堤ヶ岡の小字名の図の中に、
「旧飛行場」と書いてある所があります。
ここが、終戦直前に特攻隊の飛行訓練を行っていた
「堤ヶ岡飛行場」です。
「堤ヶ岡飛行場」建設の動きが俄かに起こったのは、日本の戦局がそろそろ怪しくなっってきた昭和十八年(1942)のことでした。
陸軍航空本部の
井上廣也主計大尉が、飛行場建設の説明のため
堤ヶ岡村へ来ると、あっという間に、農民は土地売り渡しの調印をすることになります。
その結果、
堤ヶ岡村136ha、
国府村22ha、
中川村2haの合計160haが飛行場建設用地となりました。
現在の地図にその区画を描いてみると、こんな感じでしょうか。→
売り渡しとは言うものの、支払は全て農地証券で行われたため、現金として受け取った人はほとんどいなかったようです。
終戦後、未払代金の請求を行っても、なかなか支払はなされなかったと言います。
そんな飛行場の建設は突貫工事で行われ、昭和十九年(1943)三月には初めての飛行機が着陸しますが、滑走路は金網を敷いただけの俄か造りだったそうです。
八月になると、
「宇都宮飛行学校前橋教育隊」という呼称になり、特別操縦見習士官150名が入隊、少年飛行兵80名も
古河から転属してきます。
訓練中の飛行機が、神社の屋根を壊したり、民家に墜落したりという事故もありました。
九月末には少年飛行兵は南方へ出発し、十月になると
前橋教育隊は閉鎖、
「熊谷飛行学校前橋分教場」と呼び名が変わります。
その
分教場も昭和二十年(1944)二月に閉鎖されて、
中島飛行機製作所(現・富士重工業)の分工場が疎開してきます。
そこで製作を始めたのが、当時の最新鋭戦闘機・
疾風(はやて)でした。
昭和二十年(1945)三月、
「堤ヶ岡飛行場」に到着したのが、特別攻撃隊
「誠(まこと)隊」(通称:正気[せいき]隊)の36名です。
その月の二十六日に
堤ヶ岡を後にした
誠隊の隊員は、翌月、
宮崎県新田原から出撃して
沖縄洋上に命を散らしていきます。
誠隊が
堤ヶ岡を離れる直前、
高崎女子高等学校の女学生三人が慰問に訪れ、手作りの人形を隊員に手渡しています。
その人形が、
鹿児島県の
知覧特攻平和会館に展示されているそうです。
また、
第三七誠隊の
小林敏男隊長の日記には、次のような短歌が残されています。
赤城山 頂く雪の溶け初めて
光のどけき 春訪れぬ
故郷の 筑波の山の小さきに
二十五年の 生命を想ふ
終戦間近になった昭和二十年(1945)七月、
「堤ヶ岡飛行場」上空に
グラマン戦闘機六機が飛来し、飛行場とその周辺を銃・爆撃します。
同じ時期に、
所沢から
「陸軍航空輸送部第九飛行隊前橋派遣隊」(奥村隊)83名が転属してきます。
まだ年端もいかぬ、十七・八歳の少年ばかりでした。
金古の
常仙寺本堂を宿舎にして一か月の飛行訓練の後、八月に
特攻隊として編成されますが、終戦のため出撃することはありませんでした。
終戦後、
「堤ヶ岡飛行場」跡地には米軍が駐留しますが、その後、開拓の許可を得て農民の手に戻ることになります。
この記事トップの、小字名の図の中に
「入植地」とあるのが、その開拓地です。
戦争に翻弄された、
堤ヶ岡の二年間でした。
今、そんな歴史も忘れ去られようとしていますが、貴重な
戦争遺跡として、何らかの形で語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
「堤ヶ岡飛行場」に関するリンク集を、以下にまとめておきます。
◇
「貴重な堤ヶ岡飛行場の写真見つかる」(群馬県県民レポート)
◇
「戦争の実相を語りつづける遺跡」(Yahoo!JYAPAN週間特集)
◇
「特攻 出撃前、人形と血書」(YOMIURI ONLINE)
◇
「堤ヶ岡飛行場について」(高崎市市民の声)
(参考図書:「群馬町誌」)