「観音堂」の隣は、「東箱田・後家町公民館」です。
その先は二又になっていて、右へ入ります。
ところで、「後家町」(ごけまち)とは面白い町名ですね。
夫と死別した女性が多く住んでたのかと思ってしまいますが、調べてみてもその由来が書かれた本がありません。
いや、ひとつだけありました。
平成十七年(2005)発行の「わたしたちの地名」という本です。(出版:群馬県子ども会育成団体連絡協議会)
はて・・・?
「角川日本地名大辞典」にはこういう記述があります。
ということで、家数のごく少ない小さな村だったようです。
その後も、明治十一年(1878)8戸、二十四年(1891)7戸の村でした。
もしかすると、村ができた当初の家数は5戸、つまり「五家」だったんじゃないかと思うのですが・・・。
二又を右に入って100mほど行くと、道の端に庚申塔などの石造物がいくつか並んでいました。
道を改修したときにでも、ここへ寄せ集められたんでしょうか。
さらに120mほど行くと、丁字路にぶつかるので右へ曲がります。
ひたすら真っ直ぐ700m、光ヶ丘団地を抜けて前橋-長瀞線に出たら、車に気を付けて横断し、左へ進みます。
すぐ先に右へ入る道があって、角に何か建っています。
はい、「真政(実正)の渡し これより東三百メートル」、裏面には「あずま道」のことも刻まれています。
標柱に従って100mほど行くと、利根川が見えてきます。
その先、左側に弓道場があって、
利根川に沿ったサイクリングロードに出ます。
サイクリングロードを北に入るとすぐ、弓道場のフェンス内側に「真政(実正)の渡し」の標柱が建っています。
今から14年前、偶然この標柱を見つけたのでした。
◇「実政の渡し」跡を探しに
対岸を見ると、こんな景色です。
旅人はここから河原に下りて渡し舟に乗り、対岸の「宗甫分村」に渡った訳ですね。
次回はその「宗甫分村」側へ行ってみましょう。
その先は二又になっていて、右へ入ります。
ところで、「後家町」(ごけまち)とは面白い町名ですね。
夫と死別した女性が多く住んでたのかと思ってしまいますが、調べてみてもその由来が書かれた本がありません。
いや、ひとつだけありました。
平成十七年(2005)発行の「わたしたちの地名」という本です。(出版:群馬県子ども会育成団体連絡協議会)
「 | 後家は、後ろにある家なのでしょうか。 |
それは、平安時代の中ごろまでは、耕地は国のもので、人々に分け与えていました。 | |
平安時代の中ごろから鎌倉時代にかけて、荘園がつくられていきました。 | |
各地に荒地や未開墾地が残っていました。 それを空閑(こかん/あき地)と呼んでいます。 |
|
この空閑が訛って、後閑(ごかん)や五箇(ごか)と変わって後家になったと考えられます。」 |
はて・・・?
「角川日本地名大辞典」にはこういう記述があります。
「 | 後家村 |
江戸期~明治22年の村名。 | |
はじめ総社藩領、寛永10年高崎藩領、のち前橋藩領を経て、再び高崎藩領。(略) | |
幕末の改革組合村高帳では、倉賀野宿寄場組合に属し、髙76石余、家数7。」 |
ということで、家数のごく少ない小さな村だったようです。
その後も、明治十一年(1878)8戸、二十四年(1891)7戸の村でした。
もしかすると、村ができた当初の家数は5戸、つまり「五家」だったんじゃないかと思うのですが・・・。
二又を右に入って100mほど行くと、道の端に庚申塔などの石造物がいくつか並んでいました。
道を改修したときにでも、ここへ寄せ集められたんでしょうか。
さらに120mほど行くと、丁字路にぶつかるので右へ曲がります。
ひたすら真っ直ぐ700m、光ヶ丘団地を抜けて前橋-長瀞線に出たら、車に気を付けて横断し、左へ進みます。
すぐ先に右へ入る道があって、角に何か建っています。
はい、「真政(実正)の渡し これより東三百メートル」、裏面には「あずま道」のことも刻まれています。
標柱に従って100mほど行くと、利根川が見えてきます。
その先、左側に弓道場があって、
利根川に沿ったサイクリングロードに出ます。
サイクリングロードを北に入るとすぐ、弓道場のフェンス内側に「真政(実正)の渡し」の標柱が建っています。
今から14年前、偶然この標柱を見つけたのでした。
◇「実政の渡し」跡を探しに
対岸を見ると、こんな景色です。
旅人はここから河原に下りて渡し舟に乗り、対岸の「宗甫分村」に渡った訳ですね。
次回はその「宗甫分村」側へ行ってみましょう。
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