土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、藤森稲荷の名前の由来について、次のように書かれています。
「大正の終わり頃に、近くの人達が社を新しくして、藤の木が森のように繁っていたことから藤森稲荷と名付けたそうである・・・」
しかし、大橋町の方々にお聞きした限りでは、藤の木が森のように繁っていたという事実はなさそうで、名前の由来については定かでありませんでした。
そのヒントを与えてくださったのが、烏子(すないご)稲荷神社の山田道長宮司でした。
ところで話は変わりますが、皆さんは、なぜ「烏子(からすこ)」と書いて、「すないご」と読むかご存知でしたか?
烏子稲荷神社のある広い一帯を、昔、「須苗郷(すなえごう)」と呼んでいたので、その総鎮守を「すないご稲荷神社」と呼ぶんだということは、いろいろな本に書かれていますので知っていました。
でも、何故「すなえご」ではなく「すないご」なのか、何故「烏子」と書くのか・・・?
私はずーっと疑問に思っていたのですが、宮司さんのおかげで謎が解けました。
宮司さんのお話は、こうでした。
昔の須苗郷というのはとても広い地域で、榛名の麓から石原・乗附丘陵の麓までを含んでいました。
その中央を滔々と流れているのが、「烏川」です。
そして、「氏神」が守護する地に住む人々を「氏子」と言います。
そこで、烏川の「烏」と、氏子の「子」で、「烏子」としたのだそうです。
昔は、「稲荷神社(烏子)」と称していたそうですが、昭和五十年(1975)頃、「烏子稲荷神社」と言う名称に改めたのだそうです。
その時、「すないご」とふり仮名をつけて登録したのだそうですが、
「ちょっと訛りが入ったというか、『え』よりも『い』の方が、あいうえお順で前に来るからと思ったんだけど、今思えば、『すなえご』にしておけば良かったかな?」と笑っておられました。
藤森稲荷の話に戻りましょう。
そもそも、烏子稲荷神社の由緒には、「桓武天皇の御世、延暦二年(783)に藤原金善という人が、山城の国『藤の森稲荷』の御分霊を勧請せり」とあります。
そうなんです、「の」は入りますが、藤森稲荷じゃありませんか!
ただちょっと気になることもありました。
山城の国(京都)にあるのは、「藤森(ふじのもり)神社」で、稲荷とは書いてないのです。
その由緒を見てもご祭神に稲荷神はいません。
しかも、「今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっております。」とあります。
ありゃりゃ?
これも、山田宮司のお話で、合点がいきました。
お稲荷さんの総本宮と言われるのが、京都の「伏見稲荷大社」ですが、実はこのお稲荷さんが「藤森神社」と大いに関係があるのです。
伏見稲荷大社のある地は、もともとは藤尾(ふじのお)と呼ばれていて、藤森神社の土地だったんだそうです。
ある時、藤森神社を司る紀伊氏のところに、稲荷神を崇拝する秦氏がこう言ってきます。
「祠を建てたいので、稲ワラを数束広げる程度の場所を貸してもらえないだろうか?」
紀伊氏は、その程度ならと快く了解しました。
すると、秦氏は早速やって来て、広げた稲ワラを1本1本縦につなげて、山一つをぐるりと囲んでしまいました。
その山が、現在「伏見稲荷大社」のある稲荷山だそうです。
かつて紀伊氏は蘇我氏に仕え、帰化人の秦氏を配下にして勢力を拡大していました。
しかし、大化の改新によって蘇我氏の勢力が衰えると、それに連れて紀伊氏も衰退し、代わりに栄えてきたのが秦氏だという訳です。
そんなことを知って、前述の話を聞くと、なかなか考えさせるものがありますね。
ところで、烏子稲荷神社の本殿は、「稲荷山古墳」という円墳上に造られています。→
←裏に回ると、横穴式石室の入り口がありますが、これが京都の伏見稲荷と通じていて、狐が行き来していたという言い伝えもあります。(田島桂男氏著「高崎の地名」より)
大橋町にあったという「藤森稲荷」は、おそらく「烏子稲荷神社」とも関係のある京都の「藤森神社」、さらには「伏見稲荷」と関係しているのではないかと思います。
最後に、烏子稲荷神社の祖、藤原金善の哀しい物語をご紹介しておきましょう。
美しいその森がたいそう気に入った金善は、ここに永住したいと考えました。
ついては、かつて自分が崇拝していた、京の「藤の森稲荷」の分霊をここに祀ろうと思ったのですが、再び妻を京まで歩かせる訳にもいかないと、妻を残して京へ戻っていきました。
一人知らぬ土地に残された妻は、心細く夫の帰りを待っていましたが、そんな心に付け入る輩がいつの世にもいるものです。
ある男が、言葉巧みに妻を騙し、夫の座についてしまいます。
「藤の森稲荷」の分霊を受けて戻ってきた夫の姿を見た妻は、初めて男に騙されたことを知ります。
妻はそのことを恥じ、ついに川に身を投げて死んでしまいました。
悲しみにくれた金善は、ここ須苗郷の森に藤の森稲荷の分霊を祀り、神職としてこれに仕えたということです。
さて、「追跡!藤森稲荷」、最終回までお付き合い頂き、ありがとうございました。
知らなければ、何の変哲もない床屋さんの駐車場に、こんな面白い歴史と文化があったとは、私自身おどろきました。
観光都市高崎の目指すべきところが、何となく見えてきたような気がします。
みなさんは、どのように思われたでしょうか。
「大正の終わり頃に、近くの人達が社を新しくして、藤の木が森のように繁っていたことから藤森稲荷と名付けたそうである・・・」
しかし、大橋町の方々にお聞きした限りでは、藤の木が森のように繁っていたという事実はなさそうで、名前の由来については定かでありませんでした。
そのヒントを与えてくださったのが、烏子(すないご)稲荷神社の山田道長宮司でした。
ところで話は変わりますが、皆さんは、なぜ「烏子(からすこ)」と書いて、「すないご」と読むかご存知でしたか?
