2023年03月04日

高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿

大橋町「和泉庄(いずしょう)御殿」のことが、上毛新聞に載りました。
高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿

過日、見学の機会を得、ブログへの掲載も快くご承諾頂きました。
ただ、あまりにも技術的・美術的見どころ満載の建物で、とてもとても私ごときの知識と語彙力では表現することができません。
そこで、評価は皆さんご自身にお任せしたいと思い、スライドショーにしてみました。
ご覧ください。


吉田家当主は代々庄八を名乗っていますが、初代は南蛇井生まれで「荘八」と書いて「しょうはち」と読ませ、元紺屋町の商家で修行の後、田町に店を構えたのだそうです。

屋号「和泉屋」「庄八」なので通称が「和泉庄」(いずしょう)、その五代目・庄八が接待用に建てたのが「吉田御殿」とも「和泉庄御殿」とも言われるこの建物です。

五代目・庄八の略歴が、昭和三年(1928)発行の「人事興信録」に載っています。
高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿
五代目は先代の弟だったんですね。
16歳の時に家督を継いだというんですから驚きです。
あれ?と思うのは、「金融業」となっていることです。

明治三十年(1897)の「高崎繁昌記」では、「和泉屋」の主は吉田啓三郎の名前になっています。
高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿
この人が先代なんでしょうね。

家督相続をした明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」では、啓三郎庄八の連名になっています。
高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿
でも、「金融業」とは書いてありません。

金融に関係するとすれば、明治三十一年(1898)に設立した「高崎銀行」の設立者の中に、吉田庄八の名前があります。
高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿
これが五代目・庄八だとすると十歳ということになります。
まさかですよねぇ。
「人事興信録」には、五代目・庄八を継ぐ前は「佐太郎」という名前だとありましたし・・・。
分かりません。

「佐太郎」といえば、昭和四十二年(1967)に田町の長老たちが集まって「田町昔ばなし座談会」というのをやってるんですが、その席で佐太郎さんのエピソードが語られています。
いくつか抜粋してみましょう。(多少、編集しています。)
佐々木 佐太郎さんって人は、よっぽど変わっていたんですね。
織茂 とにかく珍談続出で、一時間や二時間では語り尽くせないほど、いろいろの実話を聞いておりますけれどね。
佐々木 とにかく、電燈があのまわりの家には全部ついていたのだが、あの家だけはランプだったんだ。
織茂 早起きの家でね。
佐々木 正月のお元日には、近所へみんなダルマを配ったんだね。
田口 くれるんですがね、こっちはそれが迷惑でした。
佐々木 大晦日で、みんな夜、遅いでしょう。その次ぐ朝、早くドンドン戸を叩くんでね。
昔は、みんなヨロイ戸みたいな小さな窓が付いていましたね。
そこを開けると、そこへダルマさんをにゅっと出すんだね、黙って。
織茂 梅山の親父さんが古着屋の小僧さんだった頃、甚兵衛の材料になるものを何か持って来いって。四時だよ、四時に持って来いって。
それで玉田寺の四時の鐘が鳴り終わるのを待って木戸を開けて「ごめん下さい」って入って行ったら、とても機嫌がよくてね、「お前は実に頭がいい。四時の金を背負って入って来た」と言って、後ですぐ番頭さんが三宝に金田の饅頭を百五十個載せて持ってきたんですってよ。
佐々木 気に入ると米一俵でもくれてやったんだから・・・。
織茂 子どもがお堀へ落っこったんですね。それで、運送曳きが抱き上げてみたら、これは和泉庄の坊ちゃんだ、大変だってんで、運送車に乗せて引っぱってきて、「坊ちゃんがお堀に落っこったんで連れてきました」って言うと、「この野郎、ふてえ野郎だ。おらあちの倅だと思って、おべっかいにおべんちゃら使いやがって。さっさと米一俵持って帰りやがれ」ってんで、番頭に米を背負わせて持たせてやったってんだね。
片山 これは黙って取っておけばいいんですけれどね。礼に行くと・・・。
織茂 また、取り返されちゃうんだ。
片山 持って行かれちゃうんです。
【発言者】佐々木芳治郎(一丁目区長)、織茂利一(オリモ洋服店社長)、
     田口小次郎(田口タンス店社長)、片山弘(テーラー片山社長)


ま、豪快な人だったようですが、いいものを残していってくれました。

「和泉庄御殿」をこれからどのように残していくのか、多くの課題がありそうですが、クラウドファンディングという良い仕組みもあるので、行政と市民が知恵を出し合って守っていけたらと、切に切に思っております。





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Posted by 迷道院高崎 at 06:00
Comments(4)高崎唱歌
この記事へのコメント
いつも、高崎学の勉強で参考にさせていただいております。
単刀直入にお聞きしたいのですが「高崎繁盛記」にある吉田啓三郎氏の右に記されている松山徳太郎という人物をご存知ないでしょうか?
私の親戚の戸籍に明治32年に松山徳太郎とクマ夫妻の娘が嫁いできたとあります。
しかし、家の住所は田町でなく宮元町となってます。
Posted by 光麿  at 2023年03月19日 19:06
>光麿さん

いつもご覧頂いてるとのこと、光栄です。

お尋ねの松山徳太郎さんですが、不勉強で申し訳ありません、存じ上げておりません。
屋号が三河屋ということなので、出身は三河の国の方なんでしょうか。
明治43年の「群馬県営業便覧」を見ると、高崎で三河屋号が数店あるのですが、松山姓は見当たりません。

お役に立てず申し訳ありません。
これからも、「隠居の思ひつ記」よろしくお付き合いください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2023年03月20日 06:22
>迷道院高崎さん

早々とご解ありがとうございます。

前の質問に出てきた松山家の娘は、新潟県三条市一ノ木戸にあった私の高祖母の実家に嫁いできたそうです。
一ノ木戸といえば旧高崎潘領なので遠距離の結婚も頷けます。しかし、松山家は何をやってた家なのかわからなかったのですが迷道院高崎さんの記事に“松山徳太郎”の名があったので思わず聞いてしまいました。

迷道院高崎さんの記事を最初に拝見したのは鎌倉街道でした。何の変哲もない市道が由緒ある道だと知った時は感動しました。以来、たくさんの見聞や史料をお持ちだなぁと驚きつつ楽しませていただいております。今後も楽しませていただきます。

いつの間にか史跡案内看板が増え、若松町の光明寺さんにも下仁田戦士深井景命と吉田七三郎道寧の二つがありました。
機会があったら記事にしていただきたいと思います。

長文すみません。
Posted by 光麿  at 2023年03月20日 20:37
>光麿さん

そうでしたか。
ありがとうございます。
励みにして精進いたします。

光麿さんも、高崎学で御精進のご様子。
いろいろご教示ください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2023年03月21日 17:00
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