏が仲裁役を買って出た所以だったのかも知れません。

「発育小学校」創立当初の児童数は三十数名でしたが、その後「棟高小学校」、「西群馬第十一小学校」、「棟高尋常小学校」、「堤ヶ岡尋常小学校」と変遷する内、明治三十年(1897)には児童数二百五十余人と増えていきました。
そこで、新たに学校用地を求めて新校舎を建設することになります。
ここが、現在の「堤ヶ岡小学校」です。
その二年後に、この小学校の教師になったのが、山村暮鳥という訳です。

今回もまた、過去記事に登場した人物が、みな繋がり合っているということに、何とも不思議な思いを致しました。

郷土の点を線でつなぎ、線と線を結んで面にする。
そこに、歴史観光都市のヒントがあるような気がします。

(参考図書:「堤ヶ岡村誌」、「ぐんまのお寺」)


【大乗寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2010年03月14日

三国街道 帰り道(12)

棟高「胸形神社」を後に、「大乗寺」を目指しました。

角を曲がると、庚申塔の並ぶ一角がありました。

その中の一つが、何やら赤と白の布を腰巻風に巻いていて、目を引きます。


そばに寄ってみると、どうやらのようです。

「旧三国街道 さ迷い道中記(2)」にも書きましたが、お猿さん庚申様のお使いなので、それなんだろうな、と思いました。

でも、気になるのは赤い腰巻です。

めくってみたい衝動に駆られましたが、曰く因縁があったりすると恐いので、誰かに聞いて見ようと思い、近くの「堤ヶ岡公民館」へ行ってみました。

事務所の方は、「えー?そんなのがあるんですか?」という反応でしたが、偶々いた大正琴サークルの方から、有力な情報を頂きました。
「昔からあの庚申様をお祭りしている家がある。」というのです。

早速そのお宅を訪ねると、ご主人らしき方がちょうどお庭の手入中でした。
耳がご不自由なようでしたので、筆談での取材となりました。
志村繁夫さん、大正十三年(1924)生まれの86歳の方でした。
志村さんのお家は、代々この地の名主という家柄で、今でも春と秋に、あの庚申様のお祭りをしているのだそうです。

「あの猿の像を、何と呼んでますか?」とお聞きすると、
「山王様とか、山王の猿とか言ってらいね。」とのことです。

「赤い布は何か意味がありますか?」とお聞きすると、
「あー、あれは女の猿なんだよ。
娘が初めて女になった時(初潮)に、お赤飯を供えて、猿のあそこ(陰部)に紅を塗るんだいね。
あとは、子どもが腹に入った時とか、無事生まれた時とか。
お礼に、布を巻くんさ。」

というお話でした。

志村さんは、「ちょっと、行ってんベー。」と言うと、どんどん歩きだしました。
お猿さんの所へ来ると、
「これだんべ?」と言いながら、やおら腰巻のひもを解き始めました。
「いんですか?」と言うと、
「俺がやる分にゃ、いんだい。」ということで、お猿さんはすっかり裸にされてしまいました。

なかなか、大胆なポーズです。
片方の手は豊満な乳房を支え、いわゆるあそこは、リアルに穴まで開いています。

これは、腰巻を巻いておかないといけないかも知れません。
すぐ上には「堤ヶ岡保育園」、近くには「堤ヶ岡幼稚園」「堤ヶ岡小学校」もありますし。

写真を撮らせて頂いてから、急いで腰巻を巻き直しました。

ところで、「山王様」の総本宮は、平安時代からある滋賀県大津「日吉(ひえ)大社」です。
で、「猿」がそのお使いだということではあるのですが、堤ヶ岡のような風習はなさそうです。
「神猿(まさる)」(日吉大社ホームページ)

そう思いながらネットで探していると、ヒントになるサイトを発見しました。
神使研究家・福田博通氏の「山王=大山咋神(オオヤマクイノカミ)の猿」という記事です。

ここには、「加茂玉依姫(カモタマヨリヒメ)は、川上から丹塗りの鏑矢が流れてきたので、持ち帰って寝床に差しておいたら妊娠した」と書かれています。

堤ヶ岡「山王の猿」の陰部に穴があいていること、そこに紅(朱)を塗るということは、どうもこの逸話から出ているのではないかと思われます。

改めて、昔の人の知識と信仰心の深さを思わせる「山王の猿」でした。

最後に、同じような風習のある、船橋八坂神社もご覧ください。
「八坂神社の猿軍団」(東京刺激クラブさんのブログ)

