2024年02月24日

追跡再開 実政街道(6)

今日は井野川の「大橋」を渡り、その先を辿ります。

明治四十年(1907)の二万分一地形図で、道筋の見当を付けてみました。

道は、集落の中へ入るのを拒むように、へりに沿って田んぼ中を通っています。

その田んぼ中も現在は宅地化が進み、呑み込まれた街道を辿るのは容易でなさそうです。
でも、昔の地図と現在の地図をじっと見比べていると、途切れ途切れではありますが、昔の道の形が浮かんできます。


「大橋」を渡ると道は三本に分かれますが、「以前は橋が斜めに架かっていた」ということからすれば、右の道に入るのが順当でしょう。


道の曲がり具合が如何にも昔の街道っぽいです。


180mほど行くと、塀に隠れるように石仏が建っていました。

馬頭観音らしいですね。

その奥に墓地があるようなのでちょっとお邪魔しました。
そこは家の墓地で、立派な女人講の塔が建っています。


街道へ戻って少し進むと、「井ノ貝戸児童公園」があります。
「実政街道」は、この角を左に曲がるようです。


曲がって80mほど行くと丁字路になってて、真っ直ぐ行くのが「実政街道」なんですが・・・、

左の道を覗くと、石碑みたいのが見えて気になります。

おー、立派な双体道祖神だ。

道案内役の猿田彦に「こっち!」って指図してるよ。
そっちは、通り抜けられないみたいだけど・・・。

丁字路に戻って真っ直ぐに100mほど行くと、前方の角に「酒」の大きな看板が見えます。

あぁ、思い出しました。
もうだいぶ前になりますが、この高橋酒店さんに「上州弁手ぬぐい」をお届けしたことがありました。
なんか、町内のお祭りの時に見せたいとか仰ってましたね。

高橋酒店から100mほど行くと道は左右に分かれますが、右へ進みます。


ここで「実政街道」「東貝沢ハナミズキ通り」にちょん切られています。


区画整理前は、きっとこんな風につながっていたんでしょう。


「ハナミズキ通り」から100mほど入ったここを曲がると、また「実政街道」が続きます。


道なりに100mほど行くと、小さな橋があります。


おっ!「実政街道橋」だ!

昭和六十三年(1988)完成というのですが、プレートの文字が旧字体を使ってるのがいいですね。

90mほど進むと、右前方に神社が見えます。


「諏訪神社」です。

「上野国神社明細帳」では由緒不詳となっていますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
永禄二年(1559)六月十五日、長野県諏訪郡中洲町諏訪神社より勧請という。」

鳥居の横で「大黒様」が満面の笑みでお出迎えです。

「諏訪神社」のご祭神「建御名方神」(たけみなかたのかみ)は、「大国主神」つまり「大黒様」の子どもなんですけど、それと関係あるのかな。

境内の西南角には、手を握り合う「双体道祖神」が建ってます。

先ほどの「実政街道橋」を渡れば日高村です。
疫病や災厄が入ってこないように、村の入口に賽の神である道祖神を祀ったのでしょう。

驚くのは、ずらーっと並ぶ「猿田彦」の塔です。

「百庚申」というのはよく見かけますが、「百猿田彦」は珍しいかも知れません。
Wikipediaによると、庚申信仰は中国の道教に由来し、仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされ、神道では「猿田彦神」とされるのだそうです。

一番奥には、ひときわ大きな「猿田彦大神」


その手前には「三猿」も。


さて、今日はここまでといたしましょうか。


【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)...続・実政街道

2024年02月10日

追跡再開 実政街道(5)

ここまでずっと「不動寺」から「町田橋」を渡るコースを辿ってきたのですが、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測圖」を見ると、そこに橋は架かっていないのです。
川を越えるとすれば水の中を徒渉り(かちわたり)することになります。

前橋へ行くのに、そのつど川を徒渡りするとは考えられません。
ということは「実政街道」の3つのルートのどれを選んでも、結局のルートに合流し「大橋」を渡って行ったのではないかと推測されます。

前回の「宝蔵寺」の西側道路を「井野川」へ向かうと、「ビューティ塚越」「辻田獣医科病院」の所へ出てきます。


そのちょっと下流に、「大橋」が見えます。


橋のたもとに、大きな碑が建っています。
「井野川改修工事竣功記念碑」です。


「高崎の散歩道 第五集」に興味深い話が載っています。
現在の井野川大橋は戦後の昭和二十八年(1953)に建設されたもので、その井野川改修記念碑が橋のたもとにある。
それ以前の井野川橋は木橋で、現在の辻田獣医科病院と塚越美容院の前あたりから斜めにかかっていた。」

橋が斜めに架かっていたというのは、地図で両岸の道を見ると想像できます。


その頃の写真がないかなぁと思って探してみると、国土地理院の空中写真の中にありました。

昭和二十三年(1948)のもので、まだ環状線は通っていません。
「実政街道」の3つのルートも写ってます。

現在の「大橋」は、平成四年(1992)に新しくなりました。


なかなかオシャレです。


「井野川」の正体は、龍の化身「おいの」だったんですね。

田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
井野の名は井野川からとったのであろうか。
町の北部、字屋ノ上には三つの湧水池があって、ここのまわり一帯は低く平らな地形になっている。
また、字天神には泥炭池があって、ここからは、弥生時代の木製品が発見されている。
井野の名のいわれは、湧水のあるこのような地形からきたものではあるまいか。
とすると、「井野」が先にあって、そこを流れる川ということで「井野川」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。」

さて、次回は「井野川」を渡って、その先を辿ることに致しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)...続・実政街道