2010年03月28日

三国街道 帰り道(15)

一週間のご無沙汰でした。迷道院高崎でございます。

大八木町南交差点を東に折れて100mほど行くと、左側に大きな石灯籠があります。

「大八木の高燈台」と呼ばれていて、ここから北へ向って井野川を渡ると「諏訪神社」があります。
その「諏訪神社」の参道入り口を示すための灯籠なのでしょうが、それにしても大き過ぎます。

また、この灯籠には不思議なことがいくつかあります。
ひとつは、「文化十二年・・・」の文字が塗り消され、新たに「明治二十四年・・・」と刻まれていることです。
さらに、「諏訪神社」の参道にありながら、台石には「金毘羅大権現」の文字も見えます。

実はこの灯籠、もとは中山道新町宿神流川(かんながわ)岸に建っていたものだそうです。
それを、大八木で明治二十四年(1891)に買い取ったというのです。
山内種俊氏著・「上州の旧街道いま・昔」には、こんな話が載っています。

「明治二十四年大八木石灯籠が欲しいことがあり、うわさに新町に廃物があると聞いた。
そこでこれを正常のルートを経ずに一種のボスの働きで、包み金で買ってきたといわれる。
そして金毘羅大権現文化十二年(1815)の文字を削り取った---
しかし文字ははっきり見える。
これについて大八木側は、新規に設置ということで削ったという。
のち新町の文化人の間で、郷土再認識熱も高まり、この灯籠に強い執着をもち、再三の返還を求めたが、大八木側が譲らず、やむなく新町三差路の角に、新しい石造りの見通し灯籠を再建した。」


その新町の、再建された「見通し灯籠」が、右の写真です。→
昭和五十三年(1978)に再建されました。

その傍らには、「見通灯篭再建之記」という石碑が建てられています。↓
この碑文を読むと、再建への熱意がひしひしと伝わってきます。

碑文にもありますが、「見通し灯籠」とは中山道を往来する旅人が、夜間に神流川を渡るための目安としたものだそうです。
本庄側に一基、新町側に一基を設けて渡る場所を見通すということから、「見通し灯籠」あるいは「見透かし灯籠」と呼んだようです。

右の図は、浮世絵師・渓斎英泉による、木曽路六拾九次の内、「神流川渡し場」の図です。

手前側が本庄宿で、「見通し灯籠」も描かれています。
向こう岸は新町宿で、その向こうに見える山並みは上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)と日光男体山・浅間山だそうです。

因みに、本庄宿の灯籠は、本庄宿名主・戸谷半兵衛が建立したもので、明治二十年代に埼玉県上里町大光寺境内に移されています。

一方、新町宿の灯籠はその資金集めに苦労したようで、「再建之記」碑にも、約十年かけて資金を蓄えたとあります。
これには、かの俳人・小林一茶も関わっています。

雨で烏川の川留めにあった一茶は、新町宿高瀬屋に泊ることになりますが、夜五更(午前3時~5時)頃、専福寺と書いてある提灯を提げた男に起こされて、灯籠の寄付をせがまれます。
懐の寂しい一茶は断りますが、なおもしつこくせがむ男に、ついに十二文を渡すことになります。
何を言っても許してもらえない己が姿を、「閻魔の前に蹲(うずくま)る罪人のようだ」と表現しています。
そして、こんな句を残しています。
   「手枕や 小言いふても 来る蛍」
「蛍」とは、提灯を提げた男のことでしょう。
これが、「再建之記」碑にある、「一茶の七番日記」の話です。

国道17号の神流川に架かる「かんなかわはし」の欄干には、やや小ぶりの「見透灯籠」が、新町側と本庄側に載せられています。

その下には、ちゃんと「見透灯籠」のいわれが書いてあります。

一方、本物である「大八木の高燈台」には、何の由来も書かれていません。
台石に、由来を刻んだプレートでも埋め込められないものでしょうか。


【大八木の高燈台】

【新町の見通灯籠】


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Posted by 迷道院高崎at 07:32
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