【山王の猿】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2010年03月12日

三国街道 帰り道(11)

「堤下公園」山村暮鳥詩碑から坂を登ると、「胸形(むなかた)神社」があります。

「胸形」という文字に、つい、あらぬことを想像してしまうのですが、またまた当て字のようでして、胸の形とは関係ありません。

伝説によると、この神社の創立は景行天皇五十五年(125)だそうですから、1800年以上も前ということになります。

どうもこの辺りには、景行天皇の名前がちらほら登場します。
「旧三国街道 さ迷い道中記(11)」では、「足門」という地名の由来がやはり景行天皇にあるとされていました。

因みに、現在の「胸形神社」の社殿は、宝暦二年(1752)に再建されたものだそうです。
それにしても260年前なのですから、大したものです。

で、「胸形」ですが、これは「宗像(むなかた)」なのだそうです。
遠く九州にある本家本元の「宗像大社」は、航海安全の守護神です。
海の無い群馬に、なぜその神様が祀られているのか、不思議な話です。

そもそも「胸形神社」は、明治初年まで「八幡神社」と呼ばれていました。

お馴染になった堤ヶ岡村の小字名の図を見ると、「胸形神社」のあるところは確かに「南八幡街道」となっています。

「八幡神社」「胸形神社」と改称されたのは、明治七年(1874)です。
当時、「八幡神社」の祠掌をしていた深井清雄氏が改称を申請したのですが、その願状にはこのように書かれています。
  「当社ハ中古以来八幡神社ト相称シ候得共
   其ノ根元ヲ尋ヌルニ本社ハ筑前国宗像郡神社也」


「昔から八幡神社と言ってるけど、その根元は九州福岡宗像神社なんだよ。」という訳です。

また、その根拠について綿々とつづっています。
  「当国神明帳ニモ群馬西群之内ニ従四位胸形明神アリ、
  則チ棟高村ノ鎮座八幡神社也、
  祭神ハ右ニ言宗像三坐ニテ、(略)三社現然有之候処、
  罹治承四年之災不残焼失」


「上野国神明帳にもこの辺に胸形明神があったと書いてあるし、祭神は宗像三女神で、ちゃんと三つの社もあったんだけど、治承四年(1180)の災難※1でみんな焼けちゃったんだよねー。」と言っています。
※1治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん):源頼朝の挙兵から、平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの内乱。
「胸形明神」は、平家方に属した足利太郎俊綱によって焼かれたと伝えられる。
さらに、
  「当今社東ニ名所三社免ト相唱ヘ
   棟高菅谷引間三ヶ村一円ニテ現存候上ハ
   宗像三社跡の一古微ト奉存候」

「この神社の東に三社免という地域があるのは、昔、宗像三社があったという証拠だと思う。」と言うんですね。
確かに、小字の図を見ると、右上に「西三社免」と書かれた所があります。
全国にある「免」という字のつく地は、年貢を免除されていた所で、寺や神社の近くが多いようです。
年貢を納める分を、寺社に寄進しなさいということなのでしょう。

根拠の説明はまだ続きます。
  「且亦近傍土俗ノ遺説ニモ棟高ハ元宗像ナリシヲ
   後世ノ人誤テ棟高ト書或ハ唱エ候と古老ノ申伝ヘモ有
   之カタタカハ通音ナリ」


「ここの地名にしても元は「宗像」なのに、後世の人が間違って「棟高」にしちゃったんですよ、だってほら、「カタ」「タカ」って音が似てるでしょ。」と必死の説得です。
その熱意が通じたのでしょう、見事「胸形神社」に改称することができたんですね。

