2024年05月11日

追跡再開 実政街道(11)

「観音堂」の隣は、「東箱田・後家町公民館」です。
その先は二又になっていて、右へ入ります。


ところで、「後家町」(ごけまち)とは面白い町名ですね。
夫と死別した女性が多く住んでたのかと思ってしまいますが、調べてみてもその由来が書かれた本がありません。
いや、ひとつだけありました。
平成十七年(2005)発行の「わたしたちの地名」という本です。(出版:群馬県子ども会育成団体連絡協議会)
後家は、後ろにある家なのでしょうか。
それは、平安時代の中ごろまでは、耕地は国のもので、人々に分け与えていました。
平安時代の中ごろから鎌倉時代にかけて、荘園がつくられていきました。
各地に荒地や未開墾地が残っていました。
それを空閑(こかん/あき地)と呼んでいます。
この空閑が訛って、後閑(ごかん)や五箇(ごか)と変わって後家になったと考えられます。」

はて・・・?

「角川日本地名大辞典」にはこういう記述があります。
後家村
江戸期~明治22年の村名。
はじめ総社藩領、寛永10年高崎藩領、のち前橋藩領を経て、再び高崎藩領。(略)
幕末の改革組合村高帳では、倉賀野宿寄場組合に属し、髙76石余、家数7。」

ということで、家数のごく少ない小さな村だったようです。
その後も、明治十一年(1878)8戸、二十四年(1891)7戸の村でした。
もしかすると、村ができた当初の家数は5戸、つまり「五家」だったんじゃないかと思うのですが・・・。

二又を右に入って100mほど行くと、道の端に庚申塔などの石造物がいくつか並んでいました。


道を改修したときにでも、ここへ寄せ集められたんでしょうか。

さらに120mほど行くと、丁字路にぶつかるので右へ曲がります。


ひたすら真っ直ぐ700m、光ヶ丘団地を抜けて前橋-長瀞線に出たら、車に気を付けて横断し、左へ進みます。


すぐ先に右へ入る道があって、角に何か建っています。


はい、「真政(実正)の渡し これより東三百メートル」、裏面には「あずま道」のことも刻まれています。


標柱に従って100mほど行くと、利根川が見えてきます。


その先、左側に弓道場があって、


利根川に沿ったサイクリングロードに出ます。


サイクリングロードを北に入るとすぐ、弓道場のフェンス内側に「真政(実正)の渡し」の標柱が建っています。


今から14年前、偶然この標柱を見つけたのでした。
  ◇「実政の渡し」跡を探しに

対岸を見ると、こんな景色です。

旅人はここから河原に下りて渡し舟に乗り、対岸の「宗甫分村」に渡った訳ですね。

次回はその「宗甫分村」側へ行ってみましょう。



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Posted by迷道院高崎at 06:00
Comments(0)...続・実政街道