2020年08月09日

史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

国道406号「下大島町」信号北のガソリンスタンド脇の細道を東へ250mほど行ったところに、「薬師堂」があります。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

史跡看板は、大きな欅の木の根元に建っています。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

お堂の中に石祠があります。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂
石祠なんてものは、普通は露天にあるもんですが、こんな立派なお堂の中に祀られているということは、看板にあるように黄金の薬師像が入ってるからなんでしょうか。
見てみたいものです。

その薬師像が、額部小幡羊太夫由来の物だとか、高瀬「袂薬師」だとかいう話も書いてありますが、いま一つ話の筋が分かりません。
「袂薬師」については、「富岡市史 民俗編」にちょこっと出てきます。
上高瀬に袂薬師がある。
昔新居家の祖先が元和の大阪の役に出陣して帰村のとき、何処かで薬師像を得、これを袂に入れてもってきて祀ったので、袂薬師というと伝えている。」
と、もともと出所不明の薬師様です。

看板の最後に書かれている「嗽盥」(うがいたらい)というのがこれなんでしょうが・・・。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂
これ、「うがいたらい」とは読まないでしょう。

明治十三年(1880)の物ですから文字は右から読むはずですし、刻字は「嗽」ではなく、「漱」です。
「盥漱」の読みは「かんそう」で、意味は「手を洗い口をすすいで身を清めること」だそうです。(デジタル大辞泉)
因みに、「嗽盥(うがいだらい)」「口をすすいだ水を受けるための木のたらい、または木鉢」のこと、とあります。
(日本国語大辞典)

「愚山佐々木溥が書を刻んだ」とありますが、これも刻まれているのは「木泉居士溥」です。

戸籍上の名前が「佐々木溥(ひろし)」、雅号を「愚山」という、江戸末期から明治初期にかけての儒学者がいます。
一般的には「佐々木愚山」と呼ばれますが、まぁいろんな名前を使う人だったようで、「佐々木綱弘」とか「佐々木溥綱」とか、雅号も「愚山」の他「十二峰小隠」「白鳥山人」「天心居士」他にも二、三あるということです。
ただ、調べた範囲では「木泉居士」という雅号は見つかりませんでした。
もしかすると、「盥漱」と刻んだ「手水鉢」を、境内の「木々の中の泉」と見立て、この時だけ用いた号なのかも知れません。

「佐々木愚山」について、「久留馬村誌」にこう書かれています。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂
佐々木愚山先生、諱は溥、字は子淵、愚山又十二峯小隠とも号した。
文政六年(1823)十一月十一日、仙台で生まれた。(略)
先生、人となり容貌魁偉、身長は六尺近く、音吐清高で、金石から出るような声だった。(略)
性格は純潔精誠で、質素を信条とし、其の生涯は離落不遇、環堵蕭々(かんと・しょうしょう:家が狭く、みすぼらしいさま)、これという程のものは一つもなかった。
しかも先生はこういう環境にいて一向平気で、毫も冥利のために其の志操を動かさなかった。(略)
  先生は以前下野の足利学校の都講であったが、ついで、上野安中藩造士館の教授、仝国七日市藩の儒学教授、房州勝山藩の支領白川の儒学教授、群馬県下神道事務局の講師担当、榛名神社教会本部講師担当、相馬神社相馬講社々長、神宮協会の協賛担当などの諸役につかれ、中教正に補せられた。
弟子は殆んど三千人近くもあり、現今でも所在の明らかなものが五百人もあるということである。
先生の人を教える態度は誠心誠意、忠孝に基づき、実践を期し、恭倹質直を重んじ、文華浮靡(ぶんか・ふび:表面上のみ華やかで実質の伴わないこと)の風を嫌った。(略)
先生の歩くときの態度は、奇観異物が側らにあっても、これをふりかえって見るようなことはせずに、姿勢はいつも正直を保っていた。
そして『姿勢を正しくしなければ、自ら心も正しくならない。』といわれたそうである。(略)
幕末になってから、某藩がその卓識高行を敬慕し、礼を厚くして幣物をとゝのえ、使者を再三つかわして先生を聘して臣下にしようとしたが、先生は固く辞退し、『普天の下、王土に非ざるなし、率土の浜、王臣に非ざるはなし、何ぞ必ずしも臣下たるをなさんや。』といって、とうとう召しに応じなかった。(略)
そこで住居を、上野国群馬郡久留馬村大字本郷村に定めたのである。
先生はいつも時間を惜しんでは読書をし、『夏夜の螢燈、冬夜の雪』といった。」
儒教の基本経典のひとつ「詩経」の一節、「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(この空の下に王のものでない土地はなく、地の果てまで王の臣でない人間はいない)」を引き、なぜ某藩の臣下になる必要があるのかと問うた。