ところで、「海の無い群馬に、何故、航海安全の守護神が?」という疑問ですが。
一説には、上野国からの防人が帰還する時に、筑紫国の人とその守護神を連れて来たのだといいます。
なぜ筑紫の人を連れて来たかというと、上野国分寺の造営に先進地の技術者が必要であったから、という説です。(近藤義雄氏著「上州の神と仏」)

群馬にいる宗方さんや宗形さんも、もしかするとその時のご子孫なのでしょうか。
「胸形神社」は、古代ロマンにつながっていたんですね。

(参考図書:「堤ヶ岡村誌」)


【胸形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:43
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2010年03月09日

親父が旅立った日

5年前の今日、親父は旅立ちました。
もっとずーっと昔のことのように思えるのですが・・・。

明治四十一年(1908)生まれ。
←13歳で浅草の両替商へ奉公に出された時の写真だと聞いています。

浅草で大震災に遭ってから、本庄に移って床屋の修行に入ります。
以来、腕一本で妻と二人の子を養い、70歳まで仕事を続けました。

明治生まれの職人ですから、とにかく短気だったようで、母と姉は大変な思いをしたようです。
私は、親父が歳いってから出来たので、あまり短気を起こしている姿を見たことはないのですが、その性格だけはしっかり受け継いでいるようです。

負けず嫌いで、スポーツ好きで、花札、麻雀、将棋、囲碁といった勝負ごともめっぽう強かった親父でした。
隠居してからもゲートボールに熱中し、部屋の畳は練習のスティックで擦り切れてしまう始末。
短気な性格も健在で、公園での練習中に仲間とケンカして帰って来てしまい、しばらくは部屋で寂しそうにしていますが、何日かするとまた出かけていくという毎日でした。

そんな親父も、80歳の時、ケンカ相手だったを亡くしてからは、部屋でテレビを見る毎日で、週に一回行くデイサービスだけを楽しみにするようになりました。
ひたすら、「若いもんに迷惑を掛けない」ということだけを考えているように見えました。

旅立った年、偲ぶ会を前に、親父の97年間を年表にしてみました。→

あらためて、時代というものの変化、人間の一生、老いるということの難しさ、などなど、考えさせられることが沢山ありました。

最近、自分の年に、親父はどんなことを考えていたのかな、と思うことが多くなりました。

雨からみぞれ、そして雪になった今年の命日。
明治・大正・昭和・平成という時代を生き抜いた親父に、こんな曲を贈りたくなりました。



  


Posted by 迷道院高崎at 15:20
Comments(18)◆私事雑感

2010年03月08日

号外!「高崎に住んでた山本勘助」

昨年の12月、「次」か「治」か?の記事に、高崎市史編纂委員の中村茂先生から、こんなコメントを頂きました。

「九蔵町大雲寺に武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるので、宣伝して下さい。
墓には「助」とありますが、「次」「治」と同じく、文字が違っても一向に差し支えありません。甲陽軍鑑が「勘」を使ったので、その後の書物が「勘」を使用しているのです。
山本家は山城国淀藩に仕えたが、改易のため浪人となり、大河内家の祖松平信興の土浦藩に就職しました。
近く、群馬の森の県立博物館の黒田館長が、館長講座で高崎藩士山本家の由緒を発表します。」


えぇっ!?と思いました。
山本勘助って、川中島の合戦で戦死したはず。
その子孫の墓が高崎にあって、墓には「菅助」と書いてある?
頭の中、ぐじゃぐじゃです。

で、待ち遠しい思いで待っていた、県立歴史博物館・黒田日出男館長の講座「山本勘助の江戸時代」を、3月6日(土)に聞きに行ってきました。

黒田館長のお話では、山本勘助はつい最近まで、架空の人物であるというのが近代歴史学の定説となっていたと言います。
ところが、平成二十一年(2009)六月、安中市原市で薬屋を営んでいた真下家から、山本勘助実在を証明できる可能性のある書状が見つかったのだそうです。
調べたら、6月11日の上毛新聞に、載っていましたのでご覧ください。


この文書は、明治維新により禄を失った山本家が、生活のために甲冑などと共に手放したものであろうということです。
それが、安中真下珂十郎の入手するところとなり、真下家所蔵文書として伝来したのだろうという訳です。

