さて、「松山城跡」へ行ってみましょう。
前回記事の「堀之内」と、前々々回記事の「大福寺」の間の道を通って行きます。
左の土手の上が「堀之内」なんで、いま歩いてる所は「堀の跡」ということでしょうか。
この石段を上りきったら、左へ行きます。
80mほど行くと、右手に登り口があります。
うゎー、きつそう。
急な石段を上った所に史跡看板が建っています。
「松山城」という割には、松の木が全然ないなぁと思っていたのですが、そうか武州松山城に因んでいたんですね。
本丸跡に祀られたという「琴平神社」は、さらに上です。
振り返ると、ずいぶん上ってきたのが分かります。
西の方に洞窟みたいのが見えたので、行ってみました。
中には何もありません。
そこから抜け出てきたかのように、近くに座っている石仏がありました。
台石に「子之権現」と刻まれています。
「子の権現」(ねのごんげん)は、足腰の守護に霊験のある神仏だそうですが、「室田町誌」に、ここに祀られた経緯が書かれています。
本丸跡の「琴平神社」まで、いまひと息です。
ふ~(◎_◎;)
社殿の前に、お百度参りの「数取」(かずとり)が建っています。
地域の人は、この急な石段を上って、こんぴら様にお百度参りの願掛けをしたんですね。
社殿の外観はまだしっかりしているように見えたのですが、中は大分傷んでいます。
鳥居もあったらしいのですが、倒れてしまったようです。
さて次回は、「松山城」に関連するもうひとつの史跡、「松仙寺」跡へも行ってみましょう。
本丸跡の東南端です。
前回記事の「堀之内」と、前々々回記事の「大福寺」の間の道を通って行きます。
左の土手の上が「堀之内」なんで、いま歩いてる所は「堀の跡」ということでしょうか。
この石段を上りきったら、左へ行きます。
80mほど行くと、右手に登り口があります。
うゎー、きつそう。
急な石段を上った所に史跡看板が建っています。
「松山城」という割には、松の木が全然ないなぁと思っていたのですが、そうか武州松山城に因んでいたんですね。
本丸跡に祀られたという「琴平神社」は、さらに上です。
振り返ると、ずいぶん上ってきたのが分かります。
西の方に洞窟みたいのが見えたので、行ってみました。
中には何もありません。
そこから抜け出てきたかのように、近くに座っている石仏がありました。
台石に「子之権現」と刻まれています。
「子の権現」(ねのごんげん)は、足腰の守護に霊験のある神仏だそうですが、「室田町誌」に、ここに祀られた経緯が書かれています。
「 | 子の権現はかつて下室田中町南裏滑川畔にあったのを清水家邸内(新井医院裏)に移し、昭和十年秋の滑川氾濫で流失してしまっていますが、上野名跡志に「室田子の権現境内に古碑あり云々」とあり、碑面には梵字の下に文保二年(1318)戊午二月とあったそうです。(略) |
清水正興武太夫家は、清水屋と号し、下室田中町で銘酒醸造を業とし、清水忠平当主の時代までつづけていましたが、昭和十年秋の水害のため不振となり、子孫は転居してしまいました。 | |
子の権現信者の人々は子の権現流失の翌年(昭和十一年)三月十八日、鷹留城跡に再建、昭和十五年四月には松山城跡中段にも座僧(像?)とともに建碑しています。」 |
本丸跡の「琴平神社」まで、いまひと息です。
ふ~(◎_◎;)
社殿の前に、お百度参りの「数取」(かずとり)が建っています。
地域の人は、この急な石段を上って、こんぴら様にお百度参りの願掛けをしたんですね。
社殿の外観はまだしっかりしているように見えたのですが、中は大分傷んでいます。
鳥居もあったらしいのですが、倒れてしまったようです。
さて次回は、「松山城」に関連するもうひとつの史跡、「松仙寺」跡へも行ってみましょう。
本丸跡の東南端です。
【松山城跡史跡看板】