旧柳瀬橋を渡って、中島(漆の内)の信号を左へ入るのが、旧中山道です。
そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。
「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。
鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。
現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。
「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。
句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。
一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。
「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。
この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)
「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。
その由来を書いた看板が、隣に建っています。
看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。
歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。
そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。
「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。
鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。
現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。
「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。
句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。
一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。
「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。
この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)
「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。
その由来を書いた看板が、隣に建っています。
看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。
歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。
【弁天島の芭蕉句碑】