実はこの文書、明治二十五年(1892)に東京大学史料編纂所へ持ち込まれたことがあるのです。
持ち込んだのは、山本菅助の十三代目にあたる山本喜三氏でした。
ところが、原本は既に売却されていたため、持参したのがその写しだったことから、「偽文書」扱いされてしまったのです。
もしもその時、原本が持ち込まれていたなら、山本菅助架空人物説は崩れていたでしょう。

その原本が、今になって見つかったのですから、大騒ぎです。
黒田館長は、
「もはや、山本菅助を架空・虚構の人物とすることは絶対にできない。
近現代の歴史学の方が不明を恥じ、菅助に謝らなければならないのである。
これは、歴史学が生み出した冤罪だったのだ。」

と仰っています。

因縁めいた話ですが、黒田館長は元・東京大学史料編纂所長をされていたのです。

さて、山本菅助高崎の関係ですが、四代目山本菅助※1(晴方)が松平家に奉公したことで、元禄八年(1695)松平輝貞壬生から高崎城主として転封されたのに伴い、菅助も五代目以降十二代目の明治維新まで高崎藩に仕えることになりました。
※1三代目・山本菅助が、寛永十年(1633)下総古河城主・永井信濃守に仕えた折、代々山本菅助を名乗れと命じられ、以降、山本家当主は代々菅助を名乗る。

コメントを下さった中村茂先生は、高崎藩史の地道な研究の過程で、藩士の墓を一つひとつ調査・研究されています。
その中で、山本菅助の墓を発見されたということで、黒田館長もそのお仕事を高く評価されていました。

雨の大雲寺へ、菅助の墓を探しに行きました。

正面に「山本菅助之墓」と刻まれてばかりいると思って、墓地を一回りしましたが、見つかりません。

二回り目でやっと見つけました。

←この一角が、山本家の墓地です。

写真が下手で、よく分からないかもしれませんが、「山本菅助入道道鬼七世孫 山本菅助菅原晴生」と刻まれています。→

高崎のこの一角に、伝説上の人物と言われてきた山本菅助の子孫が眠っているのです。
すごいことではありませんか!
歴史を塗り替えることになるこの遺跡を、高崎市が持っていたことに、驚きと、誇りを感じます。
そして、その貴重な歴史遺産を掘り起こして下さった、中村茂先生と、黒田日出男館長に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

最後に、心に残った黒田館長の言葉をご紹介いたします。
「歴史研究は時間との戦いです。
 今この瞬間にも、歴史資料はどんどん失われています。
 論文を書くことが歴史研究の仕事ではありません。
 歴史資料を確保し、残すことが
 歴史研究の最も大切な仕事です。」


【大雲寺 山本菅助子孫の墓】


  


Posted by 迷道院高崎at 00:21
Comments(14)◆高崎雑感

2010年03月07日

三国街道 帰り道(10)

棟高町「堤下公園」の一角に、こんな写真の付いた石柱が建っています。

誰だろう?と思いましたが、写真の下に「山村暮鳥詩仙」と刻まれていたので、「あぁ、山村暮鳥ね。」と思いつつ、どういう人かほとんど知らない自分に気づきました。

恥ずかしながら、傍らの碑文を読むまで、旧群馬町出身の人だということすら知りませんでした。

碑文によると、暮鳥「明治十七年(1884)一月に群馬町棟高に生まれ、本名木暮八九十で後に土田姓となる。」とあります。

しかし「堤ヶ岡村誌」によると、もっと複雑な経緯があるようです。

戸籍上は、棟高村志村庄平の二男・八九十(はっくじゅう)となっていて、木暮姓ではありません。
そして実のところは志村庄平の二男でもなく、庄平の長女・シヤウ(しょう)の長男なのだそうです。

暮鳥には妹がいますが、その妹・アサは明治二十一年(1888)の生まれで、シヤウの私生児として届け出されています。
暮鳥も、そのような複雑な生い立ちであったのでしょう。

