2009年01月07日

屋台小路(やたいこうじ)

屋台小路(やたいこうじ)高崎に「屋台小路」というのがあるのをご存知だろうか?

恥ずかしながら、私は聞いたことがなかった。
実は、1月4日の「高崎に残る「湯屋」めぐり」の記事を書くにあたり、下横町にあったという「湯屋横丁」の写真を撮りに行った時に知ったのである。

その「湯屋横丁」がどこなのか分からず、1軒の酒屋さんに飛び込んでお訊ねをした。
その酒屋さんが、写真に写っている「宮山酒店」さんだ。
ご主人に伺うと、「湯屋横丁」は、そこから新町(あらまち)へ抜ける道だとすぐ分かった。
驚いたのは、ご主人がそのあたりの歴史について実に詳しく、滔々と語ってくれたことであった。
聞けば、「宮山酒店」は江戸時代から続く老舗で、ご主人はそこの四代目だと言う。
私が参考にしている土屋喜英氏の「高崎漫歩」も、ご一緒に編纂をしたと言うのだ。

その時ご主人に聞いた話が面白かった。
「湯屋横丁」を新町(あらまち)側から見ると、ちょうど「宮山酒店」が正面に見える。
「宮山酒店」に突き当たって、ちょっと北に寄ると、また西へ進む小路があり、直進するとお堀端に出る。
その小路が、「屋台小路」である。(写真の道)
新町(あらまち)からお堀端まで一直線の道にすればいいものを、敢えてちょこっと曲げてあるのには訳がある。
敵が高崎城に向かおうとして「湯屋横丁」を覗いた時、突き当たりで袋小路になっているように見せ、敵の侵入を防ぐようになっているらしいと、ご主人は言うのだ。

屋台小路(やたいこうじ)さて、話を「屋台小路」に戻そう。
この「屋台」というのは、「夜泣きそば」「赤ちょうちん」のそれではない。お祭りの「山車(だし)」のことだ。
確かに、私が子どもの頃は「山車(だし)」と言わずに「屋台(やたい)」と言っていた。
高崎の「山車」は、幅が3mほどある。
「屋台小路」の道幅はせいぜい5m。当時はもっと狭かったのではないだろうか。
これもおそらく、敵が大人数で城へ攻め込めないようにしてあるのだろう。

その狭い小路を、高崎中の「屋台」が通ったというので「屋台小路」と呼ばれたという。
そこを通ってどこへ行くかというと、高崎城の堀に沿って配置された武家屋敷を抜けて、高崎城主大河内氏の先祖の霊を祀ってある「頼政(よりまさ)神社」(高崎公園隣)へ行くのである。
武家屋敷には、やたらな者が入って来られないように、出入りできる道は制限されていたようだ。
そこで「屋台」は、この狭い小路を通って行かざるを得なかったという訳だ。(「高崎漫歩」より)

話ついでに、「宮山酒店」のことをもう少し。
「宮山酒店」は越後出身なので、屋号は「越後屋」というが、もうひとつ「火除屋(ひよけや)」という言い方もしていたそうだ。
高崎は、昔、大火が多かったらしいが、この付近で大火があった時に、「宮山酒店」の角で火が止まったということからの呼び名らしい。
昔の人は、大きな災いも粋な言葉で跳ね除けていたんだな、と感心する。
不景気なんぞに負けるな!日本人!!


【屋台小路】


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Posted by 迷道院高崎 at 11:37
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