2019年04月14日

史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

保渡田(ほどた)町「土屋文明文学記念館」の入り口交差点北東角に、石碑と史跡看板が建っています。
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

「瑾亭先生墓碣銘」、ふり仮名くらい振っておいてほしいのですが、たぶん「きんていせんせい・ぼけつめい」でいいんでしょう。

「瑾」とは美しい玉のことだそうで、「瑾亭」とはすごい雅号を付けたものです。
「墓碣銘」とは墓石にその人の功績を記したものだそうです。
といっても、「瑾亭先生」の墓石は、看板の最後に書いてあるように、「落合観音堂」の墓地にあるらしいです。

じゃ、行かなきゃしょうがないでしょう。

ということで、「瑾亭先生墓碣銘」碑の西南西900m、大清水川の崖上にある、「落合観音堂」へ行ってみました。
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

観音堂の左にあるのが、安中家の墓地。
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

下の写真中央が、「瑾亭先生」こと「安中文瑛」の墓石です。
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

安中家代々の過去碑と、由来を書いた石碑がありました。
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

恥ずかしながら、安中文瑛という人をまったく知りませんでした。
史跡看板や墓地の由来碑を読んでも、安中城主から保渡田に移住するまでの経緯がよく分からなかったのですが、「瑾亭先生墓碣銘」にはその辺のことが刻まれています。
其先曰 從二位源重國自稱征夷將軍宗尊親王七世孫
其二十二世曰安中忠親 長享中在碓氷軍松井田城 其子伊賀守忠淸移榎下城 生越前守忠正 忠正城野尻名安中城 使子忠成居之 忠成從武田氏戰死長篠 弟曰忠基走出羽 寛永三年還匿民閒 子忠惟住保渡田村 傳子忠富始業醫」
(読み下し)
其の先に曰く、従二位源重国征夷将軍宗尊親王七世の孫と自称す。
其の二十二世を安中忠親と曰(い)う、長享中に碓氷郡松井田城に在り、其の子伊賀守忠清は榎下城に移り、越前守忠正生る。
忠正野尻に城(きず)き安中城と名づけ、子に使わせ忠成がここに居す。
忠成は武田氏に従いて長篠に戦死す。弟を忠基と曰(い)い、出羽に走る。
寛永三年民間に還って匿(かく)る。子の忠惟保渡田に住す。伝うるに子の忠富が医業を始むる。
(参考「群馬の漢文碑」「群馬町誌資料編2」)

ということで、以降、安中家は代々医業に携わる訳です。
文瑛先生は「温和資懿(い)、竭(けつ)力施治」、つまり人柄が優しく力を竭(つく)して治療をするので、遠近から治療を受けに来る人の履物が常に門に満ちていたとあります。

また、文瑛先生は当時目新しい西洋医学を用いたということで、初め人々から怪しまれることもありましたが、実績を以て受け入れられていったようです。
嘗讀西洋醫書翻然有所悟 曰漢方未淸藉此以補可也
益究其術方 是時西醫之術未大行 於世人或以爲怪誕
君獨知其可用 豈非豪傑之士乎 以是門人子弟稍通其術 至今効益著 嚮爲怪爲誕者後悔無及」
(読み下し)
かつて西洋の医書を読み翻然(ほんぜん:突然)として悟る所あり。曰く漢方いまだ精藉(せいしゃ:詳しく取り立てること)せず、これを以て補うべき也。
益々其の術を究めるも、この時西洋医術いまだ大いに行われず、世の人は怪誕(かいたん:でたらめと怪しむ)を以てなす。
君ひとり其の用いべくを知る。豈に(あに:どうして)豪傑の士なるにあらずや。
これを以て門人子弟稍(やや)其の術に通じ、今に至り効果益々著(あら)わる。
以前怪となし誕となすは後悔及ぶこと無し。

長くなりますが、文人・瑾亭先生としてのことも書いておきましょう。

「瑾亭先生墓碣名」の撰は、文部権少書記官で従六位の依田百川(學海)という人です。
森鴎外に漢文を指導し、その著「ヰタ・セクスアリス」の中の文淵先生のモデルになっているという、すごい人らしいです。

依田百川瑾亭先生との出会いも「墓碣銘」に刻まれています。
安政乙卯歳八月 余薄游上毛抵高崎 問土人以文雅之士 答曰保渡田村有安中文瑛者 以醫爲業善詩文温雅君子也 余大喜訪之 文瑛欣然延余欵晤 叩以學術文章」
(読み下し)
安政乙卯(きのとう)歳の八月、余(依田百川)上毛に薄游(はくゆう:質素な旅行)し、高崎に抵(いた)る。
土人(土地の人)に文雅の士(文章に優れ風流な人)を問うたところ、答えて曰く保渡田村に安中文瑛という者有り。医を以て業となし詩文を善くし温雅な君子也と。
余大いに喜びてこれを訪う。
文瑛欣然として(喜んで)余を延(まね)きて欵晤(かんご:親しく打ち解けること)し、学術文章について叩く(意見を交わした)

こうやって知己の友となった依田百川のもとに、明治十五年(1882)二月、瑾亭先生の友人である牧野再龍がやって来て、その死を伝え、門人一同で建てる碑の撰文を依頼します。
それを聞いた百川は、はたと、瑾亭先生とのかつての約束を思い出したのです。
嘗曰先生余知己也 墓碣之文非先生不可 嗚呼余於是屈指數與文瑛相晤之日 則距今二十八年矣 其所囑文未果作 余則負文瑛矣 墓碣之銘豈得辭」
(読み下し)
かつて(文瑛)曰く先生(百川)は余(文瑛)の知己なり、墓碣の文は先生にあらざれば可ならずと。
ああ、余(百川)ここに於いて指を屈して文瑛と相打ち解ける日を数えるに、則ち今を距(へだ)たること二十八年なり。
その嘱(たの)まるる所の文をいまだ作るを果たさず。
(百川)則ち文瑛に負(そむ)けり。
墓碣の銘をなんぞ辞するを得んや。

ということで、百川が後悔しつつ作ったのが「瑾亭先生墓碣銘」の撰文だった訳です。

因みに、百川の所に行った牧野再龍という人は、箕輪龍門寺十九世住職で、なかなか興味深い人物です。
過去記事「八重の桜と小栗の椿(5)」にも、ちょこっと登場しています。

瑾亭先生は、晩年、箕輪村「関叟庵」に隠居しますが、その理由について墓碣銘には「老いて世事を厭(いと)い」とあります。

その「関叟庵」がどこにあったのかは、突き止めることはできませんでした。
ご存知の方は、ご教示頂けたら幸いです。

さて、今回は墓碣銘の漢文を引用したこともあり、だいぶ長い記事となってしまいました。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
お疲れさまでございました。


【瑾亭先生墓碣銘】

【落合観音堂】





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この記事へのコメント
何時の世も、
人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。
その代わり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことの無い人は、
後世に名を残す事が出来ないようですね。
Posted by wasada  at 2019年04月15日 09:40
>wasadaさん

あー。
私はムダに悩んでるだけで・・・。
困ったもんです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2019年04月15日 20:36
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