母親のシヨウはその翌年に総社村に嫁いでいますが、その相手が木暮久七という人で、暮鳥はそこの養子となって木暮姓に変わる訳です。

そして、土田姓になるのは暮鳥29歳の大正二年(1913)、師事している牧師の娘で、18歳の土田富士と結婚してのことでした。
暮鳥は、この富士にぞっこんだったようで、こんなのろけ話を書き残しています。
「牧師の秘蔵の一人娘なんです。(略)性質は温良、輪廓も整ってゐます。不思議な匂ひのある黒い長い髪毛。皮膚の光沢。愛嬌の蟻地獄の靨(えくぼ)。活々した眼。可愛らしい口辺。」(秋田魁新報より)
いいかげんにしろ!
と言いたくなるほどです。

碑文にはまた、「幼くして秀才の誉れ高く、十六歳の時に堤ヶ岡小学校の代用教員となる。」とあります。
しかし、堤ヶ岡小学校に残る当時の履歴書には、明治十五年生まれとなっているそうで、どうやら年齢を二つほど多く誤魔化していたようです。

詩碑に刻まれているのは、暮鳥の処女詩集で、その名もものすごい「三人の処女」という中の一篇です。

  「独唱」
かはたれの
そらの眺望(ながめ)の
わがこしかたの
さみしさよ。
そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。

そうそう、小学校の教科書に出てきたこの詩が、暮鳥の詩だったということをすっかり忘れていました。
    おーい雲よ
    ゆうゆうと ばかにのんきそうじゃないか
    どこまでゆくんだ
    ずっと いわきだいらの方まで ゆくんか


はっきり言って、当時は「なんのこっちゃい?」という感じでしたが、今、この詩は3つの部分に分かれていることを知りました。

  「雲」
    丘の上で
    としよりと
    こどもと
    うつとりと雲を
    ながめてゐる

  「おなじく」
    おうい雲よ
    いういうと
    馬鹿にのんきさうぢやないか
    どこまでゆくんだ
    ずつと磐城平の方までゆくんか

  「ある時」
    雲もまた自分のやうだ
    自分のやうに
    すつかり途方にくれてゐるのだ
    あまりにあまりにひろすぎる
    涯(はて)のない蒼空なので
    おう老子よ
    こんなときだ
    にこにことして
    ひよつこりとでてきませんか


それでも、まだ分かるような、分からないような・・・。
でも、この「雲」という詩集の序文を読んで、何となく分かるような気持にもなりました。

「人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。
 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。」


暮鳥は、この詩集「雲」を編集中の大正十三年(1924)、茨城県大洗町にて40歳の若さでこの世を去ります。
山村暮鳥というペンネームは、詩人・人見 東明(ひとみ とうめい)から、「静かな山村の夕れの空に飛んでいくという意味をこめて、つけてもらったものだそうです。

小学校の先生、こんなエピソードを話してくれていたら、暮鳥のこと忘れなかったのになぁ、と、何でも人のせいにする迷道院でした。

(参考図書:「群馬町誌」)


【堤下公園 山村暮鳥詩碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
Comments(6)三国街道

2010年03月05日

三国街道 帰り道(9)

堤ヶ岡の小字名の図の中に、「旧飛行場」と書いてある所があります。

ここが、終戦直前に特攻隊の飛行訓練を行っていた「堤ヶ岡飛行場」です。

「堤ヶ岡飛行場」建設の動きが俄かに起こったのは、日本の戦局がそろそろ怪しくなっってきた昭和十八年(1942)のことでした。

陸軍航空本部の井上廣也主計大尉が、飛行場建設の説明のため堤ヶ岡村へ来ると、あっという間に、農民は土地売り渡しの調印をすることになります。

その結果、堤ヶ岡村136ha、国府村22ha、中川村2haの合計160haが飛行場建設用地となりました。

現在の地図にその区画を描いてみると、こんな感じでしょうか。→
売り渡しとは言うものの、支払は全て農地証券で行われたため、現金として受け取った人はほとんどいなかったようです。
終戦後、未払代金の請求を行っても、なかなか支払はなされなかったと言います。