烏子稲荷神社のある広い一帯を、昔、「須苗郷(すなえごう)」と呼んでいたので、その総鎮守を「すないご稲荷神社」と呼ぶんだということは、いろいろな本に書かれていますので知っていました。
でも、何故「すなえご」ではなく「すないご」なのか、何故「烏子」と書くのか・・・?
私はずーっと疑問に思っていたのですが、宮司さんのおかげで謎が解けました。
宮司さんのお話は、こうでした。
昔の須苗郷というのはとても広い地域で、榛名の麓から石原・乗附丘陵の麓までを含んでいました。
その中央を滔々と流れているのが、「烏川」です。
そして、「氏神」が守護する地に住む人々を「氏子」と言います。
そこで、烏川の「烏」と、氏子の「子」で、「烏子」としたのだそうです。
昔は、「稲荷神社(烏子)」と称していたそうですが、昭和五十年(1975)頃、「烏子稲荷神社」と言う名称に改めたのだそうです。
その時、「すないご」とふり仮名をつけて登録したのだそうですが、
「ちょっと訛りが入ったというか、『え』よりも『い』の方が、あいうえお順で前に来るからと思ったんだけど、今思えば、『すなえご』にしておけば良かったかな?」と笑っておられました。
藤森稲荷の話に戻りましょう。
そもそも、烏子稲荷神社の由緒には、「桓武天皇の御世、延暦二年(783)に藤原金善という人が、山城の国『藤の森稲荷』の御分霊を勧請せり」とあります。
そうなんです、「の」は入りますが、藤森稲荷じゃありませんか!
ただちょっと気になることもありました。
山城の国(京都)にあるのは、「藤森(ふじのもり)神社」で、稲荷とは書いてないのです。
その由緒を見てもご祭神に稲荷神はいません。
しかも、「今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっております。」とあります。
ありゃりゃ?
これも、山田宮司のお話で、合点がいきました。
お稲荷さんの総本宮と言われるのが、京都の「伏見稲荷大社」ですが、実はこのお稲荷さんが「藤森神社」と大いに関係があるのです。
伏見稲荷大社のある地は、もともとは藤尾(ふじのお)と呼ばれていて、藤森神社の土地だったんだそうです。
ある時、藤森神社を司る紀伊氏のところに、稲荷神を崇拝する秦氏がこう言ってきます。
「祠を建てたいので、稲ワラを数束広げる程度の場所を貸してもらえないだろうか?」
紀伊氏は、その程度ならと快く了解しました。
すると、秦氏は早速やって来て、広げた稲ワラを1本1本縦につなげて、山一つをぐるりと囲んでしまいました。
その山が、現在「伏見稲荷大社」のある稲荷山だそうです。
かつて紀伊氏は蘇我氏に仕え、帰化人の秦氏を配下にして勢力を拡大していました。
しかし、大化の改新によって蘇我氏の勢力が衰えると、それに連れて紀伊氏も衰退し、代わりに栄えてきたのが秦氏だという訳です。
そんなことを知って、前述の話を聞くと、なかなか考えさせるものがありますね。
ところで、烏子稲荷神社の本殿は、「稲荷山古墳」という円墳上に造られています。→
←裏に回ると、横穴式石室の入り口がありますが、これが京都の伏見稲荷と通じていて、狐が行き来していたという言い伝えもあります。(田島桂男氏著「高崎の地名」より)
大橋町にあったという「藤森稲荷」は、おそらく「烏子稲荷神社」とも関係のある京都の「藤森神社」、さらには「伏見稲荷」と関係しているのではないかと思います。
最後に、烏子稲荷神社の祖、藤原金善の哀しい物語をご紹介しておきましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
桓武天皇の頃、藤原氏一門に連なる立派な家柄の藤原金善という人が、妻と一緒に京から関東へ下る道すがら、須苗子(すなえご)の森にさしかかりました。美しいその森がたいそう気に入った金善は、ここに永住したいと考えました。
ついては、かつて自分が崇拝していた、京の「藤の森稲荷」の分霊をここに祀ろうと思ったのですが、再び妻を京まで歩かせる訳にもいかないと、妻を残して京へ戻っていきました。
一人知らぬ土地に残された妻は、心細く夫の帰りを待っていましたが、そんな心に付け入る輩がいつの世にもいるものです。
ある男が、言葉巧みに妻を騙し、夫の座についてしまいます。
「藤の森稲荷」の分霊を受けて戻ってきた夫の姿を見た妻は、初めて男に騙されたことを知ります。
妻はそのことを恥じ、ついに川に身を投げて死んでしまいました。
悲しみにくれた金善は、ここ須苗郷の森に藤の森稲荷の分霊を祀り、神職としてこれに仕えたということです。
(「高崎の名所と伝説」より、若干、迷道院高崎が加筆いたしました。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、「追跡!藤森稲荷」、最終回までお付き合い頂き、ありがとうございました。
知らなければ、何の変哲もない床屋さんの駐車場に、こんな面白い歴史と文化があったとは、私自身おどろきました。
観光都市高崎の目指すべきところが、何となく見えてきたような気がします。
みなさんは、どのように思われたでしょうか。