そんな「愚山」先生ですが、村人達はこんな風に見ていたようです。
高崎町の市川左近先生と、本鄕村の佐々木愚山先生とは、ともに奇行を以て村里の間に聞こへたり。
特に愚山先生は左近先生に優る奇人として評判ありたり。
村里の人々は能く先生の人となりの眞相を會得せず、ただ奇人として之を見たるが如き感ありたり。」
(上毛及上毛人153号 東山道人著「佐々木愚山先生(上)」より)

どんな奇人ぶりだったのでしょう。
晩年の「愚山」に会ったことがあるという、箕輪町西明屋清水初五郎氏の談話として。
私はまだ年少で、小学校にもあがっておらず、弟子にはなれず、当時二十戸ほどの松之沢を先生が弟子を連れて歩く時、私はそれに加わってついて歩いた。
先生は一般の人と変わっていて、他家に招かれた折、膳部の食い残りは全部持って帰った。
今でも松之沢の年寄り達は、膳部を綺麗に片付けることを、『愚山先生の様だ』と云っている。
昔のことで、茶菓子は黒砂糖、梅干、煮つけなどであった。
先生はそれを白紙に包んで持って帰り、私達に分けて下さった。
分ける仕事は、弟子の浅見宇十郎という人で、その人は後に高等小学校の校長になった。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

食べ物についての話は、方々に残っています。
榛東村の「黒髪神社」神職夫人が祖母から聞いたという話。
食事を供されて食べ余した場合は、汁の垂れるようなものでも、懐紙に包んで袂に入れた。
だから先生の奥さんは、一年中洗濯が大変だったという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

安中藩の代々勘定奉行家だった小林壮吉氏の話。
或る時若侍たちが、愚山は出された物は何でも食べてしまうそうだから、と云って食事の折、とうがらしを山盛りにして添えた。
若侍たちが、ひそかに注視している中で、愚山はポロポロ涙をこぼしながら、平らげたという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

晩年の「愚山」は、本郷村鴫上(しぎあげ)の小幡家へ出張教授していたようですが、小幡家の近くへ来ると必ず咳払いをし、座敷の縁先に立ってもう一度咳ばらいをすると、一礼も一言もなく上がって床を背に座ったということです。
「愚山」は、この小幡家で病中を養われ、明治二十九年(1896)九月十四日、同家で歿し、この地に埋葬されます。

榛名町発行「わが町の文化財」によると、「愚山」の墓は、「本郷北部鴫上(しぎあげ)に旧愛宕神社(明治四十年本郷神社へ合祀らしい)別当寺宝常院(修験宗)墓地があります。この墓地の側ら桃林の中」にあると書いてありましたので、行ってみました。

「宝常院」も今はありませんが、小幡家の墓地入り口に「寶常院顕彰碑」が建っています。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

近くの畑の中に、「愚山」と妻・ツル、次女・サダ、三女・トヨの墓が建っていました。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

と、ここまで書いてきて「あれ?」と思うのですが。
下大島町の「薬師堂」の薬師像は、元は甘楽郡小幡羊太夫に由来するということでした。
その「薬師堂」の境内に、「佐々木愚山」書の「盥漱」が奉納されていました。
その「佐々木愚山」は、教授先である鴫上の小幡家で歿し、同家の土地に眠っています。
その小幡家は、「寶常院顕彰碑」によると、甘楽郡国峰城主・小幡氏の裔です。
これは、偶然なんでしょうか。

「愚山」歿後3年の明治三十一年(1898)建碑頌徳の話が持ち上がり、門弟だった伊香保の木暮武太夫が資料を提供して、当時貴族院議員の楫取素彦に撰文を依頼します。
撰文は明治四十年(1907)にできあがり、大正二年(1913)「本郷神社」境内に顕彰碑が建立されたのでした。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

その「本郷神社」には、鴫上の小幡家が別当職を務めていた「愛宕神社」が、明治四十年(1907)に合祀されます。
史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

何かの糸で結ばれているような気がしてなりませんが、どうなんでしょう。


【下大島町の薬師堂】

【佐々木愚山の墓】

【佐々木愚山顕彰碑(本郷神社)】





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この記事へのコメント
盛岡市で医師をしております佐々木豪と申します。愚山から数えて6代目の直系の子孫です。愚山の肖像画の掛け軸は我が家にあります(笑)。
偶然にこのサイトを拝見しとても素晴らしい文章を見て感謝申し上げます。
こうやって私の祖先のことに興味を持っていただき大変うれしいですね。
Posted by 佐々木豪  at 2020年11月22日 07:24
>佐々木豪様

いやぁ、これは大変な方からコメントを頂戴しました。
ありがとうございます!

無断で佐々木忠夫氏の著書から肖像画を転載し、申し訳ありませんでした。
本来ならお咎めを頂くところ、温かいコメントに感激しております。

愚山先生のことを勉強させて頂いて、よかったです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2020年11月22日 18:09
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