そんな飛行場の建設は突貫工事で行われ、昭和十九年(1943)三月には初めての飛行機が着陸しますが、滑走路は金網を敷いただけの俄か造りだったそうです。
八月になると、「宇都宮飛行学校前橋教育隊」という呼称になり、特別操縦見習士官150名が入隊、少年飛行兵80名も古河から転属してきます。
訓練中の飛行機が、神社の屋根を壊したり、民家に墜落したりという事故もありました。
九月末には少年飛行兵は南方へ出発し、十月になると前橋教育隊は閉鎖、「熊谷飛行学校前橋分教場」と呼び名が変わります。

その分教場も昭和二十年(1944)二月に閉鎖されて、中島飛行機製作所(現・富士重工業)の分工場が疎開してきます。

そこで製作を始めたのが、当時の最新鋭戦闘機・疾風(はやて)でした。

昭和二十年(1945)三月、「堤ヶ岡飛行場」に到着したのが、特別攻撃隊「誠(まこと)隊」(通称:正気[せいき]隊)の36名です。
その月の二十六日に堤ヶ岡を後にした誠隊の隊員は、翌月、宮崎県新田原から出撃して沖縄洋上に命を散らしていきます。

誠隊堤ヶ岡を離れる直前、高崎女子高等学校の女学生三人が慰問に訪れ、手作りの人形を隊員に手渡しています。
その人形が、鹿児島県知覧特攻平和会館に展示されているそうです。
また、第三七誠隊小林敏男隊長の日記には、次のような短歌が残されています。
   赤城山 頂く雪の溶け初めて
           光のどけき 春訪れぬ
   故郷の 筑波の山の小さきに
           二十五年の 生命を想ふ


終戦間近になった昭和二十年(1945)七月、「堤ヶ岡飛行場」上空にグラマン戦闘機六機が飛来し、飛行場とその周辺を銃・爆撃します。
同じ時期に、所沢から「陸軍航空輸送部第九飛行隊前橋派遣隊」(奥村隊)83名が転属してきます。
まだ年端もいかぬ、十七・八歳の少年ばかりでした。
金古常仙寺本堂を宿舎にして一か月の飛行訓練の後、八月に特攻隊として編成されますが、終戦のため出撃することはありませんでした。

終戦後、「堤ヶ岡飛行場」跡地には米軍が駐留しますが、その後、開拓の許可を得て農民の手に戻ることになります。
この記事トップの、小字名の図の中に「入植地」とあるのが、その開拓地です。

戦争に翻弄された、堤ヶ岡の二年間でした。
今、そんな歴史も忘れ去られようとしていますが、貴重な戦争遺跡として、何らかの形で語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
「堤ヶ岡飛行場」に関するリンク集を、以下にまとめておきます。

「貴重な堤ヶ岡飛行場の写真見つかる」(群馬県県民レポート)
「戦争の実相を語りつづける遺跡」(Yahoo!JYAPAN週間特集)
「特攻 出撃前、人形と血書」(YOMIURI ONLINE)
「堤ヶ岡飛行場について」(高崎市市民の声)

(参考図書:「群馬町誌」)


  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
Comments(7)三国街道

2010年03月03日

三国街道 帰り道(8)

「真鹽紋彌翁之碑」から、諏訪神社の下をぐるっと回って、三ツ寺公園へ行ってみました。

ローラー滑り台や、ターザンロープがあって、子どもと一緒に楽しめそうな公園です。

それにしても、大きな公園です。
緩やかな傾斜の公園を上って行くと、カワセミもやってくる「石上寺」下の日本庭園へ、その上は水鳥の遊ぶ「三ツ寺堤」で、旧三国街道沿いには、さらに新しい園地を造成中です。

