今日は井野川の「大橋」を渡り、その先を辿ります。
明治四十年(1907)の二万分一地形図で、道筋の見当を付けてみました。
道は、集落の中へ入るのを拒むように、へりに沿って田んぼ中を通っています。
その田んぼ中も現在は宅地化が進み、呑み込まれた街道を辿るのは容易でなさそうです。
でも、昔の地図と現在の地図をじっと見比べていると、途切れ途切れではありますが、昔の道の形が浮かんできます。
「大橋」を渡ると道は三本に分かれますが、「以前は橋が斜めに架かっていた」ということからすれば、右の道に入るのが順当でしょう。
道の曲がり具合が如何にも昔の街道っぽいです。
180mほど行くと、塀に隠れるように石仏が建っていました。
馬頭観音らしいですね。
その奥に墓地があるようなのでちょっとお邪魔しました。
そこは轟家の墓地で、立派な女人講の塔が建っています。
街道へ戻って少し進むと、「井ノ貝戸児童公園」があります。
「実政街道」は、この角を左に曲がるようです。
曲がって80mほど行くと丁字路になってて、真っ直ぐ行くのが「実政街道」なんですが・・・、
左の道を覗くと、石碑みたいのが見えて気になります。
おー、立派な双体道祖神だ。
道案内役の猿田彦に「こっち!」って指図してるよ。
そっちは、通り抜けられないみたいだけど・・・。
丁字路に戻って真っ直ぐに100mほど行くと、前方の角に「酒」の大きな看板が見えます。
あぁ、思い出しました。
もうだいぶ前になりますが、この高橋酒店さんに「上州弁手ぬぐい」をお届けしたことがありました。
なんか、町内のお祭りの時に見せたいとか仰ってましたね。
高橋酒店から100mほど行くと道は左右に分かれますが、右へ進みます。
ここで「実政街道」は「東貝沢ハナミズキ通り」にちょん切られています。
区画整理前は、きっとこんな風につながっていたんでしょう。
「ハナミズキ通り」から100mほど入ったここを曲がると、また「実政街道」が続きます。
道なりに100mほど行くと、小さな橋があります。
おっ!「実政街道橋」だ!
昭和六十三年(1988)完成というのですが、プレートの文字が旧字体を使ってるのがいいですね。
90mほど進むと、右前方に神社が見えます。
「諏訪神社」です。
「上野国神社明細帳」では由緒不詳となっていますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
鳥居の横で「大黒様」が満面の笑みでお出迎えです。
「諏訪神社」のご祭神「建御名方神」(たけみなかたのかみ)は、「大国主神」つまり「大黒様」の子どもなんですけど、それと関係あるのかな。
境内の西南角には、手を握り合う「双体道祖神」が建ってます。
先ほどの「実政街道橋」を渡れば日高村です。
疫病や災厄が入ってこないように、村の入口に賽の神である道祖神を祀ったのでしょう。
驚くのは、ずらーっと並ぶ「猿田彦」の塔です。
「百庚申」というのはよく見かけますが、「百猿田彦」は珍しいかも知れません。
Wikipediaによると、庚申信仰は中国の道教に由来し、仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされ、神道では「猿田彦神」とされるのだそうです。
一番奥には、ひときわ大きな「猿田彦大神」。
その手前には「三猿」も。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
明治四十年(1907)の二万分一地形図で、道筋の見当を付けてみました。
道は、集落の中へ入るのを拒むように、へりに沿って田んぼ中を通っています。
その田んぼ中も現在は宅地化が進み、呑み込まれた街道を辿るのは容易でなさそうです。
でも、昔の地図と現在の地図をじっと見比べていると、途切れ途切れではありますが、昔の道の形が浮かんできます。
「大橋」を渡ると道は三本に分かれますが、「以前は橋が斜めに架かっていた」ということからすれば、右の道に入るのが順当でしょう。
道の曲がり具合が如何にも昔の街道っぽいです。
180mほど行くと、塀に隠れるように石仏が建っていました。
馬頭観音らしいですね。
その奥に墓地があるようなのでちょっとお邪魔しました。
そこは轟家の墓地で、立派な女人講の塔が建っています。
街道へ戻って少し進むと、「井ノ貝戸児童公園」があります。
「実政街道」は、この角を左に曲がるようです。
曲がって80mほど行くと丁字路になってて、真っ直ぐ行くのが「実政街道」なんですが・・・、
左の道を覗くと、石碑みたいのが見えて気になります。
おー、立派な双体道祖神だ。
道案内役の猿田彦に「こっち!」って指図してるよ。
そっちは、通り抜けられないみたいだけど・・・。
丁字路に戻って真っ直ぐに100mほど行くと、前方の角に「酒」の大きな看板が見えます。
あぁ、思い出しました。
もうだいぶ前になりますが、この高橋酒店さんに「上州弁手ぬぐい」をお届けしたことがありました。
なんか、町内のお祭りの時に見せたいとか仰ってましたね。
高橋酒店から100mほど行くと道は左右に分かれますが、右へ進みます。
ここで「実政街道」は「東貝沢ハナミズキ通り」にちょん切られています。
区画整理前は、きっとこんな風につながっていたんでしょう。
「ハナミズキ通り」から100mほど入ったここを曲がると、また「実政街道」が続きます。
道なりに100mほど行くと、小さな橋があります。
おっ!「実政街道橋」だ!
昭和六十三年(1988)完成というのですが、プレートの文字が旧字体を使ってるのがいいですね。
90mほど進むと、右前方に神社が見えます。
「諏訪神社」です。
「上野国神社明細帳」では由緒不詳となっていますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
「 | 永禄二年(1559)六月十五日、長野県諏訪郡中洲町諏訪神社より勧請という。」 |
鳥居の横で「大黒様」が満面の笑みでお出迎えです。
「諏訪神社」のご祭神「建御名方神」(たけみなかたのかみ)は、「大国主神」つまり「大黒様」の子どもなんですけど、それと関係あるのかな。
境内の西南角には、手を握り合う「双体道祖神」が建ってます。
先ほどの「実政街道橋」を渡れば日高村です。
疫病や災厄が入ってこないように、村の入口に賽の神である道祖神を祀ったのでしょう。
驚くのは、ずらーっと並ぶ「猿田彦」の塔です。
「百庚申」というのはよく見かけますが、「百猿田彦」は珍しいかも知れません。
Wikipediaによると、庚申信仰は中国の道教に由来し、仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされ、神道では「猿田彦神」とされるのだそうです。
一番奥には、ひときわ大きな「猿田彦大神」。
その手前には「三猿」も。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
【今日の散歩道】