ローラー滑り台に上ってみると、池の形が群馬県の形をしていました。→

中島川に沿って下って行くと、ピンクのゴリラが建物によじ登ってましたが・・・。↓べつに、いいんですよね。



土管を発見して俄かに童心に返り、誰も見ていないのを確認して入ってみましたが、ただ苦しいだけでした。↓
    

三国街道の下をトンネルで潜ると、「堤下公園」に行けます。

「三ツ寺堤」の下の方にあるので「堤下」と付けたのでしょうが、小字の「堤下」「三ツ寺堤」に接した南側で、「堤下公園」の所ではありません。




現在の「堤下公園」の場所は、小字名でいうと「谷田」になるようです。

ところで、小字名というのは面白いですね。
その土地に住む人たちが、普段の暮らしの中で名付けた、いわば「土地の屋号」です。

図を見ると、あちこちに「〇〇街道」というのがありますが、「街道」とあるものの、どうやら道の名前ではなさそうです。
右の方には「万年貝戸」と書かれている所があります。
この「貝戸」「街道」、いずれも「かいと」または「かいど」、訛って「けぇど」などと発音されます。
その音(おん)に、「貝戸」「街道」の字を当てただけなんだそうです。
場合によっては、海もないのに「海道」という字を当てていることもあります。
じゃ、その「かいと」とは、いったい何かということです。

因みに、パソコンで「かいと」と入力して変換すると、「垣内」という漢字が出てきます。
大辞林では、「垣内(かいと)」の意味をこの様に解説しています。
「【かきつ】の転。土地の区画の呼び名
本来は、将来田畑などに開墾する予定で囲い込んだ土地のこと。
現在は、小規模の集落あるいはその中の一区画の家群をさしたり、一区画の屋敷地や一区画の耕地などをさしていう。」


つまり、「かきうち」「かきつ」「かいと」、となった訳です。
この「かいと」が地方へ来ると訛って、「かいど」「けぇど」「けぇどう」で、「街道」という字を当ててしまったのでしょう。
群馬地名研究会々長の澤口宏氏によると、地名のほとんどは当て字だそうで、漢字の意味に余り捉われない方がいいようです。

そういう意味では、最近流行りの「ひらがな地名」も、そう嘆くほどでもないのでしょうか?
でもなぁ・・・。

【三ツ寺公園】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
Comments(4)三国街道

2010年03月01日

号外!「紫文の視点」と「ひたじ飯」

ちょっと日が経ってしまいましたが、上毛新聞のオピニオン21に、2回目の柳家紫文師匠の視点が載っていました。

大間々「ながめ余興場」、確かに素晴らしいですね。
このような建物を残してきた、大間々という町の文化度の高さに敬意を表します。
それにつけても、と、それらを残してこなかった我が高崎を、ついつい残念に思ってしまうのですが・・・。

紫文師匠は、「サライ」3月号で「市中見廻り食日記」と題して、江戸の粋なお店の紹介もしています。

そろそろ、高崎のご紹介もお願いしたいところなのですが・・・。
観光課の方、観光協会の方、観光業界の方、情報誌関係の方、ご検討よろしくお願い申し上げますです。

同じ日の「三山春秋」に、もうひとつ興味深い話が載っていました。
作家・坂口安吾の母親の味「おけさ飯」が、高崎に住む村山京子さんの家に「ひたじ飯」という名前で伝わっているというのです。

どんなご飯なのか、ネットで「ひたじ飯」を検索しましたが、何もヒットしません。
「おけさ飯」ではいくつかヒットしますが、写真までは載っていません。
「三山春秋」の文中には、村山さんが昨秋投稿した記事があると書かれているので、そこには写真があるかも知れません。

早速、上毛新聞社に問い合わせてみると、9月3日付けの新聞だということが分かりましたので、図書館へ行って記事を見つけたのですが、残念ながら写真は載っていませんでした。

そこでふと思ったのが、「ひたじ」とは、もしかして「したじ」ではないかということです。
お醤油のことを「おしたじ」とか「したじ」とか言いますので、ご飯にかける「すまし汁」が、お醤油の汁ではないかと思ったのです。
そこで、「したじ飯」で検索してみたら、ヒットしました!

みなみ7017さんのブログ、「今日の食い意地inにいがた」に写真が載っていますので、ご覧ください。

「したじ飯」というネーミング、いいですね。
「面、珍、短」のセオリー通りのネーミングです。

ところでみなさんは、高崎名物の食べ物って、何を思い浮かべますか?
「ひたじ飯」と「たてっけえし」、高崎名物にしてみませんか?
駅構内のうどん屋さん、駅前のうどん屋さん、観音山の茶店屋さん、ご検討よろしくお願い申し上げますです。

  


Posted by 迷道院高崎at 23:22
Comments(12)◆高崎雑感